真宗大谷派 西照寺

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仏教の歴史 その5


2012年12月15日 同朋の会から

四、中国

 中国人の仏教受容の歴史は、まず経典の招来しょうらいとその翻訳の事業を主題としてつづられねばならない。その最初のものは、古来から、後漢ごかんの明帝めいていの永平年間(紀元五八―七六)迦葉摩騰かしょうまとうらによってもたらされ訳出された「四十二章経』であるとされているが、今日では、それは疑わしい伝説にすぎないとされている。
 その確証されるものは、紀元一四八年ごろから一七一年ごろにわたり、洛陽らくようにおいて訳業に従事した安世高あんせいこうの仕事である。それ以来、北宋(九六〇―一二一九)の時代に至るまで、中国の仏教経典翻訳の事業は、およそ千年にわたって営み続けられた。(291ページ)

中国の話になると歴史がとても面倒になります。漢とか唐とかの国名が出てきますが、単純に時代で区切ることができません。国土が広すぎて色々な国が並び立つ時代が大半です。それぞれの名前もどう読むのか分らない漢字で表わされますのでとても覚えにくい。そういう諸国が並び立ち戦争も起きる中で仏教が伝わり、広まっていった。
 仏教がインドで誕生したのが二五〇〇年前、はじめインド国内に広まりその後南方、西方世界に広まりました。そしてようやくここに書いてある通り紀元前後くらいに中国に伝わりました。釈尊が亡くなってから約五〇〇年かかっています。日本に伝わるのはさらに五〇〇年後です。

インド →五〇〇年→ 中国 →五〇〇年→ 日本

だから聖徳太子の時代でも仏教は既に一千年の歴史があったわけです。そういう大きな時間の流れです。そして私達の時代はそこからさらに一千五百年経ているわけです。

 その初期においては、経典をもたらし、かつ、その翻訳の中心的役割を演じた人びとは、たいてい西域さいいきからきた僧たちであった。例えば、いまの安世高あんせいこうは安息あんそく国すなわちパルティアからきた人であり、第三世紀のころ洛陽に来って『無量寿経』を訳した 康僧鎧こうそうがいは康居こうきょすなわちサマルカンド地方の人であったし、あるいは、『正法華経』の訳者として知られる竺法護じくほうごは月氏げっしの出であって、第三世紀の後半から第四世紀のはじめまで、洛陽または長安にあった。そして、第五世紀のはじめ亀茲きじよりきたった鳩摩羅什くまらじゅうに至って、中国の訳経は一つの頂点に達した。(292ページ)

四人の翻訳者が出ましたので詳しく見てみましょう。

・安世高あんせいこう(一五〇年代。後漢ごかん時代)
     安息国(パルティア)の太子。父王の死をきっかけに出家。
  訳出経典 転法輪経てんぼうりんきょう、八正道経はっしょうどうきょう等。

・康僧鎧こうそうがい(二五〇年代。魏・呉・蜀時代)
  康居(サマルカンド)出身。
  訳出経典 無量寿経むりょうじゅきょう

・竺法護じくほうご(二五〇年代。西晋せいしん時代)
  月氏人の末裔、敦煌に生まれる。
  訳出経典 正法華経しょうほっけきょう、無量清浄平等覚経むりょうしょうじょうびょうどうかくきょう等。

・鳩摩羅什くまらじゅう(三四四―四一三。後秦こうしん時代)
  父はインド人、母は亀茲国王の妹。
  訳出経典 大品般若経だいほんはんにゃきょう、法華経ほっけきょう、維摩経ゆいまきょう、阿弥陀経あみだきょう
    中論ちゅうろん、大智度論だいちどろん、十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん等。

