真宗大谷派 西照寺

ホーム > 雑文・文献・資料 > 仏教の歴史 その1

仏教の歴史 その1


2012年5月19日 同朋の会から

 今回から仏教聖典の付録の「仏教通史」にそって仏教の歴史の解説をします。何回になるかちょっと分らないのですが、進めていきます。
 仏教の歴史の話は十年位前に一度行っております。その時は、ここにあるプロジェクターやノートパソコンなどの便利な器械は揃っていなかったので、黒板に下手な絵を描いたりして説明したものでした。聞いている皆さんも大変だったと思います。今回はもう少しビジュアルに説明できるかと思っています。
 また私も前回よりは少しは勉強が進んでおり、現代の立場からみた仏教の歴史とはどういうものかという視点で説明できればと思っています。
では本題に入っていきます。本日説明する部分を読んでみます。

一、インド
それは人類の精神史の上における最大のエポック・メイキングな世紀の一つであった。アジアの光はそのときあかあかと中インドに点ぜられたからであり、あるいは、別の言い方をするならば、そのときそこに滾々こんこんとして湧きいでた智慧と慈悲の泉は、やがて多くの世紀にわたってアジアの人びとの心を潤すものとなって今日に及んでいるからである。
ゴータマ・ブッダ、後の仏教者たちによって「シャーキャムニ」(釈迦牟尼)すな わち「シャーキャ(釈迦)族よりいでし聖者」とたたえられるその人が、家郷を立ちいでて出家しゅっけし、南の方マガダに至って、ついにかの菩提樹ぽだいじゅのもとにおいて正覚しょうがくを成就じょうじゅしたのは、およそ西暦前第五世紀のなかばごろと推定される。それより、「大いなる死」(大般涅槃だいはつねはん)に至るまでの四十五年、彼は智慧ちえと慈悲じひの教えをひっさげて、たゆみない伝道説法の生涯しょうがいを続けた。その結果、同じ世紀の終わりごろまでには、大いなる法城が、中インドの国々及び諸部族の間に不動に築かれていった。(286〜287ページ)

ということでお釈迦様が生まれてから亡くなるまでのあたりを説明します。
まずインドについていろいろ見てみます。

画像1
『ブッダの旅』Dページ、及びGoogleMap。

インドの面積は日本の約9倍、人口は10倍ということで人口密度でいうとインドの方が日本より過密ということになります。日本は過密な国だと思っていたのですが、インドは日本の9倍の広さの土地に日本よりさらに過密に人が住んでいる。こうして比べてみるとよくわかります。
 これは現代の話ですが、お釈迦様在世当時の全世界の人口は1億人いるかいないかでした。その頃の日本人口は200万〜300万人です。インドは何千万人という程度だったでしょう。そういう規模の中で四大文明の一つとしてインドのガンジス河、インダス河流域で文明が栄えた。インドの地図の赤枠でくくった所がお釈迦様が活動した地域です。

画像2
『ブッダの旅』Diiページ

 インドの文明がどうしてできたかというと、もともとドラヴィダ人という土着の人々がいました。そこにアーリア人という征服民族が北から侵入してきました。これが四千年前位で、その征服と共に文明が発展してきた。  そしてインドのヒンズー教(昔のバラモン教)はどのようにして出てきたかというと、征服民族が現地の民族を支配する、そういう差別構造のなかで出てきた。ですからバラモン教の聖典であるヴェーダが形作られた時からカースト制度はあった。インドの場合、カーストが無い世界はありえない。平等などということはそもそも考えにも出て来ない。人間は必ず何れかのカーストにあるものだ、という考えです。

