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随想1 生命が先か経が先か
私の中に「生命(いのち)が先か経(経典)が先か」という問いが現れるようになって二年は経つだろうか。
「生命」は我々にとってまことに強力な思想である・・・良くも悪くも。
良い意味ではそれは我々が互いを
理解するための意識すらしない共通の前提である。悪い意味ではそれは我々の思考を制約する強力な枷である。
生命は地球の歴史という進化の過程のもとに数十億年前に発生し、単純から複雑へ、低級から高級へと枝分れし、考える生命である人間という種を生んだ。このようなとらえ方は、おそらく産業革命以降の近代のものであろう。その基本には「客観的」と「科学的」という概念があり、人間生活の物質的利便性を最優先する思想=物質文明が絶対的なものとしてある。そして、このとらえ方は近代物質文明の圧倒的な流布と浸透によって、我々の思想の前提となってしまった。しかしこれは、おそらくたかだか200年来の現象である。
我々にとっての「事実」や「現実」はこの思想の下にあるといえた。過去から未来へと続く時間概念はこの思想に色づけられていた。この思想の下に科学技術は希望の名をもって語られ進歩した。しかし大震災を引き金として科学技術は放射能をまき散らした。それは希望を持って語る未来を100万年にわたって汚染した。また大震災は人口減少問題を我々の意識の前面に押し出した。人口減少問題は既に震災以前に取り返しがつかないほど進行していたわけだが、まだ見て見ぬ振りをして避けられてきた面があった。しかし大震災はそれを一挙に顕在化させる一撃となった。これらは近代思想を前提とする我々にとっては、将来に対する萎縮、いわば「反希望」の雰囲気、出口のない閉塞感を醸し出すようになった。
震災後、私はこの近代思想に対して、不安と不信を伴った疑念を強く抱くようになった。しかしまた自分の生活感や日常の考え方の性向などは、疑念とは裏腹に近代思想に深く染まっていることもはっきりと自覚するようになった。疑念ははじめは漠然とした葛藤であったが、段々と根本的な批判を仏教の立場から試みてみようという欲求に凝縮してきた。その欲求が言葉となったものが「生命が先か経が先か」である。
「生命」という言葉は近代思想に深く色づけられていると考える。それはまたヒューマニズムにも通じ、人間優先の傲慢な思想の臭いをただよわす。さらにひらがなで「いのち」と書けば、これは現代の宗教や倫理的な話題を情緒的に語る時の常套句となってしまった。私はそのような「いのち」の使い方を嫌悪するのだが、また思う。いったいこの言葉を使う当人――特に仏教の指導的立場にある者――は、この言葉が近代思想に組み込まれている面をどう考えているのだろうかと。しかし同時に私自身がこの問題を整理できていないということも突きつけられた。
さて話は近代思想に戻る。我々はこの思想の下に生きることを当然としてきた。人生設計、政治姿勢、経済活動、学問、文化、仕事、趣味、食生活、結婚、子育て、終活、文明と自然・・・思いつくまま言葉を挙げてみたがこれらの言葉の意味でこの思想に染まっていないものはない、といっていい――などと、もったいぶった言い方になってしまったが、つまりは己が生きる時代において、己が発する言葉は否応なくその時代の思想に汚染される。これは当たり前のことである。
例えば私は今日、病院に行って毎日飲んでいる薬の処方を受け、血液検査を依頼した。そのために朝食を抜くという非日常の行動もした。自分の健康についての「客観的」な評価を得んがためであろう・・・と自分に対して突き放した言い方をしたが、医者からの評価を得て、自分の健康についてしばしの安心を得たい、という欲望は私の行動をほぼ100%拘束している。これは自分自身の欲望なのだが、省みれば近代思想に根を張っている。
また2018/02/08現在、もうすぐ開かれる韓国での冬季オリンピックについての話題がテレビで頻繁に流されている。私はそれをうんざりしながらも無視できずにいる。馬鹿馬鹿しいというにはあまりにも規模の大きな経済と開発行為の投入、北朝鮮の核ミサイル・自国が戦場となる戦争への恐怖とオリンピックを懐柔の道具とした駆け引き。その中の駒あるいは歯車の一つとならざるを得ない立場でありながらも、各選手個人としては人生を懸けた痛々しいまでの努力と無理を重ねた超絶技巧演技、これらのごった煮をぶちまける報道から醸し出される空虚さ・・・そういうものも近代思想の産物と思わざるをえない。そして私自身、他者や世間を斜に構えて批判するような姿勢を取っていられるはずもなく、この空しさの渦中にある。おそらく誰もがこの空しさを感じ、この渦中から出るに出られぬ限界を感じながら、しかもそこから出たいという心の疼きを感じるのである。
しかしこの思想の中に、その葛藤から抜け出る道はない。なぜなら抜け出るべきもの=主体は自分と他者の生命であり、抜け出るべき時は今より先の未来である。その方法は、今はないがこの先あり得るものとして先送りされ、それが希望の名で語られる。
