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『宗教哲学骸骨講義』意訳
本論
第一章 宗教の定義
「宗教とは何か」という問いに答えるのがこの章の内容である。
1 諸家の説
(1)ホッブズの説
「国家の認定するところの目に見えない諸力(神、無限)を恐れ敬うものである。」
ホッブズは国家を重んじる故に、国家を本位とし宗教は国教とすべきである、と言う。
(2)ベックの説
「人々各自の心の中の裁判官である良心が表れて、心の外に神となる。その神の命令に従順するものである。」
ベックは道徳上の良心を重視して、これを基礎とする定義をした。ソクラテスが「常に精霊が指図する」と言っていたことと同じで、
良心を外にあるものとし、これを神とした。
(3)カントの説
「宗教は道徳である。」
カントは、我々の道徳上の義務を、神の命令として認める場合は、それが宗教である、と言った。
宇宙には道徳律という法則があり、これは全ての人が履行すべき途である。我々はこの道に従わなければならない、と言う。
(4)フィヒテの説
「宗教は知識である。」
知識とは、自己とは何か、を明瞭に知ることで、この知識を得て我々は充分な調和の状態を得ることができる。
(5)ヘーゲルの説
「絶対真理の開発〔探求と獲得の過程 〕における再現的知覚を指すものである。」
絶対の真理が開発されていく中で、それが心の中に想像という形状で再現されることを言う。
またヘーゲルは言う。「宗教は完全なる自由である。」
その他の自由は自由と言っても完全なものではない。相対的なものである。それに対して宗教の自由は完全なものである。
自由とは従属の反対である。
再現的知覚とは真理が表現されたものであるから、再現的知覚〔宗教〕が真理に対するということは、
神が神に対するということになる。よってこれは完全であり、〔絶対の〕自由である。
〔先に清沢の図解の欠点を述べたが、反対にこの図は良い表現だと思う。絵画的・詩的で見る者の想像力を喚起する。
想像にまかせて上のように解釈を付加した。この解釈は自分自身が最初の再現的知覚に到るまでの過程を表している。〕
(6)シュライアーマッハ―の説
「宗教は無限者に対する帰敬の感情である。」「宗教は絶対の服従の感情である。」
これはヘーゲルとは正反対である。無限があって有限がはじめて成り立つのであり、その有限が無限に対する感情が宗教である。
絶対の服従には自由は全く無い。よってヘーゲルの完全自由とは正反対である。
(7)スペンサーの説
「宗教は宇宙万有に関する先天的考察である。」
スペンサーは近世の理科学を基準にして宗教を見ている。理科学は実験観察による確実な根拠によって万有の説明をする。
これはつまり後天的説明である。これに対して宗教は確かな事実によらず、観察実験によらず、先天的な憶想によって立てられたものだ
と言う。
こうしてスペンサーは宗教を学問の初級のものの如くに扱い、科学的知識が発達し、実験観察が当たり前のものとなった暁には、
宗教は消滅していくと考えている。
しかし、この考えでは不可知なるものは、いつまで経っても解明することができない。したがって〔スペンサーの意に反して〕
宗教はいつまでも存在するだろう。
(8)ルヴィールの説
「我々の心が、万物と自己を統制する不可思議なる一つの心というものを認める。そして各自がこの一つの心と結合すると感じるとき、
悦楽が生じる。この結合の感情によってその後の一生の生活のあり方を決定する。これが宗教である。」
ルヴィールはこの不可思議の一心があるというところに重きを置く。この一心は知性もあり感情もあるということを認めている。
この心と我々の心が交流するという信仰が起って一生のあり方を決定する。この不可思議の一心というものは、真理、無限、
絶対という言い方で示されているものと同じもののようである。
(9)タイラーの説
「宗教は霊的存在を信ずることである。」
タイラーの意見では、霊的なもの(つまり物質的でないもの)があることを信ずる、ということはすべて宗教であるという。
(10)マックス・ミュラーの説
「宗教とは無限者を理解する、という主観的な能力を指す」
ミュラーは宇宙には無限者がある、という。そしてそれを理解する能力を我々が有しており、それが宗教であると言う。
ミュラーはこの能力は感覚と理性の外にあるとする。
2 私の定義
以上のように宗教の様々な定義を列挙してみると、それぞれが細々こまごまと違っており、一つの定義にまとめることは
困難である。これらの中には、自由という者があるかと思えば、反対に従属という者がある。道徳という者があり、知識という者、
恐怖という者、悦楽という者がある。そして、これらの外に宗教排斥論者があって、宗教は心の病から起ったものと言う。
これらの様々な意見を概観してみると、ある種の共通事項を見い出せる。
それは、宗教には常に二つの相対あいたいしたものがある、ということ、そしてその二つのものの関係は心情である、
ということである。すなわち、宗教には主観的なものと、客観的なものとの二元素がある。その二つのものの一致、
あるいは調和が宗教である、という意味である。
かつ、また、主観的なものとは我々の心で、客観的なものとは、この主観に対する万有全体(あるいは無限者)である、
ということは明かである。
