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仏教の歴史 その2


2012年6月16日 同朋の会から

 マウリヤ王朝の第三世アショーカ(阿育、在位西暦前二六八〜二三二)王の時代に至って、ゴータマ・ブッダの教えは、インドの全域にゆきわたり、さらに、その領域を越えて、遠く国外にまで伝播される機会を持つことを得た。
 マウリヤ王朝は、インドにおける最初の統一王朝であった。その第一世チャンドラグプタ王(在位西暦前三一七〜二九三ごろ)のころ、その領域はすでに、北はヒマーラヤ山系、東はベンガル湾、西はヒンドゥークシュ山脈、そして南はヴィンディヤ山脈の南に及んでいたが、アショーカ王はさらに、その南方カリンガ等を討って、その領域をデカン高原にまで拡大した。
 この王はもともと性格が狂暴で、人びとは彼を呼んでチャンダーショーカ(恐るべき阿育)と称したと伝えられるが、カリンガの征服にあたって、そこに展開された惨状を見てから性格が一変し、それが動機となって、智慧と慈悲の教えの熱心な信奉者となった。それ以来、この王が仏教者としてなした多くの事業の中で、次の二つのことがもっとも注目される。
 その一つは、いわゆる「アショーカの刻文」、すなわち、仏教による施政方針を石柱もしくは磨崖に刻んだものを領内の各地に建立させたことである。第二は全インドにブッダの教法を弘布するとともに、さらに、王はその領域を越えて、使節を四方の国々に遣わし、智慧と慈悲の教えの旨を伝えさせた。なかでも、特に注目されることは、それらの使節のあるものは、遠くシリア、エジプト、キレネ、マケドニア、エピルスにまで派遣されたことであって、そのとき仏教は広く西方の世界に伝えられた。また、そのとき、スリランカに遣わされた使節マヘーンドラは「うるわしきランカードヴィーパ(スリランカ島)にうるわしき教えを樹立する。」ことに成功して、いわゆる南方仏教の基点をかの島にうち立てた。(287〜288ページ)

画像  まず釈尊が亡くなられた前後の時代の世界人口を見てみましょう。歴史人口学という学問で当時の人口の推計が出ています。
 釈尊在世当時(紀元前400年頃)の世界人口は1億5千万人程度でした。
現在の世界人口は70億人ですから現在の2パーセント程度です。
 この頃、すでにインドは西方のペルシアとの交通があったようです。
 そこからさらに1000年ほどさかのぼった紀元前1500年頃、メソポタミア文明の発祥地のユーフラテス地域(ペルシャ湾を囲むイラン・イラク・クェートの湾岸)の記録には、インダス文明との交流が見られます。
つまり、インドとその西の世界とは文明発祥の昔から、交通があったと考えられます。

 そして紀元前2000年にはアーリア人の侵入がはじまります。インドは中央部を横断するヴィンティヤ山脈を境にして北半分のヒンドゥスタンと南半分のデカンに分けられます。
画像  アーリア人は現在のイラン北部あたりから出た人々と考えられますが、この人々がインドの西北のアフガニスタンあたりから南下してヒンドゥスタンを征服していきました。
 このアーリア人から見ると、行く手には大河のインダス河が横たわり、それを渡らなければなりません。
 大河は単に「シンド(河)」と呼ばれたようです。その「シンド」にイラン語の変化が加わって「ヒンドゥ」になり、これがギリシアに伝わると「インディケェ」となりました。このあたりが「インド」という言葉の語源に関係しているようです。

アーリア人はインド北部のヒンドゥスタンを征服します。そしてアーリア人を支配者とする王国が並び立ちます。その主な国を挙げると
 マガタ(摩掲陀)、コーサラ(拘薩羅)、ヴィデーハ、カーシー、アンガなどです。
 この中で釈尊に関係が深い国はマガタとコーサラです。特にマガタは釈尊が活動した中心地です。首都はラージャグリハ(王舎城)で、近くに釈尊の説法の場である竹林精舎や、霊鷲山があります。観無量寿経に出てくるビンビサーラ(頻婆娑羅)は釈尊当時のマガタ王で、子のアジャータシャトル(阿闍世)によって殺されます。
 マガタは阿闍世の後、シシュナーガ朝、ナンダ朝、マウリヤ朝と王統が続き、そのマウリヤ朝の王がテキストにあるアショーカでした。

 紀元前538年、中東ではペルシャ帝国が創立します。そして紀元前530〜450年頃にはヒンドゥスタン西部にペルシャの属国であるガンダーラとシンドゥの二つの候国が設立しました。この二候国を通じてインドには文字や行政、法令、建築等の文化、またゾロアスター教も伝わりました。またインドの文化や人はペルシャを通じてギリシャにまで伝わりました。ペルシャ軍にはインド人の兵がおり、ギリシャ進撃に参加しています。このような時代状況の中で釈尊は活動したのです。

画像
アレキサンダーの大帝国

 紀元前331年、アレキサンダー大王によってペルシャは滅ぼされました。アレキサンダーは紀元前326年にインド遠征を行い、ガンダーラとシンドゥの二候国もその支配下に入りました。こうしてギリシアとインドの文化の交流は深まります。しかし、アレキサンダーの大帝国は紀元前323年の彼の死によって瓦解していきます。

 この情勢の中で、マガタ国に拠点を置いていたチャンドラグプタは勢力を拡大しヒンドゥスタンのほぼ全域を支配し、紀元前317年頃、マウリヤ朝を創立します。そして、紀元前270年頃、チャンドラグプタの孫のアショーカが王に即位します。
 アショーカは即位10年後の紀元前260年頃、インド南部デカンのカリンガに出兵し征服しました。猛烈な戦争だったようで、結果として10万人が殺され15万人が俘虜として連行されました。この人数は現代だとどれほどの規模になるのでしょうか。
 先のグラフからこの当時の世界人口を2億人と仮定します。現在の世界人口は70億人ですから
70億÷2億=35倍ということになります。したがって
10万人×35=350万人、15万人×35=525万人
すなわち、現代の感覚からすれば、350万人が殺され、525万人が連行されたということになります。あまりに単純計算すぎますが凄まじい大戦争だったことは想像できます。

 こうしてカリンガを征服したアショーカはデカン地方を支配下に収めインド亜大陸全域の支配者となりました。しかし、アショーカはこの大戦争の惨状をまのあたりにして深く悔いたということです。
 テキストにあるとおり性格が一変し、その後は仏教に依った徳政を行ったようです。「アショーカの刻文」を読んでみると、不殺生に基づいた極端な動物愛護の記述も見られ、これが実際にどこまで守られたか疑問です。生類憐れみの令のように臣下や国民にとっては、いい迷惑だった可能性があります。しかし「アショーカの刻文」が掲げる理想は驚くべきものでした。王自身は仏教に帰依しましたが、他の宗教も尊重し援助しました。
 そして、仏教伝道の使節を四方に派遣したのです。その派遣先の一部としてテキストに載っているシリア、エジプト、キレネ、マケドニア、エピルスをアレキサンダー帝国地図に書いておきましたので確認してください。またスリランカに派遣されたマヘーンドラはアショーカの兄弟か子供のようです。


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