真宗大谷派 西照寺

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仏教の歴史 その6


2013年1月19日 同朋の会から

そのようにして訳出されたぼう大な量にのぼる仏教経典をよりどころとして、彼ら の営んだ思想的・宗教的営みもまた、しだいに中国化の傾向を強める。そこには、か の民族の資質や要求や自信が明らかに現われている。その初期のころ、彼らが特に般 若部の経典が語る「空」の形而上学に心を傾けたのもその現われであった。やがて彼 らが、いわゆる「小乗」を捨てて、もっぱら「大乗だいしょう」に心を傾けるものとなったのも その現われであった。さらに、その傾向は、天台宗においてようやく顕著となり、禅 宗の出現に至ってきわまったということを得るであろう。(293ページ)

画像  中国には釈尊とほぼ同時代に老子と孔子が活動していました。
 老子は世界を達観してとらえる教えを説きました。その教えの中心に「無」というものがあり、「無」が現実の根源に位置するというものです。この教えの系列に後に出た荘子があり、老荘思想と言われます。老荘思想は後に中国の民間信仰と合体して道教という宗教になっていきます。
 孔子は国家を治める道徳や儀礼を説いた人ですが、この教えは儒教になりました。
 中国に仏教がはじめて伝わったころは仏像を指して「インドの金色の神」と言ったようです。教えの内容の理解も程度が低く呪術的なものでした。しかし、ある程度時が経ち、空を説く大乗経典の般若経が訳されたとき、中国にはすでに仏教と同じくらい歴史のある老荘思想や儒教があったわけです。そして中国人達は仏教の空を理解するために、老荘思想の無を空と似たものと考えました。無と空は本質は全く異なるのですが、表面的には似たものでした。そういうことで中国人にはなじみやすかったのです。

 また、老荘や儒教は現実肯定的であり、現実を苦とおさえる仏教の考えは、中国人にはなかなか受入れがたい面があったのでしょう。そういう中国人の特質からも、世間を捨て出家することを厳しく守る小乗よりも、世間を包容する大乗に親近感があり、大乗が主流となったのでしょう。
 こうして、まず表面的に中国人に受入れられた大乗仏教は、次の段階でより深いものに掘り下げられていくことになります。

 中国において天台宗が大成したのは、第六世紀の後半、その第三祖、天台大師こと 智ちぎ(五三八―五九七)によってであった。彼は、中国の生んだ仏教思想家の中の代 表的な頭脳であって、彼の頭脳が生んだ「五時八教ごじはっきょう」の教判は、その後長きにわたって、中国ならびに日本の仏教に広い影響力をもった。
 思うに、中国においては、諸経はその成立の順序にかかわりなく招来され、招来されるにしたがって翻訳された。いまやそのぼう大な量にのぼる諸経を前にして、その成立と価値づけをいかに理解するか、その見解を示すことによって仏教全体の理解の仕方を語り、かつ、自己の依って立つところを示すことが必要であった。それがいわゆる教判もしくは教相判釈きょうそうはんじゃくの課題であった。その意味において、教判とは、何よりもまず中国的な思想の営みであるが、その中でも、智ちぎの教判はもっとも整然たるものであり、したがってまた、見事な説得力をもっていたのである。だが、近代の仏教研究の出現とともに、その支配的影響はついに終わりをつげた。(293〜294ページ)

画像  難しい上に最後がちょっとひねった言い方をしています。
 天台大師・智は天台宗の事実上の開祖です。なぜ天台宗というかというと、智が住んだ場所が天台山という所だからです。地図に天台山の位置を赤丸で示しておきました。
 比叡山は天台宗ですね。つまり日本の天台宗はこの中国の天台宗を輸入したわけです。
 さて本文には難しい専門用語が色々出てきました。それらを説明します。

 まず、教相判釈きょうそうはんじゃく(略して教判)です。これは経典の分類の仕方です。中国には小乗も大乗も関係なく膨大な量の経典が輸入されて翻訳されました。そのままではどこから手を付けて良いか分からないグシャグシャな状態です。大量の経典を前にした人々はいったいどこから手を付けてよいのか呆然としたと思います。したがって全体を分類し、どこから読めば良いのかガイドラインが欲しいという切実な悩みがあったと思います。経典の内容もまるで正反対のことを述べているものもあったりする。それらを同じ仏教としてなんとかまとめなければなりません。そのような分類とまとめかたを教相判釈といいます。その教相判釈はさまざまな人や宗派によって色々考え出されました。