 そういう土地にあってお釈迦様はどんな動きをしたか。赤枠でくくったところの拡大図です。
 生誕はルンビニーです。今のネパールとインドの国境です。そこにあった小国の王の子として生れた。生れてすぐに母が亡くなります。王は妻の妹を娶り、その継母の下で大切に育てられた。20歳前後で結婚し、子供も生れた。29歳までお城にいてその後出家しました。子供の時からの覚りを求める気持ちがここで押えきれなくなって出家したと言えます。
 家を捨て、家庭や財産を捨て、綺麗な着物を捨て頭を剃って出家した。後で写真を見て頂きますが、この時はまだ仏教はできていません。現代の我々は「頭を剃る」ということは坊さんになる、仏教徒になると思うでしょう。しかし、この時はまだ仏教はありません。つまり、仏教以前から出家者は頭を剃るという習慣があったわけです。これは何故かというとバラモン教の習慣がそうだったからです。これも含めて不動明王とか帝釈天とか我々は仏教の事と思っていますが、すべてバラモンの習慣だったり、神々であったりします。仏教は後でそれらの物事を取り入れている。ですから非常にややこしいことになる。仏教とバラモン教(ヒンズー教)は教えは全く違うのに、形は結構似ている。香を焚くとか灯明を点けるとかも同じです。私も今回調べてみて改めて仏教がコピーしたのだなということがわかりました。ですから出家というのはバラモン教では当たり前のことだった。
 そして、この当時のお釈迦様の居たガンジス川流域は文明が栄えて肥沃なところでした。農業生産性が高く食べ物が豊富だったと考えられます。出家者というのは働かないわけですから、世間からすれば怠け者です。そして、一般人から衣食を恵んでもらって生活する。それだけ余分な生産物があったから出家という生活形態も認める社会ができた。そういう習慣のあるところに生れたことが良かったわけです。そうでなければお釈迦様は覚りを得ることができなかったでしょう。

 出家してガンジス河支流のガンダキ河に沿って下り、修行の師となる先生を求めて旅をします。色々な先生に会うのですが満足できず、自分一人で覚りを得ようと苦行をはじめます(ガヤ―近郊のナイランジャー(尼連禅)河畔ウルヴェーラー)。凄まじい苦行で肉体を徹底的に痛めつけて覚りを得られるかということを五年ほど行いました。しかし、結果としてそんなことは無意味であったと気付き、スジャータ―という娘から乳の粥を貰って食べ、体力を付けて木の下に静坐して覚りを得るまでこの場を動かないという命がけの決意で精神集中に入りました。そうして何日かを経た後、覚りに達した(成道ジョウドウ)と言われています。その木は釈尊が覚り(菩提)を得た木ということで菩提樹と言われるようになり、その場所はブッダガヤーと呼ばれるようになりました。それは釈尊35歳の12月8日の明け方だったと伝説されています。12月を中国では臘ロウと言ったのですが、禅宗系の寺院では釈尊の成道を記念して臘八ロウハツと言って修行を行うようです。

 さて釈尊は覚りを得ましたがまだ仏教は始まっていません。自分一人が覚っただけではまだ始まらず、その覚った内容を人に伝えてその人が覚りを得たときはじめて教えが成り立ちます。釈尊は覚りの内容を人に伝えるかどうか、とても悩みました。そもそも言葉にできないものを言葉によって人に伝えようとしなければならないわけですから。悩んだ末にやはり人に伝えなければならないと決意します。ではまず誰に伝えたら良いでしょうか。
 苦行時代に釈尊と行動を共にしていた5人の出家者(五比丘)がいました。彼等は釈尊が苦行を捨てたとき、釈尊を見限り離れて行きました。覚りを得た釈尊には彼等が頭に浮かび、彼等に覚りの内容を伝えようと決心しました。そのとき五比丘はどこにいたかというとヴァーラナシー(ベナレス)のサールナート(鹿野苑ろくやおん)というところです。釈尊の居るブッダガヤーから240キロ離れています。240キロというと新幹線で仙台・宇都宮間の距離です。釈尊が何日で行ったのかは分りませんがそういう距離です。何故そこに五比丘がいるのが分ったのかという疑問があるのですが、釈尊はその後もこういうスケールで動き回ったようです。釈尊はサールナートにたどり着き五比丘に覚りの内容を伝えた。最初に比丘の一人が覚り、その後全員が覚った。釈尊はそのとき「世に6人の阿羅漢が現れた。」と言ったそうです。阿羅漢とは覚者のことです。自分と五比丘で6人です。ここではじめて仏教が成立します。釈尊の覚りの内容が他者に伝わり、そこに教えが成り立ち、教えを共有する集団ができます。その集団のことを僧伽(サンガ)と言います。仏教を信ずる仲間という意味です。「僧」という言い方はこの僧伽から取られています。
 この時から僧伽がはじまってどんどん大きくなって今に至るというのが仏教の歴史です。五比丘を覚らせた釈尊の初めての説法を初転法輪しょてんぼうりんといいます。
 その後、釈尊の弟子になる人がどんどん増えて、僧伽は教団といったものになっていきますが、その中心拠点になった場所がラージャグリハ(王舎城)です。そこに寄進された精舎、合宿所であり、講堂でもあるもの、要するに寺の原型が建ちます。ラージャグリハのビンビサーラ(頻婆娑羅)王は竹林精舎を寄付します。そういう何百人単位で宿泊できる精舎が、色々な場所で王や長者などから寄付されます。そういう富裕な階層があったからではありますが、釈尊にそのような人々を引きつける魅力がなければ、大規模な精舎が寄付されるはずはありません。こういう点から見ても釈尊は普通の人ではないと思います。偉大さの格が違うというか。
 釈尊は覚りを得てから四十五年間、様々な拠点を巡りながら教えを説いていきますが、それらの拠点でも精舎を寄付されています。80歳でクシーナガルという所で亡くなります。(入滅)
入滅された時には相当な教団になっていたと思われます。以上が釈尊の生涯のあらすじです。

