真宗大谷派 西照寺

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『カント』意訳


第二章 実智の批判(実践理性批判)


 カントの実智批判は、道徳の原理を究明する極めて大切なもので、世界の倫理の諸説の中でこれほど清浄高潔なものは無い とまで言えるものである。
 この実智の働きにおいては、善ということが倫理上根本のもので、最も大切な問題であるという。よって善を研究することから始まる。 善には絶対善と相対善がある。
 相対善とは様々な種類の善である。
 絶対善とは、善良なる意志である。この意志は道徳律〔道徳性の格律(Maxime)〕に対する純粋な尊敬から起る。したがってこの意志は、 通常の意志─喜怒愛憎の感情から起ったり、利の為とか、家の為とかいった動機から起るもの─とは違う。宇宙間に道義・法律がある、 それに対する尊敬より起るものでなければならない。すなわち、良心に感ずるところの最も純粋な中で、 かつ情より起るものでなければならない。
 さて、この意志が起ったとして、しかしそれが外面に顕れる結果については、あまりこだわる必要は無い。意志を起した本人に、 才智とか都合の良い性質とかが備わっている場合は、この意志の助けになることもあるが、それらは付属的なもので、 本当に必要なものではない。このような付属物は悪の助けになることもあるのだから。 以上のような絶対の善ということをカントは大変やかましく言う。

 この絶対善は意志であるから、心の中のものである。これに心の外のものが関係することは、 却ってその純粋性を汚すようなものである。よってこの意志が善であるとすれば、それ自体のみで善であるので、 何かの為に善いというものではない。幸福が絶対の善と相応し、善とみなされる場合はありうるが、 幸福そのものは絶対善ではない。ただし義務という感情は大切である。この意志は道徳律に対する義務と言ってよい。

 以上の次第であるから、道徳律は経練的なものではない。純粋に先天的なものである。全く経験に依らず、極めて普遍的なものである。 また絶対的なものである。
 カントはこれを正説的命令(Categorical Imperative)〔定言的命令(岩波文庫版 pp.86)〕と言う。 (道徳律というものはカントの神である。)
 正説的命令は極めて強いもので、我々の意志を支配する。その支配の仕方は絶対的に支配し命令する。苦しかろうと楽しかろうと、 利も損も頓着することなく「このようにせよ」と命令する。
 この命令は理性から出てくるもので、下等な心からは出てこない。すなわち純智の極点から出てくる。そして実智の働きを支配する。 すなわち純智が実智となるところである。
 これによって自由という必然が直ちに起ってくる。すなわち実智が絶対的命令を下すからには、 それに応じて働く自由がなければならない。
 故に、純智の立場では「自由」は、確実にあるとは証明できない、むしろ現象界には無い、と見なされたのであるが、 実践の知識では根本の観念となる。
 すなわち、我々において、独立自由の能力があるということが道徳上の根本となる。

 ところが、ここに問題が一つ明らかになる。実智が命令するという仕組は納得できるが、具体的に何を命令するのか、に注目すると、 この命令は我々の経練的な面との関わりを抜きには考えられない。そして、経験的意志の性質とは目的に向うということである。 目的に向うとは、苦楽の感情に支配されて向うということである。なぜ、苦楽に支配されるかというと、 主観に苦楽を感ずる性質があるからである。
 そうだとすると、経験的意志の働きとは感情の起伏に支配されるということになる。その感情の起伏で意志に関係するものは 快楽・幸福である。
 しかし、この作用は〔個人に属するものなので〕普遍的作用とすることはできない。よって〔普遍的な〕絶対的命令〔絶対善〕が、 この作用を引き起すことはないはずである。絶対的命令が引き起すものは、それに相応して普遍的に作用するものでなければならない。 快楽幸福に動かされるものでは、普遍的とは言えない。ある作用をAは快楽とし、Bは不快とすることがあるからである。
 そうすると、普遍的な作用とはどのような働きか─これは一つの格律に従うということである。すなわち「汝の為すことが、 普遍法の原理となりうるように為せ」という格律である。すなわち「自分の行為は他に施しても差し支えない」と判断できるとき、 それを絶対の命令と受け取れ、ということである。
このようにすれば、下等な刺激による妨害を防ぐことができる。この命令には誰でも従わなければならないから、 すべての人の意志を一致させることができる。
 この格律に従わせるものは何かというと、先の道徳律である。つまり、なぜこのような命令に従うかというと、 別の何かのためということではない。道徳律に対する絶対の義務として、命令に従うのである。自分の為ということでもない。 むしろ、そのような利己的・虚飾的感情を討ち滅ぼすような感情が起り、道徳律に従うのである。 この感情は崇敬あるいは尊信と言うべきものである。
 この感情は猥りに起るのではなく、純智の極点から起る。この感情は苦しくもあり、楽しくもある。なぜ苦しいかというと、 圧倒されるからである。その圧倒する力はどこから出るかというと、我が純智より出る。我で我を支配する、 これほど楽しいことは無い。