先送りは過去現在未来の直線上の時間軸にあり、これは進歩の思想と切り離せない。100万年という時間の長さはこの思想にとっては、本来関係ないといっていい神話的な遠いものであった。しかし原発事故は放射能が無害化するまでの時間として、この長さを神話から現実へと引きずり込んだ。放射能は実害の軽重は関係なく人々に恐怖を呼び起こし、広大な無人地帯を現出させた。放射能の残存期間という事実によって100万年は容赦のない現実となった。
そうして、如何に希望を持って行動してもこの100万年の現実を解消することはできず、原発事故以前に戻すこともできない。人間という種が100万年後に存在しうるか・・・この問い自体が神話的・非現実的であった。しかし放射能は非現実的といって切り捨てようとする無責任な考え方に致命傷を負わせた。つまり近代思想は100万年という時間を担えるような強靱なものではなかったのである。そして事故対応のぶざまさと失敗と犠牲の連続によって100万年どころか、1000年すらも担えない脆弱な思想であることがさらけ出された。
そして確実なことはもし100万年後に人間が存在しうるとしたら、その人間は現代の人間と変わることなく、もがき苦しんでいるということである。なぜならその100万年の歴史は現代の放射能汚染によって確定されてしまったからである。
こうして生命は近代思想によって登場し、その思想を元にした文明の急激な膨張と爛熟の結末として現れた放射能によって100万年の軛(くびき)を負い、もがき続けなければならないものとなった。
未来に対してはこの通りである。では過去に対してはどうだろうか。近代思想の科学探究は、人間の歴史の数百万年、生物の歴史の数億年、地球の歴史の数十億年、宇宙の歴史の数百億年というスケールを扱うようになった。スケールとしてはなかなか立派なものである。しかしそこにスケールに見合うだけの中身はあるのだろうか。
宇宙の歴史の百億年のオーダーで説明されるものは物質と空間に関する事柄であり、そこに生命・精神はない。地球の歴史の数十億年も同様である。生物の歴史の数億年に至ってようやく生命に言及されるわけだが、そこに精神はない。人間の歴史の数百万年の中、さらにその最後部の数万年に至ってようやく精神が現れる。この、物質―生命―精神の連鎖が進化・進歩の言葉で説明されるわけだが、自己を反省的に検討しようとする立場においては、貧相極まりない内容であり、空虚な言葉としかいいようがない。
こうして、近代思想というものは、過去に対しては空虚、未来に対しては1000年の耐久性も持たない粗末なもの、しかも我々の日常生活と考えを隅々まで縛るものであり、我々はこの思想の下に生きざるをえないのであるが、この思想の枠内で真の満足を得ることはできない。一応このようにまとめることができるだろう。
その近代思想に対して仏教はどうであろうか。2500年の歴史を持ち、そこで扱う時間概念は劫という途方もない単位を認めている。それは仏教以前のバラモン教の思想を引き継いだものであろうが、ともかくも仏教の語りの中に組み込まれ、そこから厖大な経典が生産された。仏教徒は、その経典を真であると認めて――すなわち「仏説だから真である」という前提で――話を組立てる伝統の中にあったわけだが、それは「なぜ真であるのか」という問いを事実上起さずに済んだ伝統でもあったと思う。
(例えば親鸞は教行信証において大無量寿経を「真実の教」と定義するのだが、なぜ大無量寿経が真実であるのかという説明は為されていない。)
しかし、客観的近代思想が台頭する現代では、その立場に安住することは不可能である。さらに近代思想に疑いを懐く私としては、対峙させる仏教の語りと概念がなぜ真であるかを問うことは避けて通れない。
ここでは劫という時間概念が真であるのか――あるいは真でありうるのかどうかを検討する。
劫は周知の通りその単位時間の長さに諸説ある。今、岩波仏教辞典から三説を引く。
- 梵天の半日の長さ。43億2千万年。
- 一辺が1由旬(7キロメートル)の立方体の箱に芥子(カラシ菜の種)を充たし、百年に一度一粒を取り出す。これを箱が空になるまで続けても劫は終らない。
- 一辺が1由旬の立方体の岩山を百年に一度薄い毛織物で払う。これを岩山が削れて無くなるまで続けても劫は終らない。
三つの定義のうち、1はまだ分かりやすい。取りあえず、時間の長さが確定している。ウィキペディアによると、現代の宇宙論における宇宙の始まりは138億年前である。よって現在の宇宙の年齢は劫に換算すると約3劫である。しかしこのような説明は、測定の単位を法外に大きくしただけのことで、億で表わそうと劫で表わそうと表現が異なるだけの話にすぎない。己にとって無関係な空虚な時間であることに変わりはない。
2と3の定義は喩えの奇想天外さに目を奪われがちである。またその長さは2について以前に計算してみたことがあるが(「放射能の時間、仏の時間」)1の定義をはるかに超える長さである。しかしこの定義の本質は奇抜さや長さにあるのではない。「その時間の長さを経ても劫は終らない」という破綻した表現にあるのである。
