真宗大谷派 西照寺

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仏教の歴史 その8


2013年4月15日 同朋の会から

 今回から日本の部に入ります。日本はちょっと詳しく話をしなければなりません。仏教伝来から奈良時代まで、平安時代、鎌倉から安土桃山時代、江戸から現代、の四回くらいになりそうです。今日はその一回目です。

五、日本
 日本仏教の歴史は第六世紀に始まる。紀元五三八年、欽明天皇の朝廷に、百済くだらの王が使臣をもって仏像・経巻を献じたのが、この国に仏教の伝来した始まりである。それ以来、この国の仏教の歴史は、すでに千四百年を越える。  その長い歴史の中に、わたしどもは、三つの焦点を結んで考えてみることができる。
 その第一の焦点は、第七・八世紀の仏教の上に結ばれる。それを物件をもっていえば、法隆寺の建立(六〇七)より東大寺の建立(七五二)に至る時代である。その時代を回顧するにあたって、思い忘れてならないことは、かの時代のアジア全体にわたって、異常な高まりをしめしていた文化の潮うしおのことである。西の方の文明が深い暗黒の中に閉じこめられていたそれらの世紀にあって、東の方の文明は、目を見張るような活発にして雄大な動きを繰り広げていた。中国でも、西域でも、インドでも、南海の国々でも、知的、宗教的、そして芸術的な活動が力強く営まれていた。仏教がそれらの動きを互に結びつけて、広大なヒューマニズムの潮うしおが東方の世界を洗っていた。そして、あの絢欄けんらんたる法隆寺や雄大なる東大寺の建立と、それらをめぐる多彩な宗教的ならびに芸術的活動など、それらの世紀の新しい日本文化の動きは、すべて、かの荒漠こうばくたるアジア全域にわたる文化の潮の、最東端におけるいぶきであったと知られる。
 長い間、なお未開の状態にあったこの国の民族が、いま大いなる文化の潮をあびて、ぱっと一時に文化の花を開く、それがそれらの世紀におけるこの国の人びとのめぐりあわせであった。そして、その国際的な文化の主たる担い手が仏教にほかならなかったのである。したがって、その時代の寺院は国際的な明るい文化の中心であった。僧侶は新しい知識のリーダーであった。経典は優れた思想の乗物であった。そこには、一つの宗教というよりも、ずっと広汎こうはんな大いなる文化そのものがあった。それがかの世紀における初伝の仏教の真相であった。(295〜296ページ)

いつもながら立派な文章ですが、日本を持ち上げすぎのようなところもあるという感想です。素晴らしい世紀という書き方ですが、実は血なまぐさい時代でもありました。たしかにこの時代は規模は小さいが国際的でした。日本は大陸からの文化の輸入によって文明化しつつありました。知識や技術を持った多くの中国人、朝鮮人が日本に来て住みつきました。その中で日本に仏教がどのように伝わり、受入れられたのか。

伝来(538年)
  百済の聖明王が外交政策として仏像・仏具・経典を大和朝廷に送った。

大和朝廷の対応
  受入れ派  蘇我氏(国際派。帰化人勢力と関係深い)
  拒絶派   物部氏(保守派。氏神信仰。)

