真宗大谷派 西照寺

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随想2 輪廻の検討


 近代思想を仏教の立場から批判するといって始めてみたが、省みれば仏教の立場というものが確固たるものとしてあるわけではなく、また単一でもない現状にぶつかる。仏教という入れ物の中にはインド、中国、日本という地域での伝播・変容・複雑化の2500年の歴史とその結果としての現実がある。私はその中でたまたま浄土門に属するので、仏教に対する理解は浄土門の文脈になる。その浄土門の文脈は曖昧な面が多々あるが、注意深くたぐれば釈尊から続く一本の糸を見出すことは可能と考える。しかし他の絡み合っている糸をほぐし選り分けつつ、たぐり出すことは苦労する作業になるだろう。これはつまり仏教のなかで要点と考えられる概念を、批判・検討し納得できる意味を見出していくことであるのだが、 それを行うのが近代思想に育てられた私であるわけで、私自身の中の仏教と近代思想との間を行きつ戻りつする作業が、近代思想の批判にもなっていくと思う。

 この随想では試行錯誤しながら文章を作り上げ、区切りの良いところで公開していこうと思っている。  文章の中で、論旨に直接関係しないが書いておきたいこと――例えば、引用文献の背景やそれに対する私の意見など――は、段落を変えその先頭に※を付けて表す。


では本題に入っていく。

 まず問題とすべきは輪廻の思想である。輪廻はさまざまな経典の語りの前提となっており、 浄土門の正依の経典・無量寿経でも例外ではない。現代の多くの仏教解説では輪廻は言葉の解説に終るか、あるいは無視され、犬の糞を踏まぬが如く避けて通られている感がある。私はその輪廻を敬遠する扱い方に長年もやもやとした不満を感じていた。この機会に不満を整理し私なりの輪廻の意義をはっきりさせたいと思う。
 そこで大乗経典が流通した当時の人々の世界観はどのようなものだったか、ということから入って行く。

 当時の世界観を図解を含めて分かりやすく説明した記述が『世親』(三枝充悳  講談社学術文庫)の102〜111ページにある。


※ 因みにこの本は三枝充悳(1923〜2010)著になっているが、中身は横山紘一(1940〜)氏との合作であり、量的には三枝四分の一、横山四分の三の分担である。どちらかというと三枝はインド仏教学の立場、横山は伝統宗学(法相宗)の立場で書いており両者の記述には溝が見られる(それを三枝は序文で正直に述べている)。そのようにして一書を成さざるをえないところに、仏教における学問と伝統の微妙な難しい関係と、活力の乏しさという現実を、図らずも浮かび上がらせてしまっている面があり、そういう意味で興味深い本である。と、ちょっと皮肉な書き方になってしまったが、この本は私の唯識の断片的な知識を整理させてもらう助けになった。


 『世親』102〜111ページの記述は紀元四世紀半ば頃の倶舎論からの引用であるから、無量寿経製作よりだいぶ後になってしまっている。しかし世界観は共有していたと考えていいと思う。

 その空間的な世界は、ヒマラヤ山脈をモデルとした須弥山を中心としてそれを海(内海)と山が七重に取り囲む。その外側には大海と東西南北に四つの大陸があり、自分達人間はその南の大陸の贍部洲(せんぶしゅう、閻浮提(えんぶだい)とも訳す)に住む。大海の外縁を鉄の山(鉄囲山)が囲み、そこが世界の涯である。この世界は円形で直径は百二十万三千四百五十由旬(約八五〇万キロメートル)ある。そしてこの世界は金輪(水が凝固して金になったもの、つまり氷か?)に支えられ金輪は水輪に支えられ水輪は風輪に支えられこれら全体が涯の無い虚空の中に浮かんでいる。
 私はこのような世界観は近代思想の宇宙論と同質だと考える。現代の宇宙論は科学的に実証されたものだから信用でき、昔のインドの世界観は非科学的な空想だから信じられないといった非難は、もっともらしいようで実は的が外れている。なぜなら主観の外部に客観として世界を構築する方法はどちらも同じだからである。