つまり、ここで定義する劫を柄杓(ヒシャク)とすれば、その柄杓の底には穴が空いているのである。したがって劫で時間を表わすことは、穴の空いた柄杓で池の水を汲み出して池の容積を量ろうとするようなものである。汲み出すごとにある程度の水は減るだろう。しかし同時に柄杓の穴から水が漏れ落ちる。したがっていつまで経っても量り終えることはない。
この喩えでは注意すべきことがある。それは穴の大きさである。穴が小さければ、漏れる水は少ないので、水を汲み出すという目的にはかなり近づくことができる。つまり1の定義に近づく。しかし柄杓の底がすべて抜けていれば、いくら掬っても水は汲み出されない。つまりこの喩えは穴の大きさによって意味が変質するのであるが、ここでこれ以上その内容に踏み込むことは、本筋から外れるので控える。
さて、劫の定義で私が着目する点は「劫が終らない」という自己否定が含まれていることである。(想像するに、バラモンの伝統の定義は1で、2、3の自己否定を含む定義は仏教に取り込まれてから付加されたものではないだろうか。)すなわち、劫という計量の単位の定義の中に計量する行為の否定が入っているのである。
計量はすなわち分別、分析、能所(主客)の判断を表わすと考えてよい。またその計量によって計られた時間は直線的なものとならざるをえず、近代思想とその申し子である科学的思想の時間はそれしかないであろう。
計量の立場を離れぬままに劫の1の定義によって時間をいくら計っていっても時間の始めに達することはできず、時間の終りに達することもできない。なぜなら達したと思ったその外側に、それより前、あるいはそれより後があるからである。そうしてその時間とは貧相で空虚であり、今現に反省的検討を行っている自分にとっては、実は無関係なものなのである。この直線的時間軸を十劫たどり阿弥陀仏の正覚の時点を求めようとしても全く無意味である。つまり阿弥陀仏はこの時間軸にはいない。
このように点検してくると、劫の定義1は瑣末的なものであるとわかる。すると定義1と同質の時間概念を持つ近代思想も瑣末事である。近代思想に含まれる進化・進歩思想、さらにそこに含まれる人間優先のヒューマニズムを含んだ「いのち」も瑣末事であるとわかる。この「いのち」は主客の分別から離れきれていないものであり、空虚な量的無限時間を内に抱え込んでいる。近代思想は民主的な概念や人権思想を生み出し、近代世俗社会に生きる私はその恩恵を被っている、そしてその恩恵は重いものだが、しかし今現在の自己反省の局面においては、やはり瑣末事でしかない。
そこに思い至ったとき、これまで疑いない事実として絶対的と考えていた昭和31年3月16日生れの星研良という自分の現在に至るまでの半生と、その星研良を生み出した主客の分別を含む近代思想に根づいた歴史は、瑣末事として相対化される。星研良の「いのち」も同様である。それらは探求の関心から外される。代わって探求の関心となるものは反省的な自己と「劫は終らない」という否定表現である。
「劫は終らない」の意味は、直線的時間の上に始終を求めても無駄だということである。そのように知ることは直線的時間軸から「飛び出す」ことでもある。飛び出すというと大袈裟に考えてしまうかもしれないが、直線的時間軸を問題にしなくなるということである。そのような立場は、無限の過去・無限の未来を問題にしない、すなわちそれらを「超えた」「今」である。この「今」は過去・現在・未来と言い表されるところの現在としての今ではない。
この「今」は有限の単位で計っていく直線的時間軸を超えているのだから、その意味では「無限」「永遠」という言葉で表わしてもいいのかもしれない。しかしそれは量的な時間の長さの無限では決してない。そのような長・短で計ろうとする分別を飛び出して、今として全てを収める無限である。
そのように知る者は反省的な自分であるが、知るということは「今」と一致することである。それは「私」と無限が一致することであり、「私」と世界が一致することである。
これは私の心において起こることだから、唯心の境地といっていいだろう。ただしこの私の心は日常の分別心・近代思想の私の心ではない。この私の心を仏教では信心や覚りという言葉で表わしてきたのだろう。
ここに至った場合の「私」のリアリティ(つまり感じられる満足度と安心感)は近代思想の分別心の私のリアリティをはるかに超えるといえる。あるいは「はるかに超える」という人を驚かすような表現を避けて言えば、分別心の私のリアリティとは異質で充実したものである。
こうして、劫は反省的な自己において「今」を見出すとき真である、ということができる。
表題として掲げた問いへの結論はこうなる。
世俗的・分別的な「私」としては「生命が経より先」であるが、反省的「私」としては「経が生命より先」である。
この結論の後には、すぐに様々な検討しなければならない課題が湧いてくるのであるが、それらはまた今後折に触れて書いていくことにする。
2018/02/10