それぞれの出身地を前回の地図に記してみました。
画像


シルクロード沿いにあった国々の出身です。仏教はインドからこれらの国々に伝わり、そこで仏教徒となり出家者となった人々から翻訳者が生れた。我々坊主が読むお経はこの人達の仕事のおかげでできたものです。テキストにこの四人の名前が出てきたので紹介していますが、その他にも沢山の翻訳者がいた。そういう人々が経典を中国語に訳す仕事を行った。なぜこの時代にこのように大規模に翻訳の事業が続けられたのだろうか、と考えると不思議な気持ちになります。
テキストを続いて読みます。

そのころから、中国よりインドに至って梵語ぼんごをまなび、法を求める人びと、すなわち、入竺求法僧にゅうじくぐほうそうの活動が始まった。その先駆者は法顕ほっけん(三三九―四二〇頃)であって、彼は隆安三年(三九九)長安を出発し、十五年を経て帰国した。そのもっとも有名なものは玄奘げんじょう(六〇二―六六四)であって、彼は貞観元年(六二七)に出発し、貞観十九年(六四五)に帰国した。その間じつに十九年に及んだ。さらに義浄ぎじょう(六三五―七一三)は、咸亨かんこう二年(六七一)海路によってインドに向かい、二十五年の後、同じく海路によって帰国した。
 彼らは、自らインドに至って梵語をまなび、自ら経典を選んで持ち帰り、かつ、帰国の後には、たいてい訳経の中心的役割を演じた。ことに、玄奘がしめした語学力は、群を抜くものがあって、彼の精力的な訳業によって中国の経典翻訳の歴史はもう一つの頂点を迎えた。学者たちが、鳩摩羅什くまらじゅうによって代表される旧来の翻訳を「旧訳くやく」と称し、玄奘げんじょう以後の新しいそれを「新訳」とよぶのは、その故をもってである。(292〜293ページ)

この旧訳と新訳の区別を言い出したのは玄奘さんご本人です。玄奘は自分の訳に大変な自信を持っていたようです。それだけのことはある人です。語学の天才でかつ努力家で行動家でした。鳩摩羅什も天才でしたが、ここで名が上がる人々はスケールが群を抜いています。そういう人々が経典を翻訳し仏教を広めることに努めた。あの時代にそういう情熱がどうして出たのかと、やはり思います。
玄奘を詳しく見て行きます。

・玄奘げんじょう(六〇二―六六四。唐とう時代)
  河南陳留出身。   大唐西域記だいとうさいいきき(インド旅行記)・・・西遊記の元になる。
  訳出経典  大般若経だいはんにゃきょう六百巻、称讃浄土経しょうさんじょうどきょう
      瑜伽師地論ゆがしじろん百巻、大毘婆沙論だいびばしゃろん二百巻、倶舎論くしゃろん等。

画像 大唐西域記は玄奘が書いた旅行記ですが、西遊記は明みんの時代に大唐西域記を元に作られたおとぎ話です。玄奘の訳出した経典類のほんの一部を挙げましたが、これだけでも驚くべき分量です。実際の訳出は皇帝に支援された国家事業で玄奘を頂点とした大規模な体制を敷いて為されたのですが、それでもその翻訳の内容に最終的に責任を持つのは玄奘一人です。
この地図は大唐西域記の現代語訳(東洋文庫)に添付のものをコピーしたのですが、玄奘の足跡が載っています。見やすいように玄奘の通ったルートを赤鉛筆で強調しておきました。ここを十九年かけて踏破したわけです。しかも自費でおこなっています。十九年の生活費はどうしたのでしょうか。
 実はこの当時、唐は西域への旅行を禁じていました。若い玄奘は仏典を求める決意固く、単身密出国したのです。おそらく準備は周到に行い、資金もそれなりに用意したのでしょう。
しかし、これほど大規模で長期の旅をなしとげることができたのは、幸運にも道中での二人の王の助力があった結果でした。
 一人は玄奘が唐を出てすぐに入った西域の国、昌の王です。昌王は玄奘に旅費二十年分を与え、インド国境まで無事に送り届けるために三十人の家来、馬三十匹を付けています。
 もう一人は北インドの戒日王です。戒日王は玄奘の帰国にあたって、旅費と大臣四人を付け、象一頭を与えました。玄奘が集めた厖大な経典の多くはこの象が運んだものと思われます。

