真宗大谷派 西照寺

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『カント』意訳


第三章 判断の批判(判断力批判)


 前二章の批判において、二つの世界、知識と意志の部の内容を見終わった。必然の世界と自由の世界の二つを調べたことになる。 しかし、この二つが別々のもののように離れている。その間の関係を付けるのが苦楽の感情である。 これを判断の批判という書で述べている。
 前の二批判では、純智の批判では悟性が主に、実智の批判では理性が主になっていた。ここでの判断力というものは、 ちょうどこの中間の働きで、悟性の概念作用と理性の原理作用を結びつける働きである。

 判断は特殊のものを普遍の規則に従え、色々沢山の概念を一原理に従えるという作用をなす。そして万有世界に意匠 〔自然の合目的性原理(岩波文庫(上) pp.40)〕を認めるのが、この判断力の作用である。 (意匠とは沢山のものが別々になっている状況を、一つの大いなる巧みによってまとめられていると、見なすことを言う。)
 意匠を認めるには主観的、客観的の二種の認め方がある。
 主観的部分で言えば、万有が我に対するとき、我々は一種の感情を起す。すなわち、快楽・苦痛の感情である。 そして万有は我が為に作用していると感じる。我というところで万有と調和し、一体化しているのである。この時、 美麗・壮大という喜びを感じる。
 客観的部分で言えば、一つの事物に対して他の事物を考え、その一つの事物のために他の事物が働くことを認める。このとき、 事物と事物が調和することを認める。そして、万有が相互に目的に応じてある、すなわち万有の間に意匠があると認める。

〔主観的部分の批判〕
 主観的部分の作用を審美的能力という。審美的能力は美麗と壮大とを感じる働きである。その美麗と壮大をそれぞれ四つの範疇に 当てて説明する。
・美麗
(1)分量
 美麗なるものは全ての人に例外なく満足を与える。例えばある絵が美麗というとき、自分一人が言うのでなく、誰が見てもそう思う。
(2)性質
 美麗なる働きは純粋な私なき満足である。私あるとは、自己一人だけに満足の利益あることを言う。 美麗は満足をもたらすのであるが、自己一人だけという制限が消滅する。通常は快いという場合は私というものが付いている。 しかし、美麗の満足は無私である。
(3)関係
 美麗なるものは、他の目的のために意味を持つのではなく、それ自身で意味を持っている。すなわち、 それ自身の意匠を具えているのでなければならない。例えば美麗なる絵はそれ自身で美麗であって、他の為に美麗であってはならない。
(4)模様
 美麗なるものは、必然に満足を与えなければならない。これは満足を与えるという意向などではなく、 現前に与えるというだけでは足らず、必然に与えるということでなければならない。

・壮大
 大なるものである。どのようなものと比較しても、それより大きく無限のもので、実物には無いものである。 しかし、心には実物を壮大に似せる働きがある。すなわち心に無限の観念を思うを壮大と言う。これに二種類ある。
一つは数理的壮大。これは広がりに大なるものである。
もう一つは動学上の壮大。これは勢力の大なるものである。ナイアガラの滝、日光滝、養老滝等から連想されるものである。
 壮大なるものは、どのようなものでも心を刺激してはじめは苦痛を生じて、そこから転じて快楽を生ずる。 従って前の美麗を正面の愉快とすれば、この壮大は反面の愉快と言ってよい。
(1)分量
 壮大なるものは、他のものと比較して絶対的に大なるものである。何倍になるかと数えて大なるのではなく、直覚的に大なのである。
(2)性質
 壮大なるものは、純粋の愉快を与えるのではない。先ず苦痛を与え、次に愉快を与える。 想像しようとしてもしきれないところに苦痛が生じる。想像はできないが、道理においていかなるものよりも勝れると知った時 愉快を生じる。
(3)関係
 壮大なるものは、一つの勢力の形を持つ。我々はそれを知ったとき、それが他のいかなるものより勝れると感じる。
(4)模様
 壮大なるものは、美麗と同じく必然に満足を与える。しかし美麗ほどには誰でも一般的に得られるというものではない。 〔最初に苦痛を与えるので敷居が高い。〕
しかし得られる愉快は必然的なものである。〔つまり苦痛を通過した場合は、必ず愉快を与える。〕