 世界は欲界・色界・無色界の三界に分れ、上記の空間的な記述は欲界にあたる。そして記述する当事者も欲界に住む。その欲界の贍部洲には人間と畜生と餓鬼が住み、地下には八層に分れた地獄がある。須弥山の中腹、頂上およびその上の虚空には階層化された天が住む。
 天は色界のレベルから空間的・物質的・肉体的なものではなく、精神的なものになる。これはどういうことかというと、世界を自己の外側=客観=境(器世間)として空間的に記述していたことが、色界からは、記述するその自己(主観)の精神の記述に移ると見ることができる。
 このような主観と客観を一つのカテゴリにぶち込んでしまうような書き方は、現代の理性的立場からは非常識と言わざるをえないものだろう。私も長年の間違和感があり感情移入できないでいた。しかし最近はこのような書き方もありうるか、と思う。

 色界の諸天には名に「禅」が入り(初禅天、第二禅天、第三禅天、第四禅天)、無色界の諸天には名に「定」が入る(空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、 非想非非想処定 )。すなわち禅定=三昧であり、精神の集中と安定の程度が上がるにつれ、自他・善悪・過去未来・悲喜・苦楽等の分別がなくなっていくのであろう。そうなるにつれて自己の生、輪廻の次の生、その生での寿命の長短なども問題としない精神状態になる。だからある意味、色界・無色界の精神状態は欲界の輪廻を超えているということができるし、永遠なるものに同化しているということができるのではないか。

 しかし、釈尊は求道の早い段階で無色界の最上位・非想非非想処定(有頂天)に達し、しかもそれを、求めている覚りに非ずとして捨てたという。何が問題だったのだろうか。それはおそらく、禅定から出てしまうと肉体を持つ我が身に戻らざるをえない、ということだったと思う。それはすなわち自他の分別をせざるをえないことであり、自己と世界の苦しみを受け続けなければならないことだった。したがって禅定の世界も輪廻の中にあると気付かされる。もしそのような肉体の軛から逃れたければどうすればよいか。思いつく唯一の方法は禅定に入ったままの自殺であるが、そんな馬鹿げたことができるはずもない。つまり禅定に入って有頂天にあったとしよう。その自他の分別がない状態でどうして自分を殺せようか、自分を殺すためには必ず禅定から出て、自分を認識しなければならない。それは自他の分別がある状態で、既に無色界の有頂天ではなく欲界の人としての自己にあることになってしまう。その立場での自殺は殺生の罪を犯すことになる。

 少々奇異な思考実験をしてしまったが、これによって「三界を廻る」輪廻は実は欲界の輪廻、即ち肉体を持つ輪廻の問題が本質だとわかる。そして欲界の六道の輪廻であるが、肉体を持つということは、六道のどの道にあろうと生死の苦がつきまとうということである。輪廻思想は仏教以前のウパニシャッドに起こり当初は簡単な生まれ変わりの思想だった。(例えば『インド哲学史』(金倉圓照 平楽寺書店)33ページ、「輪廻と業」)仏教はこの思想を受け入れ、おそらく説一切有部を中心とした仏教側からの加上もあって、ここで言及しているような体系的な世界観が出来上がったと思う。欲界の天や地獄の描写は想像上のものだと言ってしまえばそれまでだが、しかし、その描写を通して心を打たれることも事実である。いずれこの世界観を理解しようとする限りは、天や地獄を認めるほかはない。

 実はここで色界・無色界を、この世界観を持つ者の主観としての精神の領域と見るとらえ方は、本来の倶舎論の文脈とは違うものであり、色界の諸天に「禅」、無色界の諸天に「定」が付いていることから私が思いついたことである。
 本来の文脈では色界の天は欲界の天よりも「清浄な」肉体を持つ。その「清浄さ」が上位の天になるに従って強まり、ついには肉体が消滅し精神のみになるという文脈である。しかしこのとらえ方をしてしまうと、欲界と色界を区別する意味がぼやけてしまうと私は思うのである。なぜなら精神と肉体に表わされる主観と客観は縁起として相依相待であり、相互に繋縛しあっている。一方を除いた他方など本来ありえないことである。しかし本来の文脈はこのあたりの記述が曖昧である。倶舎論は有部の教説である大毘婆沙論への注釈であり、有部は存在の実体化(実は「実体化」と一言で片付けられない有部なりの理論があることが『仏教における時間論の研究』(佐々木現順 清水弘文堂)でsatとdravyaの区別として説明されている。しかしここでは大乗の立場に依る。)を認めるから、縁起の本来の意義を逸脱した解釈となり、このようなことになっているのかもしれない。世親は倶舎論の中で注釈をしながら時々有部への批判の鉾先を表わしているわけであるが、後に大乗に全面的に立った立場からの論法より、まだ弱い。そこに倶舎論の難しさがあり、この世界観を理解しようとする者に混乱と誤ったイメージを与えてしまう一因があると思う。
 要するに大乗は用語と世界観はそれ以前の部派仏教に依存しているにも関わらず、その用語と世界観が運ぶ意味や概念に対しては反逆を起している面がある。だから己が大乗の立場にあると自覚する者はこの問題に常に注意すべきであり、場合によっては用語の伝統的な意味を換骨奪胎する意識を持つべきではないかと考える。


