真宗大谷派 西照寺

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仏教の歴史 その7


2013年2月16日 同朋の会から

中国仏教の歴史の中において、その「最後に至れるもの」は禅宗であった。その初祖とされるものは、外国の沙門、菩提達磨ぼだいだるま(―五二八)であるが、彼によってまかれた種が、中国仏教の精華として大いなる花を開いたのは、第六祖、慧能えのう (六三八―七一三)以後のことであって、第八世紀以後、相ついで人材を輩出し、数世紀にわたる禅の隆盛を招来した。
 彼らの所懐を問えば、「仏祖正伝ぶっそしょうでん」といい、また「教外別伝きょうげべつでん」と語る。しかるに、中国にあっては、「教」とは、さしあたり、経にほかならない。その故にこそ、中国人は、経の招来と翻訳に努力を傾けて、すでに幾世紀にも及ぶ。しかるに、いま彼らはそれらの功をほかにして、別伝ありとなし、ひたすらに対座して、仏祖の正伝するところとなす。その不思議な言説の機微を尋ね至ってみれば、そこには、中国人の資質に深く根を下ろした仏教の新しい考え方があって、それを支えていることが知られる。
 それはもはや中国人の仏教以外の何ものでもなかった。しかも、ゴータマ・ブッダの教えは、その新しき流れをとり加え、ますます滔々とうとうたる大河となって、東方の国々を潤し来ったのである。(294ページ)

画像  禅とは「心を静め集中すること」という意味で、仏教一般に共通する行為ですが、中国ではこの名を冠した「禅宗」という宗派が起ったのです。
 開祖とされる菩提達磨ですが、みなさんこのような絵は見たことがあるでしょう。菩提達磨という名前は知らなくとも絵をみればああこの人かと思うでしょう。どこの出身かは諸説あって、一つは南インドのある国の国王の第3子という説、もう一つはペルシャ出身という説です。
 この人の行動には謎が多く、伝説が多く伝えられています。どこから中国に来たかということもはっきり分らない。
インドから海路で来たのか、西域からシルクロードで来たのか。中国では始め南の梁という国に入り国王の武帝と問答をしたりしましたが、その後、嵩山すうざん少林寺に入り坐禅すること九年という伝説があります。
画像

画像 さて、この写真を覚えていますか。仏教の歴史の一番最初に出しましたね。現代のヒンズー教徒がガンジス河の河原で瞑想しているところです。私はこの時言いましたよね。「これを見てああと思った」と。なぜなら菩提達磨そっくりだからです。









画像 そして「ダルマさん」です。菩提達磨が日本でなぜこのような人形になり、願い事を叶えるためのものになったのかという理由は私は分らないのですが。日本ではありふれている人形ですが、これの元になった人が菩提達磨であると知っている人はそんなに多くないのではないでしょうか。





画像 この絵は少林寺の洞窟で菩提達磨が坐禅しているところですが、左下にいるのは慧可えかという人です。慧可は出家し覚りを求め各地を遍歴していましたが、なかなか得心できず、達磨の名声を聞いて弟子入りしたいと頼みに来たのです。しかし、達磨は壁を向いて坐ったままで、慧可を無視し続けます。ついに慧可は自分の真剣さを達磨に示すために、自分の左腕を切り落し達磨に差し出します。これが冬のできごとだったので「雪中断臂せっちゅうだんぴ」といいます。 有名な話ですがおそらく伝説です。慧可にはもともと左臂が無かったという説もあります。こうして慧可は達磨の弟子になることができ、禅宗の第二祖となりました。
この絵は日本の雪舟が描いたものだそうです。

 ここまで菩提達磨にまつわる話をしましたが、これまでの仏教の話とは少し毛色が違いますね。これまでの話では、インドの経典を漢語に翻訳してその経典を勉強するという形で中国仏教が進んできたのですが、この禅宗は経典の勉強を捨てて坐るだけという面が見られる。それまでの仏教の形とは何か違う。その違いの説明には後で入りますが、その前に禅宗の有名な宗派を見てみます。現在まで続いている禅宗の宗派の系列は、テキストにある通り第六祖の慧能えのうから出た系列です。
 慧能と同じ時代に神秀じんしゅうという人の系列もあったのですが、それは慧能の系列と対立し衰退してしまいました。そして優勢になった慧能の系列は、大きく五つの宗派に分れました。それを五家といいます。

五家
  イ仰宗いぎょうしゅう
  臨済宗りんざいしゅう
  曹洞宗そうとうしゅう
  雲門宗うんもんしゅう
  法眼宗ほうげんしゅう

そして、みなさんご存知の通り、日本では臨済宗と曹洞宗が大勢を占めています。現代では臨済宗と曹洞宗は全く別の宗派ですが、もともとは慧能のところから枝分かれしたものです。我が宗派が東と西に分れているようなものです。

 以上、形としての特徴を見てきましたが、次に禅宗の中身に入ります。禅宗には次のような伝説があります。

拈華微笑ねんげみしょうの伝説

 釈尊が霊鷲山りょうじゅせんで大衆と一緒におられたとき、華を拈ひねって大衆に示された。そのとき人々はみな黙っていたが、ただ摩訶迦葉まかかしょうだけが破顔微笑した。そこで釈尊は
「われに正法眼蔵しょうぼうげんぞう涅槃妙心微妙法門ねはんみょうしんみみょうほうもんあり。
不立文字ふりゅうもんじ教外別伝きょうげべつでんなり。摩訶迦葉に付嘱ふしょくす」
と言われた。