 そして、智の教相判釈が決定版と言えるものとなりました。その智の教相判釈が「五時八教」というものです。
 その「八教」、すなわち八つの教えから説明します。

・八教
化法けほうの四教(内容についての四種)
1 三蔵教
2 通教
3 別教
4 円教
化儀けぎの四教(形式についての四種)
5 頓教
6 漸教
7 不定教
8 秘密教

1番から8番までありますね。だから八教です。ところがこの八つが2種類の違う性質のものに分けられるのです。1〜4番は「化法の四教」です。これは内容について4つに分けるということです。
5〜8番は「化儀の四教」です。これは形式、つまり教えが伝わる伝わり方で4つに分けます。
化法、化儀の「化」とは「教化きょうけ」すなわち、教えが人々に伝わること、から取ったものでしょう。
八つに分けるといいながら、その八つに性質の異なる分け方が入っている。分類するようで分類したとも言えないような複雑な分け方です。そして1番から8番までの言葉の意味は、難しくなるのでこれ以上は説明しません。手抜きで申し訳ありませんが、ここでは文句だけから追っていきます。
 こうして、一々の経典が八教のどれにあてはまるかラベル付けをしていくのです。
 例えば華厳経であれば、4番の円教かつ3番の別教であり、5番の頓教である。
 般若経であれば、2番の通教、3番の別教、4番の円教にあたり、6番の漸教である。という具合です。
 ですから、経典を8つの分類の箱のどれかに放り込むというよりも、その経典が持っている様々な性質のすべてを8つのラベルで表わすというやり方です。分類している割にはとても複雑です。

 さらにこれに輪を掛けてまた別の分類のしかたを出してきます。それが「五時」です。
五時とは釈尊が覚りを得てから亡くなるまで説かれた教え(法)の種類です。つまり八教で分けたものをまた別の分け方でくくるというわけです。

・五時
1 第一華厳時の法(覚りを得た直後の釈尊の内面)
2 第二阿含時の法(鹿野苑ろくやおんでの最初の説法(初転法輪))
3 第三方等時の法(唯摩経説法の時。大乗の始め。)
4 第四般若時の法(般若経説法の時。)
5 第五法華時の法(法華経説法の時。)

 このように説法した時期によって分けるのです。こうして、この分け方のラベルも一々の経典に対してまた付けるわけです。

 ですからもう一度般若経を例に取れば、八教では2番の通教、3番の別教、4番の円教にあたり、6番の漸教である。その上に 第四般若時の法ということになります。
まあ、恐ろしく面倒な分類になります。しかし、天台大師が目の前の膨大な経典をなんとか一つのまとまったものとしてとらえようとした、真剣な努力の結果がこれだったのでしょう。そしてこの五時八教の教相判釈は、その後の仏教のとらえ方に大きな影響を及ぼしました。
 智は五時の中で5番の 第五法華時の法をすなわち法華経を最も重要とみなします。他の法は法華経を説くための方便です。ですから天台宗は法華宗と名付けても良いのです。
 この流れの上に日本の比叡山延暦寺も作られました。そうして法華経を中心とする仏教の最高学府ができ、そこに優秀な人々が集まったのです。その中に法然、親鸞、道元、日蓮などもいたのです。しかし、これらの人々はその天台宗を捨て、独自の道を歩むことになります。仏教の歴史においては、良くも悪くも中心に法華経があると言えます。

 さて智はこのようにして仏教を一つのものとしてとらえました。しかし、これはあくまでも智の頭脳が作り出したとらえかたです。ということは別の人が違うとらえ方をしてもよいわけで、事実別のとらえ方も色々考え出されました。その中で各宗派で行われている自宗と他宗とに二つに分ける、非常に簡単な教相判釈を出しておきます。

・真言宗は自宗を「密教」他宗を「顕教」と呼びます。

・禅宗は自宗を「禅宗」他宗を「教宗」と呼びます。

・浄土諸宗は自宗を「浄土門」他宗を「聖道門」と呼びます。

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