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『ヘーゲル』意訳


第三章 エンチクロペディー 第三部 精神哲学

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1 主観的精神

 これは三部〔人間学、精神現象学、心理学〕に分れる。
霊魂・精神というものは、自然(万有)の真髄であるため、自然の中に埋もれてあったが、段々に自然の繋縛を脱して、 自ら顕れてくるに至った。
 〔精神が繋縛を脱する〕自由ということが、第一に大切なことで、この自由が働きを顕すには種々の段階がある。
 先ず、自然の中から顕れて、初めて自ら認めた時は、自然の魂(万有霊魂)とか、自然の精神という中に包まれている。 それを研究するのが、人間学(人類学)である。
 この段階では自然と感情が一つである。そして、自然の色々なありさまに感じて働いて、気候の変化、日夜の変化、地球の位置、 人種の不同、その他の生活の様相、身体の形状といった外形的な事情が、精神に強い働きを及ぼす。そればかりでなく、 その人の天性が色々ある。また年齢や、男女の性別、精神の活発・不活発等の事情によって変化する。よって、 その精神的部分はおもに感覚である。これも外物の刺激を感じるものである。それが段々に進んで感情となる。 刺激を受けて精神が増強される。その上に、自己感情というものが起こり、自己を感じるようになる。 この自己感情は自覚に至る第一歩である。
 この自己感情から、知識を再現する段階等を経て、自覚の働きを成すに至るまでが精神現象学が研究する範囲である。
 次に自覚という段階になると、外物と自分の心とを区別して、自己にはどれだけの特徴ある働きがあるかを よく知っていくということで、自己への段々の覚知をしていく。それが到達する点は、自己の人格を認めるという思想である。 ここで、自己は自由の働きを為すものであることを充分に認めるようになる。
 その中で、初めは我の自由の中に他人の自由は許さない。すなわち、自己の自由の覚知と他人の自由の覚知とが衝突する。 我儘な働きを為しているレベルである。それがまた段階を進み、我と他人は同じものである、 他人とはつまり我が外に顕れて在るということと同じである、という普遍的合理的な性質に達する。 これを研究するのが心理学(心霊学)である。

 以上のように主観的精神は人間学、精神現象学、心理学の三部に分れる。

2 客観的精神

 このような合理の精神が、初めはただ理論的でその働きがある、と認めただけであるが、更にそれが明らかになっていくと、 そこに止まらずに働きを発動するようになる。すなわち、精神が自由の意志に依って実際の働きを為す。つまり、 精神が外部に発動するという位置に立つ。これが客観的精神である。
 その中で第一に法(正義)(法理学)がある。自由意志が客観的に顕れて、実際に普く認められる。それを権利という。 精神の働きを顕し、自由を実際に一般に認めたものである。
 そこで、一個人というものは、権利を所有する人あるいは法人となる。そうなると、一人と多数人との間で、 財産上の関係が出てくる。ただ一人では、所有・不所有ということは問題にならない。財産を所有するということで、 持っていることの表現とか譲与とかいう色々なことが起る。
 そこで人と人との間に契約が起る。これが段々進んで国家を成すまでに至る第一歩である。しかし契約だけで国家を成すとは言えず、 一個人の上の財産の権利を認めるだけである。しかし、その認めかたが〔所有者〕一人のみの働きではなく、 複数人の共同の働きで認める。よってそこに一個人の意志と共同の意志との衝突が起る。
 ここに刑罰が起る。これは一個人の特別の意志に対して、共同の意志がその働きを加えるもので、 刑罰によって人を誡めるとか励ますとかいった目的で行うのではない。刑罰というものは、各自が自分の働きで自分を責めるのである。 何故かといえば共同の意志には自分の意志も入っているからである。よってその意志が自分に帰って働く。(ここら辺は面白い。)
 刑罰は自分の上に働いて自ら責めるということにもなる。そのとき自分一人で責めるのではなく、一般の意志になって責める。 その一般の意志と特別の意志との間に対立がある。その対立が外に顕れているところを刑罰という。これは法(法理)の部に属する。
 ところが、これが自己の内に入り込んで主観の方に移された時には道徳(道法)になる。道徳のところでは意志の自由という働きで、 自分の行為を自分で決定する。すなわち、自分で自分を支配するのが道徳である。すなわち一個人として自分の中の悪しきところを、 一般にあるべき正義に応じて直していく。
 このとき、道徳はちゃんと箇条になっている。それは規則を守るというようなことではなくて、 目的に従って義務を果たしていくということである。第一に決定、第二に目的、第三に善という要素である。 何かを為そうと思うときには決定が必要である。決定する為には目的が無ければならない。そこには善がある。
 善とは特別な主観的な意志が、普遍の意志と一致することを言う。(特別、主観的とは我々各々毎に異なっているものを指す。 それが普通の正しい道理に叶うところに一致が見られる。これに対し特別意志が普遍意志を圧倒するという不合理のものを悪という。)
このように主観的、すなわち精神内に善悪の意志がある間は道徳の部に属する。
 それはただ心の中にあるだけで、まだ現実に達してはいない。それが現実になると主観的意志と客観的意志が一致する。 それを倫理という。
 道徳は、心の中にこのようにしなければならない、という考えがあるが、未だ外界に現実としては表れていない。 それが表れたとき倫理という。そして実地に表れるときは色々な様相になる。その倫理の様相を挙げる。