 さてこれから仏教が発祥したインドの環境ということで写真を見て頂きます。まずヒンズー教―釈尊の時代にはバラモン教―の写真を見て頂きます。これから出す写真は次の本から引いています。

  岩波新書 『ブッダの旅』 丸山勇著(1000円)

興味を覚えた方は是非お買い求めください。

 これは面白いです。河原に座って瞑想する修行者ですが、見覚えありませんか。・・・
 水墨画でこういう絵がありませんか?・・・・
達磨さんです。水墨画は白黒ですが、達磨さんの被っている着物はこれと同じですね。私はこの写真を見て、ああこれだと思いました。つまり西暦500年頃インドから中国に来た仏教僧で禅宗の開祖の菩提達磨(達磨さん)は、バラモンの修行者と全く同じ格好をしていた。そしてこの格好はバラモンの約三千年の歴史の中でほとんど変わっていない。
画像3
『ブッダの旅』9ページ
これはヒンズー教徒が毎朝行う沐浴の写真です。精神を清めるために。河の水で穢れを落とすということでしょうか。 画像4
『ブッダの旅』19ページ
そういう沐浴する場所が決まっていてガートというそうです。そのガートにこのように人が集まるようですね。
 これが敬虔なヒンズー教徒です。仏教徒ではありませんから(笑)
こういう光景が至るところで見られる。
画像6
『ブッダの旅』15ページ
これはヴァーラナシー(ベナレス)の町ですが、この町は全体が火葬場と言って良いようです。ヒンズー教徒にとっては死んだらここで火葬にしてもらうことが最大の願いだそうです。ここで火葬にしてガンジス河に流してもらうと輪廻して生まれ変わっても悪い生にいかなくなる。天に昇って輪廻の苦しみから離れられると考えられている。全国から火葬のために集まって来ますので生焼けのまま河に流される遺体もあるとか。 画像6
『ブッダの旅』17ページ
これは遺体に薪を載せて、これから喪主が火を点けるところです。
私も是非一度見学したいと思っているのですが、たぶん行けないでしょうね。
私としては葛岡(仙台市の火葬場のある場所)で焼かれるより、こちらの方が好みですね。(笑)
画像7
『ブッダの旅』20ページ
次は自然環境を見てもらいます。

釈尊が覚りを得られたガヤーのあたりの風景です。
植物が育つ時期にはこのように青々とした光景です。たぶん水田だと思うのですが日本とあまり変わらない風景です。この山は前正覚山という名前です。
画像8
『ブッダの旅』62ページ
ガヤーにはナイランジャー河が流れています。これはその雨季の写真です。山は前正覚山です。 画像9
『ブッダの旅』66ページ
ところがその同じ河が乾季になるとこのように干上がってしまいます。 こういう日本では考えられないような季節の変化がある。