したがって、私は宗教の定義を簡単に次のように下す。
「宗教は有限・無限の調和である。」
(したがって『骸骨』第二章に有限・無限を論じている。)
3 宗教の定義の三つの説明
ここで、私の宗教の定義について、三つの箇条に分けて少々説明する。
(1)「宗教は有限・無限の調和である。」
無限とは、神、仏、真如等を指している。なぜこのようにしたかというと、無限という一語で表わすことで説明が簡潔になるからである。
これは哲学的には本体、本質、絶対、無碍、不可知的、無覚、真理、理念(理想)などと言う。無限とは、これら総てを
代表させるために用いた言葉である。
有限とは、我々の自己のことである。一切万物は有限であるが、その中でも自分自身が有限であることは明白である。なおかつ、
宗教は自分自身において問題となるものであるから、ここで有限と言うとき、それはそのまま自己を指すことになる。そして、
そこに一切万物もまた自己と同じく有限である、という意味も含めている。この事は後の章で論じる。
調和ハーモニーとは対応(対合)コレスポンデンスと言っても良い。対応という言葉はスペンサーが使って以来、
とても重要になってきた言葉である。
スペンサーは「生活」の定義で「生活とは内外関係の対応である。」と言った。〔ここで言う「生活」とは現代の文脈だと「生命」
の概念に近いようである。しかし、「生命」と共に「生活」の意味も含んでおり、それが大切であるという姿勢が感じられるため、
訳語でも「生活」をあてている。〕
宗教もまた生活の大切な一部分であるから、生活が対応であるならば、宗教も対応でなければならない。そして、このときの対応とは、
有限・無限のそれである。
この点について最近、ドラモンドはスペンサーの生活理論を宗教に適用して、目覚ましい説明を行った。生活と宗教とにおける
「対応」の使い方を考えると、「対応」という言葉は宗教において一層良くあてはまる。ドラモンドの「対応」の使い方は
次の通りである。
これまでの霊魂不滅の考え、すなわち、我々というものが無窮の生活を得る、ということについて、様々な議論があったが、
それらは要するに我田引水の理屈でそれぞれの宗教だけでの議論であった。スペンサーは宗教に関係無く、むしろ宗教に反対する
立場での理論に立って、生活の定義を下した。ドラモンドはその定義に依って、初めて明白公平に霊魂不滅、無窮の生活を次のように
説明した。
生活とは内外関係の対応である。よって外部の関係が変化するとき、内部の関係はそれに応じて変化する。
そのようにして常に内外の対応を維持するときは、生活は継続する。そして、その対応を維持できなくなったとき、
生活は断絶して死となる。
そして、外部の関係、すなわち事情というものは、有限であるから、変化は極まりなく起る。よって何時内外の対応が
破られるか分らない。ここで、もし不変・不動の外部の関係があって、それに対して内部の対応が得られるとすると、
その対応は不変不動で、破れることはなくなる。すなわち、生活が途絶えるということは無くなる。
そのような不変不動の外部の関係(事情)は有るのか、無いのか。有るとすればどのようなものか。
〔答えはこうである。それは有る。そして〕
その不変不動の外部とは、すなわち、霊的に完全な対象〔「圓象」を「完全な対象」とした。〕でこれを真の神と名付ける。
よって、我々はこの真の神に対して信仰を起すとき、我々の霊魂は不滅で、生活は無窮なるものとなる。(以上はごく最近の説で、
スペンサーの説をドラモンドが応用したものである。)
調和という言葉を用いるときは、対応という言葉の意味より広く、平衡、相対という意味となる。
(2)「宗教は有限が無限に対する実際である。(有限の方から見ている。)」
分りやすく言えば、自分が関わるものとしては、このような言い方になる。実際とは理論に対して言う。
有限・無限の理論は哲学である。宗教はそれに対して実際〔つまり哲学の実践か〕である。
(3)「宗教は無限の自覚還元である。(無限の方から見ている。)」
無限の方から言うと、無限とはつまり万象として顕れたものであり、その外に別のものとしてあるわけではない。
その万象の一つが私自身である。
私自身は無限と別のものではなく、無限の一部分である。無限を体全体に例えれば、有限はその手の指や、
足の先などに例えられれる。このような無限の一部分である私自身が、無限という全体を認めるとき、それは無限が自分自身を知る、
ということになる。
よって無限は私自身である、と知り、私自身が無限に還るという心情を起すことが宗教である。最も深い意味での宗教の定義が、
この解釈である。ヘーゲルの宗教の定義はここでの解釈に等しい。
以上の説明は不完全なもので、推察も入った概略を述べた。
さて、ここまで宗教の定義について色々と議論してきてはっきりしたことがある。それは「宗教」というと、
無情で無味乾燥のようなイメージがあるが、その実そうではなくて宗教とはここで取り上げた色々な解釈以上に感情性が深いものである、
ということである。この節での説明には、その感情性は含まれていない。そこで感情性を付加して
(1)の宗教の説明を再度行ってみると、次のようになる。
「宗教は有限・無限の調和で、かつ、我々を至楽の境地に安住させるものである。」
他の二つの説明も「我々を至楽の境地に安住させる」という意味を付加してはじめて、定義の感情面を満足するものである。