 このように美麗と壮大の二つに対して働くのが審美の能力である。しかし、審美能力の判断について、 自分の判断と他人の判断が一致するのは難しい場合が起る。何故かというと、この判断は主観的であるから、 人毎に異なると思われるからである。しかしまた、一つの判断を一般の共通認識として通さなければならない場合が出てくる。
 そこで古来から審美的判断の争いは出来ないと言ってきた流れがある。その一方で、審美判断は人毎に同じでは無いと 言ってきた流れも併存した。よってこの背反を説明しなければならない。
 この背反は、実は外見上そう見えるだけで、精密に見れば背反ではない。なぜなら、審美上の判断は一定の概念に 依るものではないからである。したがって厳密に証明することができないものである。かつ明確でない概念に基づくものなので 争いの出来ないものである。
 これが一定の概念に基づくものであれば、論争ができる。各自が自分の持つ概念に依るときは、それぞれの立場で争えばよい。
 審美の判断は基本的に不定概念のため、争いを生じないのであるが、しかし、それでも概念であるから、 人毎に判断の差異が少しは認められる。
 このように段々と批判してくると。事物が我々の判断力に対して適合すること─美麗とか壮大とか感じられること─が、 事物自体の方にあるのか、それとも我々自身の方にあるのか、どちらであるかということが問題となってくる。
 古来、この問題は審美上の実体論と唯心論(観念論)の二つに分れる。
 審美上の実体論では、事物が我々の想像を刺激して美麗・壮大と感ずるように作られている。事物にそのような性質があるという。
 審美上の唯心論(観念論)では、我々が事物を知覚するところで、美麗・壮大の感情を起すという。
 そして、ここではこの二論の中間を取る。事物が我々の感情を動かす〔実体論〕、その感情は事物を知覚するところで起る〔観念論〕。

〔客観的部分の批判〕
判断の意匠的(目的論的)能力の批判
 判断の意匠的能力とは客観的に意匠を見るのであるが、その見方に外面的と内面的の二つがある。
 外面的な意匠の見方とは、一つの物が他の物の為になる、ということである。松の木が鳥が巣を作る為になる、 藪が雀の為に宿となる、砂地が松林の生育の為になる、というようなことである。しかし、このような「為になる」は偶然のことで、 米が人間を養う為になる、と言っても、全人類が必ず米に依っているのではない、たまたまある人々にとって 米が為になっているに過ぎない、というようなものである。
 意匠の真の意味は内面的な見方にあって、人間を含めた有機物の上に表れている。これらの有機物において、 一つの部分が他の部分の為になる。心臓が血を循環させることは脳髄の為になる、脳髄の作用は心臓の為になる。 つまり有機体の機関は、機関各自の為にはそれ自身が存続することが目的となり、他の機関の為にはそれらが存続する為の 手段となり方法となる、という有様である。それらの関係は、機械的な作用としては説明できない。また単なる物質運動としても 説明できない。
 そうすると、ここに二極に分れた見方が現れる。一方から見れば、万物間には機械的・物理的作用があるだけである。 もう一方から見れば、有機物には意匠的・目的論的構造がある。この二極をどのように解釈すればよいか。
 意匠的観念は規範的原理としてあり、現前の事物の構造は機械的である。そして我々はこの機械的な構造が作られたのは、 意匠的計画によってであると思うべきである。そうすると万有の組織とは一個の大なる全体で、それは意匠者の計画から出たものである、 と万物を統一して考えることが出来る。(その場合でも、観念は規範的原理で、現前の事物は機械的組織として見て行かなければならない。)

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『カント』意訳

更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
緒論

第一章 純智の批判(純粋理性批判)

第二章 実智の批判(実践理性批判)

第三章 判断の批判(判断力批判)

総結批評

-----意訳終了-----

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