そういうところで釈尊は覚りを求められた。
画像10
『ブッダの旅』66ページ
次に釈尊の話に移ります。
29歳で出家して5年あるいは6年の求道そして苦行の末に覚りを得られたということですが、苦行が無駄だと解るまでの間凄まじい苦行をしました。この絵はその苦行時代を表した彫刻です。有名なので皆さんご覧になったことがあると思います。釈尊が無駄な苦行をしていたときの姿を克明に描いています。浮き出たあばら骨の上の血管まで表現されています。目のくぼみようといい、喉の落ち込みようといいまるで解剖学の模型を見ているようです。
 そして、釈尊はこんなことをしても無駄だと分かって苦行を止めました。話が前後して申し訳ないですが、バラモン教では苦行を結構行うようなのです。ヨガの行者が火の上を歩いたりとか。ややこしいことに仏教でもそれと似たような行をする宗派があったりします。そこで皆苦行して覚りを得たと間違って解釈してしまう。釈尊はそういう行は認めません。自分がやってみて無駄だと解ったから。だからこれは「やって無駄だったの図」です。
画像11
『ブッダの旅』68ページ
その後、乳の粥をもらって体力を付けて―頭を働かせるためには体力を付けなければなりませんから―菩提樹の下に座って、覚りを得るまでは立ち上がらないという決意のもとに精神集中に入り、何日か後に覚りを開きました。
その正覚の座と菩提樹です。ただしこの菩提樹は釈尊が覚りを得た時の木ではなくて、何度も植替えられた後のものだそうです。イスラム教徒に切られたり、火事で焼けたりしたようです。
画像12
『ブッダの旅』83ページ
その近くに建つブッダガヤ―の大塔です。
塔のことをストゥーパというのですが、漢字で書くと卒塔婆です。つまり他宗で墓に供えるあの木の板は塔を表わしていたのです。また日本の三重の塔や五重の塔もストゥーパです。塔の下には仏舎利(釈尊の遺骨)を置きます。だから仏舎利塔と言われます。(本物の仏舎利が納めてある塔は世界中でわずかのはずです。)
画像13
『ブッダの旅』82ページ
これは初転法輪の地、サールナート(鹿野苑)です。ここにも塔がありますね。 画像14
『ブッダの旅』89ページ
マガタ国ラージャグリハ(王舎城)にあった竹林精舎の跡地です。
カランダカ(迦蘭陀)長者が土地を寄付しビンビサーラ(頻婆娑羅)王が建物を寄付しました。
画像15
『ブッダの旅』113ページ
霊鷲山(りょうじゅせん)。耆闍崛山(ぎしゃくっせん)とも言います。ラージャグリハにある小高い丘です。釈尊の説法の座の一つです。法華経や無量寿経などの有名な大乗経典での説法の舞台はここに仮託されています。 画像16
『ブッダの旅』116ページ
丘の上の説法の座です。世界中から巡礼が来ているようです。 画像17
『ブッダの旅』117ページ
これはラージャグリハの街中にあるビンビサーラ王が息子のアジャータシャトル(阿闍世)に幽閉されて殺された牢獄跡です。観無量寿経の舞台です。 画像18
『ブッダの旅』120ページ
祇園精舎の説法堂跡。このように煉瓦できちんと土台が作られています。当時は相当立派な建物が建っていたと思います。 画像19
『ブッダの旅』131ページ
釈尊は亡くなる直前に自分の死を予感して、ラージャグリハを出発して遊行の旅に出ます。そしてクシーナガルで入滅されました。その遊行の旅がやはり300キロくらいはあります。歩いて旅をしながら途中で説法をしながら、自分の死に向かって旅を続けます。その中で、パトナー(パータリプトラ)という所で河を渡ります。その渡し場がこういうところなのですね。河といっても対岸が見えない海のような河を渡る。
釈尊はこの時泳いで渡ったという説もあります。(インド古代史168ページ)釈尊の節制した生活は老いても精神と肉体の壮健さを保っていたのでしょう。
画像19
『ブッダの旅』152ページ
入滅の地クシーナガルの沙羅双樹です。サーラの木が二つ生えているところで釈尊は頭を北にして西を向いて足を揃えて横になってそのまま眠るように亡くなったと言われます。
この沙羅双樹も釈尊が亡くなった当時のものではありません。
画像19
『ブッダの旅』174ページ

2012/07/17公開

トップ

仏教の歴史

参考文献
その1
その2
その3
その4 作成中
その5
その6
その7
その8

 (C)西照寺 2007年来