 さて、このようにして到達するところはどこかというと、最高の善、無事情的な善である。通常、人の行う善は事情的な善であるが、 最高の善はそんなものではない。絶対の善である。この善は徳と幸福の二つから成る。充分の徳義と充分の幸福がそこに顕れる。
 徳義と幸福の関係について、分析的と総合的な様相がある。分析的とは、古代ギリシャの倫理学者が言うように、 徳に幸福が伴うのか、幸福に徳が伴うのか、ということである。
 ストア派は徳に幸福が具わるという。エピクロス派は幸福に徳が具わるという。つまり、どちらかが付属物となる。
 カントはこの二つとも間違いであるとする。すなわち徳と幸福は総合的一致でなければならない。 徳と幸福は相互に原因結果の関係にならなければならない。徳があればその結果として幸福がある、かつ、 幸福があればその結果として徳がある、ということである。
 ところが、実際はそうではない。徳と幸福の不一致が起る。それをカントは次のように批判的に解釈する。
 徳と幸福とが一致しないという判断は、現象世界について言うことである。徳と幸福が相互に原因結果になるという判断は、 本体世界について言うことである。よって本体世界で最高の善が得られる。その世界とは実地の世界〔物自体としてよいか?〕である。 〔この後「即ち実際世界なり。」の文があるが、これだけでは本体を指す実際なのか、現象を指す実際なのかが分らないため、 意訳からは外す。〕
 よって、この世界に来ると霊魂の不滅と神の存在ということが定説となる。霊魂不滅が何故なければならないかというと、 完全の徳に達するには今のままではいけない。無窮に進歩していかなければ完全には達し得ない。 このような進歩は永久の存在の上において語り得ることである。故にどうしても霊魂不滅でなければならない。
 神が何故なければならいかというと、完全の幸福を得るには、我々の徳義に応じて相当の幸福を与える主が居なければならない。 故に神が居なければならない。
〔この段落の展開は、表面的かもしれないが大乗菩薩道、浄土門では法蔵菩薩・阿弥陀仏の体系と酷似している。 ここでいう神は阿弥陀仏に置換可能である。これはつまり、仏教が有神論に陥っているかどうかの試験方法のヒントを 提供していると言えないだろうか。〕
 以上、実智批判の概要である。

 先の純智の批判で壊滅させた宇宙論、霊魂論、神学をここで復活させたのである。しかしこれは、合理宇宙論、合理心学、 合理神学を構築する意図を表明したものではない。ただどうしても、それらがなければならない、ということを表明しただけである。
 この実智の批判、すなわち倫理哲学は宗教と同じような説を成している。その論調は宗教は倫理に帰する、と言わんばかりである。 カントの考えでは、道徳がすなわち宗教である、というようになる。
 しかし、宗教と道徳の関係に二通りあるという。宗教が道徳に依るか、道徳が宗教に依るかである。もし、道徳が宗教に依るときは、 恐怖と希望が徳行の原理となる。しかし、これは間違いである。よって宗教が道徳に依らなければならない。さらに言えば、 宗教は必ず道徳に至る。
 何故なら、最高善というものは、必然の理想である。その理想は、神無しには成り立つことができない。 そこで宗教とはどういうものかというと、我々の義務というものを、神の命令と認めるところで成立する。 宗教とは〔神というものを介在させる〕それだけのことである。
 道徳も宗教も〔結果として我々に〕義務を果たさしめる。その道徳律をすなわち神の命令と解釈するのが宗教である。
 宗教には顕示宗教と自然宗教がある。
先ず神の命令を認めて、そこから義務を知ると言う場合が顕示宗教である。
先ず義務を認めて、そこから神命を知ると言う場合が自然宗教である。
そして、どちらの場合にしろ、神の命令を充分完全に顕し完成するために必要なものは教会である。教会とは道義的な会合である。 教会には不可見の教会と可見の教会がある。
 不可見の教会とは、経験上には顕れないものである。これはただ観念上に存在するもので、正義に従う全ての人は 〔経験上に顕れる各自の思想信条が千差万別だとしても〕結束して神の道徳的支配に従う。 このような人々の観念的一致が不可見の教会で、カントはこれを極楽の有様という。
 可見の教会とは、この世界に天国を顕す。それには必要条件がある。条件はちょうど範疇に応じている。

(1)分量
 全体、あるいは普遍的であること。(万国同胞主義)
(2)性質
 純潔でなければならない。すなわち道義という一点において集まり一致する。迷信や犯信が混入してはならない。
(3)関係
 教会の構成員は各自の自由を尊重し、交際しなければならない。階級制度を設けるローマ法皇のようではいけない。
(4)模様
 教会の制度は変化があってはならない。小事には変化を許しても、根本の制度は変化してはならない。

 カントはこのように可見の教会を立てる。さて実際に〔現象として〕教会を立てるには、歴史的に成り立つべき根拠が必要である。 よって教会には、いつでも二つの元素がある。 一つは純道徳的信仰、もう一つは歴史に表れ伝承された教義に従った信仰である。
 二つの信仰では道徳的信仰が大切である。しかし、実際にはこれだけで成り立つことは困難である。したがってその補完のために、 歴史に表れた信仰も必要になるのであるが、肝要なことは歴史上の信仰の構成要素を、純粋道徳上の信仰の要素に常に一致させる努力を 怠らないことである。よって〔歴史的に色々な形で表れた各宗教の〕教義を解釈する場合も、道徳上の見解から進まなければならない。 すなわち、その意味を取るには道理に合するようにしなければならない。

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更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
緒論

第一章 純智の批判(純粋理性批判)

第二章 実智の批判(実践理性批判)

第三章 判断の批判(判断力批判)

総結批評

-----意訳終了-----

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