(1)一家族
 これは結婚によって成り立つ家族である。この家族の範囲内に各自の実行が顕れる。ここでは結婚ということが大切な事実である。 これによって一つの道徳の実行が顕れる。

(2)市民社会(部落)
 家族が多く寄ってある一つの社会である。この中では一人一人が独立のものではあるが、市民社会(部落)内での 需要の一致に依って法律が作られ、その制限を各自が受けて市民社会として統一されている。生命財産を大切にして、 互いに保護することにより、需要供給の方法が立てられている。
 このように市民社会では沢山の人間が統一されている。しかしなお、その中では一個人が主になっている。 一個人毎の生命財産の安全を保障するために共同の法律に統一され、各自はそれに従うという理由である。

(3)国家
 市民社会が一段進むと国家になる。ここに至ると一個人毎の利害というものが、倫理的全体という観念に吸収される。 一個人の利害を主とせず、国家全体の利害を主とする。

 このような国家が沢山あって世界全体の人類を形成している。その歴史的進行が世界史上の現象となる。 そのレベルでは人類の総体というものにおいて、一精神の支配を見るということになる。
 この一精神、すなわち絶対精神が大段落であり、次の節の絶対的精神である。
(例えばセム語族(アッカド、アラビア、アラム、ヘブライ)の人種、白人種といったものが国家が拡大したものである。 人種は個別の国家から拡大して人種となる。それらの絶対の統一のところが絶対的精神である。)

3 絶対的精神

 絶対的精神は客観的精神から主観的精神に自帰している。すなわち、絶対の理念を全存在(万法)の真理と知ることが、 絶対の精神である。精神が客観的に働いているとき、その客観的なもの(外界にあるもの)の真髄は 前に言及した主観における絶対理念である。

 その第一番目が美術である。美術では、客観的実体中に理念を直覚する。彫刻、絵画、音楽を見たり聞いたりするとき、 それは単に五官が認知しているというだけではない。そこに理念を見ている。すなわち〔人物が対象であれば〕美人の理念を見る。 客観的な実物の上にちゃんと理念を見ている。この中に感覚の媒介に依って理念を見るものが五種類ある。
(1)建築
 これはその形質の中で質が勝っている。形はそれほどではない。よって理念の顕れ方が少ない。
(2)彫刻
 色々な形を得て理念の顕れ方が進んでくる。
(3)絵画
 質の方面に様々な形や彩色が出てきて理念が一層多く顕れる。
(4)音楽
 空間上の関係が無くなって感覚も耳に感ずる結果に依って想像を動かす。
(5)詩歌
 耳に感ずる感覚に依るが、それが主ではなく、そこから起る想像、あるいは精神の感動が主となる。
 この詩歌の中にも色々あるが、要するにここに至ると、他なるもの(外物)を感覚するということが、極めて少なくなる。 この詩歌から一転すると、宗教の領域となる。

 第二番目が宗教。すべての個別なる有限差別の上に絶対の存在力を見る。すなわち理念を見る。美術の場合は実物の上に理念を見た。 宗教の場合はその特別の有限の差別を解消して理念を見る。理念が直覚に依らず、概念に依っている。この宗教に三段階ある。
(1)東洋のアニミズム(万有教)
 これは水神、火神、木神、山神、風神というように自然の勢力を崇拝する。
(2)霊的個別神の宗教
 これに何種類かある。
 ヘブライのユダヤ教、これは勢力の強い神で、畏い人のような神である。
 ギリシャのジュピター神、これは情ある柔和な神である。
 ローマ教の神。勢力も智力も持っている、道徳の厳しい人のような神である。
(3)啓示宗教(天啓宗教)
 キリスト教である。ここに到ると理論上のことは純正哲学と変わらなくなる。しかし宗教という立場では歴史上の表現を纏っている。

 第三番目が哲学。ここに到ると、概念という形になる。すなわち啓示宗教の歴史的表現という外形を取り去ってしまったものが 哲学(絶対哲学)である。

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『ヘーゲル』意訳

更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
緒論

第一章 エンチクロペディー 第一部 論理学(論法)

第二章 エンチクロペディー 第二部 自然哲学(万有哲学)

第三章 エンチクロペディー 第三部 精神哲学
1 主観的精神
2 客観的精神
3 絶対的精神

批評

-----意訳終了-----

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