真宗大谷派 西照寺

ホーム > 雑文・文献・資料 > 清沢満之 > 『カント』意訳

『カント』意訳


はじめに

 私は『純正哲学』を意訳した後、これを基礎として清沢の宗教哲学関連文献の解釈に取り組もうと思っていた。 しかし、少し考えてみて、未だ清沢の哲学的背景を知ること充分でなく、清沢の使う哲学用語の意味合いを、 もう少し掘り下げる必要があるということに気づいた。
 その必要を満たしてくれる清沢の文献は何であろうか。今村先生の示唆(『清沢満之と哲学』の 「序説 清沢満之研究の方向と目的」)や『純正哲学』意訳時に知り得た峰島旭雄氏の論文 (「明治期における西洋哲学の受容と展開」)の内容などを考え合わせた結果、西洋哲学史講義の 「カント」と「ヘーゲル」の部を意訳すれば、清沢が使う哲学用語の必要最低限の背景知識は得られるのではないか、と踏んだ。 そして作業に着手し、ここに先ず「カント」の意訳を終えた。
 意訳してみると、ページ数が52ページで『純正哲学』(46ページ)より若干多めだった。しかし作業の実感は 『純正哲学』の時よりもかなり面倒なものであった。時間的にもおそらく1.5倍程度はかかっている。 カントを解説する清沢の文章には、どう解釈すべきか迷うものや、細部の意味が取れないものが結構多いのである。 清沢におけるカントの扱いは、重要ではあるが非常に批判的なものとなっている。その姿勢が文章に表れているためだろうか。 (講義録であるから、厳密には清沢が書いた文章とは言えないのだが、清沢の講義の姿勢が反映されているとは言えるだろう。)
 私は自分の非力さの故に解釈が行き詰まる都度、清沢自身苦虫を噛み潰したような心境で講義原稿を書いていたのではないだろうか、 とか、大毘婆沙論だいびばしゃろんに注釈を加えていた世親も清沢と同様の心境ではなかっただろうか、 などと妄想しつつ、半日休み、一日休みしては作業を続けた。(行き詰まった時はとにかく休むに限る。 無理して続けようとしても死にたくなるだけだ。休んでいる間も心は問題の周りを逡巡する。それを傍らに置きながら、 答えが熟して現れるのを待つ。)
 清沢のカントに対する評価は最後の「総結批評」に明確に表れている。しかし、出来ればこの総括でもう少し詳しい 批評を展開して欲しかった。特にここで出ている図の意味解説をきちんとやって欲しかったという憾みがある。 この部分は清沢の解説がほとんど無いので、私の嵌め絵的解釈でのつじつま合わせとなった。
 このような事情で、出来上がった意訳を通読してみると非常に読みにくいものとなっていた。部分毎の文章に関しては、 つじつまが合うよう骨を折ったつもりではあるのだが、全体の読みにくさは如何ともしがたい。 これはカント自身の論の展開の仕方に起因するものと思う。この意訳をお読みになる方には、最後の「総結批評」で 溜飲を下げることを目標に、辛抱して通読されることをお願いする。

2009年7月8日 星 研良

前ページ トップ 次ページ

『カント』意訳

更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
緒論

第一章 純智の批判(純粋理性批判)

第二章 実智の批判(実践理性批判)

第三章 判断の批判(判断力批判)

総結批評

-----意訳終了-----

原文

pdf版(印刷用)

 (C)西照寺 2007年来