※ 過去に私は『縁起』の「7.2.3有」において「この体系の分析は私の手に余る」と書いた。それから約十年を経て同じ問題をまた扱っている。寺の維持運営に力を割かなければならない住職としては、分析の助けになる知識をほとんど増やすこともできずに時を経てしまった。宇井伯壽がどこかで書いていた言葉――蟹は己の甲羅の大きさの穴しか掘れない――になぞらえれば、今の私は甲羅の大きさ(知識)は変わらず、掘る深さが十年前より少しは深くなっているといった立場である。


 さて、上に書いたように、自己の覚りを求める場合にすら「殺」と「罪」の問題がつきまとう。その罪の意識において、次の生を自己の善悪の所行において受けるだろうという、感情を伴った認識がはっきりしてくる。これはそもそもは六道輪廻という組織化された体系を知ろうが知るまいが、人間として生まれたという根本的な事実において起こる感情である。その感情を六道輪廻に載せて言えば、次の生は、仮に自己の善行の功徳として欲界の天の長寿を得たとしてもそこでの終りがある。こうして六道の輪廻は決して抜け出ることのできない必然として思い知らされていく。だからここでの世界観は一見すると客観を描いているように見えるが、実はその時間世界に行き渡っている苦悩を描くことを要点としているといえる。したがって自己と無関係に客観を描く近代の世界観とは質的に異なるのである。そういうことで主客を同じカテゴリで論ずるやりかたも一理あると言わなければならないだろう。

 今私は「次の生を受けるという感情を伴った認識」そしてそれは「人間として生まれたという根本的な事実において起こる感情である」と書いた。しかしそれは本当にそうなのであろうかと反問する。たかだか二十年位前までは、死後の事は経験不可能だから問題にしないという、不可知論的常識が世間の主流であったと思う。それは特に明治以降の近代化の潮流の増大に伴って、我々の思考の方向性を強く規定するものとなった。その強さはこの規定から外れようとするには障害となり、事実上、流れに身を任せることが唯一の選択となったと思われる。この流れは死後を不問にして現世――現在の自分の生と他者の生――を最大化することにより、物質的に豊かな社会を作り上げた。歴史は生者の連続であり、連続の役目を果した先人の死は生者に意味を与える脇役としてとらえられた。
 物質的な豊かさは、更にそれを拡大して求める勢力の争いとなり、二度の世界大戦と大量殺戮を生み出した。それはコインの両面の如く大規模な消費社会と地域間格差を生み出し、また地域内での貨幣所有の多寡による階級格差を生み出した。その中で日本は地域間格差の上位に位置し、清潔で秩序ある安全な消費社会を実現したわけであるが、それは裏面において、血塗られた近代史(アウシュヴィッツ、広島、長崎 ・・・)と、現在の無数の犠牲(死という犠牲を要求して維持される社会体制(例えば少し前の自衛隊海外派遣による自殺者、現在騒動中の森友問題の自殺者 ・・・)、動物(畜生道にある者)を殺戮することによって維持される消費社会)の上に成り立っている。それらの犠牲は不可知論的常識においては正面から省みられることはなかった。こうして我々の前には、この常識では予想もできなかった生者の寿命の延長・高齢化によって、消費社会が維持できなくなるであろう不安が立ち現れてきている。このような大規模で複雑な現実に対して、死後を問わない不可知論的常識は対応できるのだろうか。

2018/03/20

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