真宗大谷派 西照寺

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『カント』意訳


緒論

1 導入

 近世に入って、デカルト以来、次第に哲学者が輩出しそれぞれ説を立てては、それへの反論が起きるという状況が続いた。 バークリまでのこの状況を概括すると唯物論、唯心論の二つにくくられる。唯物論はロック、ヒューム等が唱え、 唯心論はライプニッツが唱え経験学派に反対した。しかし、どちらも心を本とする学派である。 そしてどちらも完全ではなく欠点を免れなかった。
よってこの唯物・唯心の心理学派の論は何故成り立たないかを研究するところから、カントの心理学派は起こり、 唯物・唯心の中庸を取った。これを批判哲学と称する。
 この「批判」とは検定の意味で、心の作用を検定する学派である。つまり、それまでの学派は唯物、唯心を唱えたが それらが基礎にする「心の作用」で哲学が組織できるか否かを検定・批判するのがこの学派である。 よってこの学派の説は心理学のようなところがある。

 心理学┬唯物┬批評(批判)哲学
    └唯心┘

そしてこのことにより歴史に名を残すことになった。この説は唯物・唯心のどちらにも偏らない。
心とは外物に刺激されて現に活動する「心の作用」とそれに対する「外物」があると説く。 換言すれば主観と客観の二つが相対して心の作用が生ずると説くので、唯物・唯心の中庸になる。
さらに換言すれば、我々が認める現象界は、唯物のみでは起らず、唯心でも起こらず、物・心の二者が統合して、 非物・非心の現象界を生起する。よって唯物・唯心の中となると説く。
 ここで「現象」という言葉について注意を挙げる。
「現象」という言葉を使えば、そこに「本体」という観念が生じる。この「現象」が非物・非心であるということは、 その「現象」の「本体」はまた非物・非心でなければならない。 本体と現象の関係を図解すると次のようになる。

    物
 本体─┼─現象
    心
    
〔つまり、現象の側からは物・心の二者が不可欠であり、その向こうに本体が予測できる。 本体の側からも物・心の二者が不可欠で、その向こうには現象がある。〕
この唯物論、唯心論と批判哲学を歴史上の主な哲学者と対応させると、唯物論にはロック、ヒューム等、 唯心論にはライプニッツ等が当る。そして批判哲学は、イマヌエル・カントである。

2 略歴及び哲学の概要

 カント(1724年4月22日〜1804年2月12日)はドイツの東北に当るケーニヒスベルクに生まれた。 通常の教育を受けてケーニヒスベルク大学の教授となった。この人はライプニッツのような多彩な経歴は無く、 そういう面では地味であった。規則正しい生活を送り、隣人はカントが散歩に出る姿を見て、今何時か知ったという。
 カントの哲学思想の起源は、その著書で述べられている通り、ヒュームの説に刺激されたところにはじまる。ヒュームは懐疑学を唱え、 その中で特に数理・物理における「必然」を論破しようとした。はたしてヒュームの論ずるように数理・物理の必然が 成り立たないとすれば、学問における理論と言うものも到底成立しないことになる。そして我々の思想は混乱を 極めたものということになろう。
 この問題を解明するために、カントは数理・物理の必然を力を尽して研究した。すなわち、数理学・物理学は成立するか否か を解明することがカント哲学の問題であった。そしてこれを『純智の批判(純粋理性批判)』で論じた。 この書は専ら理論によって構成されている。
 そして、この理論を実際上に及ぼし実践的に論及したものが『実智の批判(実践理性批判)』である。
 さらに進んで、この二つの批判を統合したものが『判断力の批判(判断力批判)』である。
 カントには他の著作もあるが、彼の哲学の主要部はこの三大批判の書に表されている。そして基礎部分は 『純智の批判』に書かれている。この内容は、数理・物理の必然は成り立つか否かを検定するところにある。

 さて、この「数理・物理の必然」は経験的に定めることは不可能である。なぜなら、「必然」を経験で決定しようとしても、 経験は完全ではない。そして必然を定めようという経験であれば、完全な経験を必要とする。
 例えば、「Aは凡ての場合でBを生ずる。」という命題が成立しなければならないとする。このとき、万一、 AがCを生ずればこの命題は成り立たない。
 経験によってこの命題がありうる凡ての場合の始めと終りを尽そうとすれば、始めは知りうることもあろうが、 終りについては無限の場合を尽さなければならないのだから、知ることはできない。よって経験はどうしても不完全を免れない。
 そうなると、経験に依るのではなく、思想に依って必然ということが成り立つかどうかを決定しなければならなくなる。
 これをカントは先天的(ア・プリオリ)、後天的(ア・ポステリオリ)という語を用いて次のように説明する。 必然というものは先天的なもの(思想)に依るのであり、後天的なもの(経験)に依るのではない、と。そして、 必然ということは常に先天的なものに依るのである、と言った。
 したがってカントは哲学の問題を表現して
「どのようにして先天的判断が成立しうるのか?」という問にまとめたといえる。
 この先天的判断というのは、必然を表している命題において、その必然がどのようにして成立しているのかを 明らかにするものである。これは先に言った数学上の命題の必然に避けようが無くつきまとう。
 そして、この先天的判断の中に分析(分解)と総合とがある。
 分析(分解)命題の成り立つことは無論で説明は必要無い。つまり、「数学は数量の学である。」 というような命題は成立することが決まっている。このような「定義」はすべて分析的命題である。
例えば「三角形は三個の角を有する形である。」と言えば、これは一つの三角形を三つに分析しただけのものであるから、 成り立つに決まっている。
 次に総合命題というのは「三角形の内角の和は二直角である。」「直線とは二点間の最短距離である。」といった命題である。 この種の命題の断定が成り立つか否かを考えると、これらの命題の主辞をどれだけ分析・分解しても賓辞(Predicate:述部)における、 二直角あるいは最短距離という述語は出てくるはずがない。すなわち、これらの命題は分析命題ではない。これを総合命題という。
つまり、総合命題とは主辞にあるものと賓辞にあるものとがそれぞれ独立しており、それらが結びついているものである。