つまり、釈尊が弟子達の前で華をひねって見せるという動作をした。すると弟子達はそれがどういう意味か分らず、黙っていた。しかし弟子達の中で摩訶迦葉だけが、その意味が分ったとみえてにこっと笑った。それを見て釈尊は「私には仏教の核心、覚りの真髄(正法眼蔵 涅槃妙心微妙法門)がある。これは、文字にできず、言葉で伝える教えの外にある。これを摩訶迦葉に託す。」と言ったというのです。 摩訶迦葉は釈尊の十大弟子の一人で、釈尊の亡くなった後、教団を率いたという人です。
 この伝説は、華をひねって、にこっと笑って、それが一体どうしたんだ、という分ったような分らないような話です。禅宗の根本にこの話がある。禅宗はお経も読みますが、それはあくまで補助的な手段で、覚りを得るには文字や言葉に頼らないという姿勢がある。
 さて、続けて禅宗の特徴を表わす言葉を説明していきましょう。

・不立文字ふりゅうもんじ
 覚りは言葉を超えたものだから、言葉に表わさない。
私もこの意味のことは結構言います。しかし、言葉に表せないということを納得しなければならない。
その納得をするためにお経、すなわち教えがある。お経を読んで理解して、だから言葉に表せないのか、という納得がある。しかし不立文字はその納得する過程を飛び越えるようなところがある。

・教外別伝きょうげべつでん
 覚りは教、すなわち経の中にあるのではなく、その外で伝わるものだ。

・仏祖正伝ぶっそしょうでん
 仏祖とは釈尊です。釈尊からの正当な伝承として覚りが伝わる。釈尊から摩訶迦葉に伝わり、その弟子に次々に伝わり、菩提達磨に伝わり慧可に伝わり、というように師と弟子の間に連綿と伝わるということです。その伝わり方が、文字や教えに頼らず、坐禅の修行の中で以心伝心で伝わる。

・教宗・禅宗
 これは前回話をした仏教の分け方(教相判釈)ですが禅宗ではこのように分けます。まず自分のところは「禅宗」です。そしてよその宗派を「教宗」と呼びます。なぜならよその宗派は教え(文字、経)に頼るから。この分け方は教えに頼る教宗を低く見て、自分達の禅宗の方が本道だという意味合いが込められています。我々の宗派が浄土門・聖道門という分け方をするのと似た形です。

・公案
 教えに頼らず坐って精神集中して覚りを求めるといっても、いきなりその修行をしろと言われても初心者にとってはあまりにとりつく島もありません。そこで、そのような人たちのヒントとなるものとして、公案というものが考え出されました。拈華微笑のようなどう解釈してよいのかわからないような、短い逸話や問答を集めたものです。読んでみると、まあ高級ななぞなぞのようなものです。これをヒントとしつつ禅の修行をしていく。
 私のような他宗の人間が読んでもおもしろいものが結構あります。特に我が宗のように、教えを言葉でこねくり回す立場からすると、竹を割ったようなすっきりした小話が多いと感じます。

 厳密に公案といえるのかどうかわかりませんが、臨済宗の祖師の語録で『臨済録』というものから一つ引いておきましょう。

修行者たちよ、正しいさとりを得たいと思うなら、ただ人に惑わされなければよい。内にも外にも、何か出会うものがあったならば、すぐに殺せ。仏に逢ったら仏を殺し、祖師に逢ったら祖師を殺し、羅漢らかんに逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親族に逢ったら親族を殺してはじめて解脱が得られる。

すごいでしょう。本当に殺した人はおそらくいない(笑)。しかし、これは単なる譬えですよ、と言ってしまうとこの文章の命がなくなる。この言葉の飛び越え方が禅宗ならではと思います。
慧可の左腕を切断する話も、このような流れの中で出てきた伝説だと思います。
非常に厳しく危うい部分もありますが、言葉の限界を鋭くとらえて、それを超えようとする姿勢は感じます。

 さて、禅宗の特徴を述べてきましたが、これらは本文にもあったとおり、中国ではじめて出てきたものです。初祖の菩提達磨自身はここまで極端な特徴は出していないと思います。しかし、中国で禅宗として立てられ時代が経るにつれてこのような特徴がはっきりしてきた。
 禅宗は宋の時代あたりから繁栄してきます。それはここで見た特徴が中国人に合っていたということと、さらに教団のあり方にそれまでに無い形を生み出したからです。それまでの仏教者は出家者で世俗から離れますので労働して生産活動してはいけません。生活するには、在家者の布施や皇帝の庇護が必要でした。しかし、皇帝や在家者が援助してくれる時はいいですが、政策が変わって弾圧されたりするとひとたまりもない。そのような時代の中で禅宗は自給自足をやり始めました。修行者たち自身が、農作業をして自分達の食い扶持を生産するようになった。その仕事を「作務さむ」といいます。「作務衣さむえ」という着物はもともとこの作業着だったのです。作務も修行の一つだったのです。そうして生活全般に修行のための規律があって、共同生活しながら覚りを求める。
 そのような自給自足のあり方が、戦乱や弾圧をくぐり抜けて生き延び繁栄する元になったと思います。

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