受入れたために疫病が流行った。・・・物部氏・・・ほとおりけ
そこで仏像を海に流した。すると磯白島宮に災があった。また瘡かさの病が流行った。

このような状況と仏教をめぐる対立が聖徳太子の時まで続く。

仏教が伝来した年は一応538年ということです。実際は渡来した人々によってこれより前から伝えられていたと考えられます。 そして538年に百済の聖明王が仏像などを送ってきたことをもって日本に公式に仏教が伝わった年とします。
画像 当時の朝鮮半島には大きく分けて高句麗、新羅、百済の三国がありました。三国は緊張関係にあり、ときどき戦をしていたのですが、一番弱い立場にあるのが百済でした。百済はいろいろな方策で自国の安定を図りました。その方策の一つが日本を味方に付けようということでした。百済・日本連合で新羅、高句麗に対抗しようとしたのです。そこで日本と友好関係を築くために、その手段として仏教が利用されたのです。
仏像や経典を大和朝廷に献上するという形で、友好関係を築こうとしたのです。ですから仏教はそのための道具だったのです。教えの中身はとりあえず問題にはなりません。このようなやりかたは、唐や朝鮮で相互に関係を付くための一般的なものでした。仏教はそういう外交の道具として便利なものだったようです。だからお経を読んで理解しようということとは別の理由で仏教は広まったと言えます。お経を読むなどということは坊主という専門職がやればよい、それよりも経典や仏像を貰ったり、あげたりするそういう行為が為政者にははるかに重大だった。
 そういうことで聖明王から仏像・経典が大和朝廷に送られてた。ところがもらった側では、その贈り物への対応が受入れ派と拒絶派に分れた。
 受入れ派の蘇我氏は東アジア全域が仏教を共通の教えとしているから我が国も当然受入れるべきだという。今で言う国際派です。蘇我氏は帰化人の勢力と関係が深く経済的な力があった。
 拒絶派は物部氏で軍事に強い。この当時既に氏神信仰がありました。氏神は元々は自分達の一族(氏)を護る神です。豪族ごとに氏神があった。後に作られる高天が原の神話は、これらの氏神の神話をまとめたものです。そのまとめる過程で、天皇は天照大神の子孫だという説も作り出された。日本には氏神があるのだから外来の金色の神はいらないというのが物部氏です。  そこで蘇我と物部の対立が起きます。しかしとりあえず受入れるということになった。しかし、受入れたら疫病が流行った。そこで物部は仏教を受入れたせいで日本の氏神が怒って疫病を起したのだという。そんなもの捨てろ――ほとおりけ――ほっとけ(「ほとけ」の語源の一つといわれる伝説です)――と言った。そこで仏像を納めた寺を焼いて、仏像は海に流した。すると磯白島宮に災があった。また瘡の病が流行った。
こういう程度で蘇我、物部の両者は争っていた。これがどれだけ大変なことなのか。今の感覚ではよく分らない。しかし疫病が流行ったので都を移すといったことが当たり前の時代にはやはり重大なことだったのでしょう。そうして聖徳太子の時代に入ります。

用明天皇(母は蘇我氏)
  │
  ├────────────聖徳太子
  │
穴穂部間人皇女あなほべはしひとのひめみこ(母は蘇我氏)

用明天皇崩御
蘇我、物部の皇位継承をめぐる争い
蘇我馬子・聖徳太子(一四歳)対物部守屋
  守屋を殺し、蘇我側の勝利(五八七年)
蘇我馬子は崇峻天皇(母は蘇我氏)を擁立
崇峻天皇は馬子と対立し暗殺される
推古天皇(用明天皇の妹)即位(五九二年)
  聖徳太子(二〇歳)、摂政となり、馬子と天皇を補佐

太子の死後、子の山背大兄王は、蘇我馬子の孫、入鹿によって攻め滅ぼされ太子の子孫は絶える。
蘇我氏は大化の改新(六四五年)で滅ぼされる。

このとおり、用明天皇の母も天皇の奥さんの母も蘇我氏出身です。だから聖徳太子も蘇我氏系ということになります。 画像 用明天皇が亡くなった後の皇位継承では、蘇我と物部が対立し合戦となり蘇我が勝利します。蘇我馬子は同族の崇峻天皇を立てましたが、馬子に逆らったため暗殺されます。馬子は同族でも自分の意に沿わない者には冷酷だったようです。その後、用明天皇の妹が日本で初めての女帝、推古天皇として即位します。聖徳太子にとっては叔母さんです。そして太子は天皇に代って政治を行う摂政となります。実際は馬子の支配的影響を常に受けながら政治の舵取りをしたのでしょう。聖徳太子は、伝説としては名君です。善政を敷き、仏教に深い理解を示し帰依した。太子は四十九歳で亡くなります。この一枚目の絵は有名な太子の肖像画ですが、小さな二人は太子の子供だったと言われます。その一人は山背大兄王でしたが、蘇我入鹿に殺されます。
そして権力を握り続けた蘇我氏も大化の改新で滅ぼされ権力を天皇が握る時代になります。いわば聖徳太子の時代は血に染まった時代だったのです。この中で太子は経典を読んで深く理解した、蘇我馬子のように仏教を権力の道具とのみ見なすようなことはしなかったと思います。
画像  もう一枚の絵も聖徳太子です。これは太子が十六歳の頃、父(用明天皇)が病気になった。その父の病気の平癒を願う姿を表わしたものだそうです。この後の休憩の時に本堂の内陣の余間を見てください。これと同じ絵が掛けられています。真宗系の寺院はこういう形で表わして太子を敬います。なぜなら、太子の努力がなければ仏教は日本に根づかなかったかもしれないからです。