 この総合命題が先天的に成り立つかどうかを研究するのである。総合命題の中でも、後天的に成り立つということが容易に 確認できるものと、先天的に成り立つと確認することが難しいものとがある。例えば「灰を吹けば蛇が出る」と 「チョークで字を書くことができる」という二つの命題がある。初めの方は成り立たないことが明らかである。 後の方は成り立つ。これは何に依って成り立つかといえば、実地にチョークを持って字を書いてみればよい。 つまり、この命題が成立することは後天的すなわち経験によって確認できる。
 カントが問題にするところの総合命題の成立可否は、後天的命題ではなく、先天的命題について研究するものである。

カントの有名著書と出版年
『純智の批判(純粋理性批判)』 1781
『実智の批判(実践理性批判)』 1787
『判断力の批判(判断力批判)』 1790
『純智限内の宗教(単なる理性の限界内における宗教)』 1793

この他にも天文、物理、地理、神学、哲学の小著が沢山あるが、哲学上の大著は上に掲げたもので、 この中でも『純智の批判(純粋理性批判)』が基礎的で重要なものである。
 『純智の批判』での大問題とは、総合的命題が先天的にどうして成り立つのか、ということを論ずるところにある。 経験学派に言わせれば、経験を抜きにして先天的に判断はできないと言う。また唯心学派に言わせれば、 一切のことは先天的でなければならない。カントはこの二説とも成立不能であることを知り、 総合的判断の先天的説明をせざるをえなくなった。その内容は次の通りである。

 判断というものはたしかに経験を待たざるをえない。経験という元素を待ってはじめて知識というものが出来てくるのだが、 判断における知識はすべてが経験から来るのではない。実は外来の経験的元素と内在の非経験的元素の二つがあって、 この二つによりはじめて判断知識が出来上がる。よって経験論者も唯心論者もそれぞれ幾分かは正しい。

 さて、この内在の部分(或いは元素)だけで出来る判断(或いは内在の元素だけに関する判断)は経験を介さなくてもできる。 そしてこの判断は経験の元素を待ってはじめて事実となるのだから、そこから考えると経験の元素を得ていないときは、 事実では無いという意味で「虚形」である。そこでこの虚形が実体となった場合でも、内在の元素に関する部分は先天的に 判断が出来ると解釈するのである。知識は経験から「始まる」とは言うが「起る」とも「生ずる」とも言わない。
 この内在の部分を例えれば煙草盆、座布団の用意をしているようなもので、客(経験)が来なければその用意の功用は顕れない。 よって虚形である。主(内在)、客(経験)調和のところに初めて知識がある。そしてこの知識に総ての現象がある。 実事・実物の本体は我々は知ることはできない。虚形に経験的元素の加わったものが現象である。 我々が知るところのものは現象である。
 カントが現象というときは、単なる事物を指しているのではない。我々の心に内在・外来の両元素が相依って知識を生ずる、 その知識の中に事物が入っているところを現象と言っているのである。これを図示すれば次の通り。

  内在判断(虚形)
   ↓
   +知識の現象(事物)
   ↑ 
  外来経験(実体)

 我々の知識の区域は経験に限られる。よって本体は知ることができない。従って、もし知識が経験の外に及ぶなどと言う場合は、 それは妄想・誤論である。よって、従来の哲学者が心の本体学、宇宙学、絶対本体学、合理心理学と言ってきたものは、 知識が経験の外に及ぶものであるから全て誤っている。宇宙創造、霊魂不滅などは我々の学問では確認することはできない。 しかし、それらを虚形だけのものとして扱うときは〔思想の展開のために〕幾分かの利用価値はある。 しかしこれらを外来元素のあるもの(経験)と同じく扱うのは誤りである。実の知識とは内在・外来の両元素が結びついて 成立するものである。

 カントはこのような捉え方で批判に入っていくのであるが、心理学派に属する人なので批判の方針としては、 心の能力を三つに分類しそれぞれに批判を展開するということを行う。三つの心の能力とは
  一 知識、二 感情、三 意志   〔知、情、意〕
である。

 第一の知識(或いは知力)について。この中に原理を保持する。保持すると言ったが原理全体が知識と言ってもいい。 よって知・情・意全ての作用を支配する理法を持っている。この原理の中で知識のみに関するものは純粋理性である。
 第三の意志について。第一の原理の中で意志及び行為に関するものは実践理性となる。
 第二の感情について。第一の原理の中で感情に関するものは判断力となる。
よって、カントの三批判(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)はこの三種の原理を批判するものである。

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『カント』意訳

更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
緒論
1 導入
2 略歴及び哲学の概要

第一章 純智の批判(純粋理性批判)

第二章 実智の批判(実践理性批判)

第三章 判断の批判(判断力批判)

総結批評

-----意訳終了-----

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