 このようにして各時代ごとに中国にもたらされた原典は、その多くが皇帝の手厚い援助のもとに翻訳施設が作られ、国内から優秀な僧侶が集められ、大規模な体制が作られて翻訳されたのでした。その翻訳事業がどのようなものだったのか、鳩摩羅什と玄奘を例に見てみましょう。

・鳩摩羅什くまらじゅう(三四四―四一三。後秦こうしん時代)の場合
  後秦第二代皇帝姚興ようこうは、鳩摩羅什のために長安大寺を建立し経典翻訳の道場とした。
  訳場はそのまま講説の場だった。
  『大品般若だいほんはんにゃ経』訳出時、五〇〇人が参加、皇帝自ら作業に参加。
  『維摩ゆいま経』訳出時、一二〇〇人が参加。
  『思益梵天所問しえきぼんてんしょもん経』訳出時、二〇〇〇人が参加。

・玄奘げんじょう(六〇二―六六四。唐とう時代)の場合
  唐二代皇帝太宗たいそうは玄奘のために翻経院を建てた。
  瑜伽師地論を訳出したとき、太宗が『三蔵聖教序』、皇太子が『述聖記』という文を寄せている。
  玄奘門下数千人。

鳩摩羅什と玄奘では時代が二五〇年ほど違いますが、訳出作業の核となる部分はあまり変わりありません。それぞれを長として、その下に選りすぐられた俊才が15人から20人ほど付き、作業分担して翻訳が進められます。そしてその翻訳の現場はまた当時の仏教学問の最先端の場であり講義の場でもありました。その講義を聴くために優秀な学者が何百人、何千人と集まったようです。
そしてどちらの場合でもそうですが、支援した皇帝自身が仏教に深い理解を持つ教養人だったのです。
このように中国への仏教の浸透は原典を求め翻訳する僧達の命懸けの行いと、その志を理解し援助した世俗の支配者達の行いという二つがあって実現しえたといえます。
 中国には仏教伝来以前から、儒教・老荘思想(道教)がありました。これらは中国で発生した高度な教えと言えます。しかしそこに新来の仏教が入ってきて受入れられていく。やはり仏教には儒教や道教にはない意義があって受入れられたというべきでしょう。

 さて中国は皇帝が支配する国でした。その皇帝が仏教に好意的な理解を示すときは保護し興隆する政策が行われました。しかしそれは仏教の興廃が皇帝個人の考えにかかっていることでもありました。鳩摩羅什や玄奘の時代は良い方に政策がはたらき、仏教は発展しました。しかし、この二人に挟まれた二五〇年間に二回の弾圧(廃仏)があって仏教は大きく衰退しています。

・北魏大武帝の廃仏(四四四〜四四六)

・北周武帝の廃仏棄釈(五七四〜五七七)
  寺院経像を破壊し、僧尼は総て還俗させ軍戸に編入。

 これらの廃仏の原因は色々考えられます。その時の皇帝が道教を信じ仏教を排除したとか、仏教が勢力を持つにつれ、経済的に裕福になり特権化し堕落した面が現れました。それに対する批判が廃仏の原因となった面もあります。
 中国では出家し僧侶になるということは国家が許可しなければできないことでした。僧侶は国家への納税や用役の義務を免除される特別な階級だったのです。しかし、仏教が定着するにつれ、国家の許可を受けずに出家する僧(私度僧)が現れるようになりました。これは支配者にとっては支配下の人間が離脱することですから脅威となります。これも廃仏の原因の一つだったことでしょう。
 いずれ、中国の仏教は支配者が決めた枠組みの中で展開したのでした。

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参考文献
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