画像
 「寺」というものをちょっと考えてみましょう。これらの写真は昨年みんなで旅行に行ったときの東大寺のものです。この時代の寺は「本堂」とは言わずに「金堂」と言います。私も今回調べていてなるほどと思ったのですが、なぜ「金堂」というかというと「金色の仏像をしまう場所」だからです。仏像はインド以来、金色に塗られるものだったようです。写真の大仏は金色ではありません。これは東大寺が焼き討ちや火事などの災難に何度も遭って、金メッキが剥がれしまったからです。本来は全身が金色でした。光が当れば目を向けられないくらいに輝いたと思います。そういうものがこの巨大さで鎮座していたら度肝を抜かれます。そういうものを入れるものだから「金堂」です。それが寺の境内の中心にある。そして内部の作りは写真にあるとおりです。石畳で外と同じです。つまり人間が居る場所ではないのです。人間の快適さなどは全く考えられていない。これがこの時代の寺です。だから人間がお参りすることは一切考えていない作りです。それが時代を経るにつれて、例えば本願寺の場合であれば、人間が参ることを考えて畳を敷くようになる。そうすると「金堂」ではなく「本堂」になります。「金堂」の時代は普通の人が寺に参るなどということは考えられなかった。そうして、一般民衆から隔離したものとして沢山の寺を作った。その目的は何かというと、鎮護国家のための祈祷を行う場所だったのです。仏さんに疫病や悪霊を退散させる力を求めた。そういうことを真面目に考えて国家予算をつぎ込んだ時代だった。僧はその祈祷の仕事を行うための国家公務員で、出家は厳しく規制されていました。この鎮護国家が目的で各地に寺が作られますが、それが国分寺・国分尼寺です。

 最後に東大寺に関連したことを話します。
まず「大仏」とはどういう仏像かというと、一丈六尺(4.85メートル)以上だと「大仏」というそうです。東大寺の大仏は大仏の中でも特大ですね。この大仏は盧舎那仏といって華厳経というお経に出てくる仏を表わしています。743年に大仏を作ると宣言して749年に完成しています。そんなに時間は掛かっていないのですが、一大国家事業でした。しかし、難事業で予定通りに進まなかったらしく、行基に勧進を依頼します。行基はこの時代では稀なことに、民衆に仏教を広めようとした人で、民衆の生活基盤の安定のために、インフラ整備の土木事業などを各地で行って信望がありました。行基はその仕事をやり遂げ、大仏が完成します。話が前後しますが、百済は700年になる前に新羅に滅ぼされます。このときに百済の王族などが日本に逃げてきました。その王族の皇子が、ここ、宮城県の涌谷町に来ています。なぜ来たかというと金を探しに来たのです。そして金山を見つけ、40キロ前後の金を朝廷に献上しました。大仏のメッキに必要な金の量は450キロくらいで、その十分の一程度を献上することができ、天皇が大変喜んだそうです。そういういろいろな経過を経て、大仏は完成しました。日本という小さい国が中国、朝鮮にもないような大規模な仏像を作り上げました。その開眼供養は国際的なセレモニーとなり、インド人僧菩提僊那ぼだいせんなにより行われました。
 この国家事業が現在に換算してどれくらいのものだったか、計算した人がいます。

二〇一〇年八月四日 共同通信

東大寺の大仏建造費4657億円 現在価格で費用試算

 752年に開眼供養が行われた東大寺の大仏と大仏殿の創建時の建造費が、 現在の価格で約4657億円に上るとみられることが4日分かった。
関西大の宮本勝浩教授(理論経済学)らが試算した。

 建造にかかわった人の消費などによる経済波及効果は約1兆246億円に上る。

 建造当時や再建時の資料などをもとに原材料費、人件費、労働者の住居費の三つに分けて費用を推定した。

 原材料費・・・大仏に使った精錬銅約500トンや大仏殿の柱材用の丸太84本など約3363億5千万円。
 人件費・・・・建造に携わった人は延べ260万人以上。この人件費が約1292億円。
 住居費・・・・約1億7千万円。

 石材や内部装飾、東大寺の他の建築物にかかった費用は含んでいない。実際にはさらに多額の費用が必要だった。

やはり大変な規模だったと分ります。現在は多くの宗派がありますが、単独でこれだけの事業が行える宗派は無いでしょう。大谷派はこの前、親鸞750回忌記念で本山修復事業を行いましたがこの事業費が約350億円で、大仏建造に比べたら屁みたいなものですが、それでも宗門は結構な苦労をして金を集めています。
 当時の日本人口は約500万人で、平均寿命は30歳台だったと思われます。そのような状況でこれだけの事業を行うということは、大変な苦労を国民に強い、財政が疲弊するものでもあったことでしょう。また大仏を鋳造するのに水銀を使います。その水銀が蒸発して奈良盆地一帯に充満したようです。大仏建造と同時期に流行病が記録されていますが、それはこの水銀が原因だったのかもしれません。

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