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『宗教哲学骸骨講義』意訳
第七章 心の平安と徳の開発(安心修徳)
本章は宗教哲学の中で最も重要な部分であり、これまでの章はすべて本章への準備であった。宗教の領域は一種特別で、
他の分野とは異なるものがある。世間から見ると狂人とされるくらいの者が真の宗教者である。
1 「原因の段階と結果の段階(因分果分)」
世の中の一切の事は原因の段階と結果の段階のどちらも説明できるが、宗教の場合は結果の段階は説明できない。
よって、原因の段階で結果の段階があるということを知るだけである。〔結果の段階を〕不可説とか絶対とか言うことはできるが、
積極的にその内容を説明することはできない。
よって『骸骨』のこの項では、結果の段階の説明を行っていない。
2 「原因段階と二つの要素(因分二素)」
心の平安(安心)は知識か感情か、という議論がある。私の考えでは、あれこれ弁別する知識から〔更に〕感情に進んだところで、
信仰と言われ、心の平安(安心)と言われると思う。そこから更に善に進むのが徳の開発(修徳)である。
そして、説明上は心の平安を知の要素(知的)と言い、徳の開発を行為の要素(行的)と分けて言うが、
実は感情という一つの思いの中にこの二要素を具えるのである。したがって、宗教は感情を中心とするのである。
知とはダイナミックな(動く)ものであるから静止するという状態が無い。その知が情に入って、そこではじめて心の安住を得る。
3 「心の平安(安心)」
『骸骨』に潜在的無限(含蔵無限)とあるのは、有限の内部に無限が含まれていることを言う。例えば「一切衆生悉有仏性」
がそうである。
4 「他力門」
無限を信ずるその心が無限の中の一部である。故に他力という。有限が万物に対する時の心は有限であり、自力である。
しかし〔有限の心が〕無限に対する時は、無限であり他力である。
5 「徳の開発(修徳)」
〔行為の動機(意行誘因)の図で〕
良い知(真覚)は、一無限に対する心であるから、一である。
悪い知(妄覚)は、多数の有限に対する心であるから、多である。
良い習慣(真習)・悪い習慣(妄習)についても同様である。
6 「成就と往生(成道往生)」
仏教以外の宗教では、この世で悟りを開くということが無いために、成就(成道)ということがない。また、
自力・他力を明らかにして、成就と往生を分けるということもない。これらは仏教独特の長所である。
往生に類似する思想を述べる。
キリスト教では最後の審判によって善所に行く者と悪所に行く者とに分れるという。
エジプトの宗教では最後の審判を信じて、その時まで身体が風化しないようにピラミッドの中に入れて保存した。
ソクラテスの説は転生の思想である。
仏教の十界〔地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏〕輪廻説はこれに類似する。〔行為の〕
原因と結果に大小高下があるため、十界の転生は偶然ではなく必然である。
地獄等の十界は我々にはすべてが明かではない。しかし、〔これらの十界の表現は〕我々の知識・境涯に喩えた説である。
よってこれらの説は今日でも迷信というわけにはいかない。
我々の知識とは上にも下にも限界があるものである。したがって我々の知識の及ばないところが、上限、下限を越えたところにある、
と思わなければならない。我々の知らない境涯は多く、直接知っている境涯は狭い。よって、地獄または天上は、
我々には具体的に見ることができないからという理由で、疑うべきものではない。ただ、知らないことは知らないとして、
自分の知の及ぶところを考えるべきである。
因果必然を厳格に主張すれば、定道論となる。今日の有様は昨日の結果で、また明日の原因である。因果が必然に起るとすれば、
十界の転生は因果必然であるから、我々の意志での変更は不可能である。よって十界の転生を云々する必要は無いということになる。
すべてが因果の業報の必然であるとするならば、善を為し悪を止めるという行為にどのような根拠があるか、
ということを論じておくことは仏教では必須である。
因果は宗教では必ずその位置を占めるのであるから、因果を立てなければ宗教ではないということになる。
〔因果を必然とすれば宗教の必要性はなくなる、しかし因果を認めなければ宗教ではなくなる。これをどう調停するのか、
ということで次に繋がる。〕
仏教は定道論であるが、またその中に自由意志説があって因果を自由にすることができると教える。このように論じてくると、
仏教における因果の解釈は難しくはない。
他力門では自らが努力すること〔自由〕は必要ない。純粋の因果である。〔したがって因果論があってよい。〕
自力門では〔因果論に〕自由の要素を加える。
これらの理由は、無限と有限を考えてみると、有限には自由は無い。無限には自由がある。しかし、
無限の方にある自由は我々の左右できるものではない。
他力門では、有限と無限が別々になっているので、無限には円満の自由の力があるが、有限には自由の力が無いという。
自力門では、因となる無限を自己の心の中に認めるから、無限が有する自由の力は自分にも具わると思うために、
修行に励むことになる。
他力門では自分に自由の働きは無い。わずかに自分の力と考えられるものも、他力の恩恵(回向)である、と捉えるようになる。
よって他力門では因果必然という考えと衝突しない。
しかし、自力門では何の必要があって因果を説くのか。因果は生成(転化)の法則の上にある。すなわち、有限の上にあることで、
何事を為すにも必ず因果がある。そして、自由は無限のみにある。しかし、有限と無限は互いに離れず、無限に対して有限があり、
有限に対して無限がある。したがって自由と必然とが離れず、常に伴わなければならない。その中で、我々の認め得るところは
有限・必然の方である。
そうすると、我々の必然・因果の考えをあてはめなければ了解することができないのである。
これが自力門でも因果論がなければならない理由である。
〔自力門についての説明であるが、他力門の有限者が「自分の意志で行為を起す」場合(日常生活はすべてこのレベルである。)は、
この説明がそのまま他力門についてもあてはまると思う。親鸞の言う「他力の中の自力(横出)」である。そうすると、
清沢の言う自力門、他力門という分類は当然、宗派というセクトを指しているのではなく(セクト的分類に偏る傾向を我々は
厳しく慎まなければならない)、存在を無限の側から見る(他力門)か、有限の側から見る(自力門)か、
という違いを指しているように思われる。〕
7 「成就(成道)(楽土)」
時間と空間は確実に定めることができるものではない。
〔時間については〕一夢の中で三年・十年のことを見たり、〔空間については〕一瞬の思い(一念)
の中に百里・千里を走ることがある。
〔時間について〕無限の方から見れば、一瞬の思いに三阿僧祇(3×1056劫〔一説を取る〕)を具し、同じものを有限の方から見れば、
三年・十年・・・・・三阿僧祇等となる。
空間についてもまた同様である。
無限から有限に対する行程は〔いかに巨大であろうと〕ゼロとなり、有限から無限に対する行程は無限を目指していくらでも
巨大になっていく。
┌有形楽土・・・・・・・・事相〔現象〕
楽土┼無形楽土・・・・・・・・理性〔本体〕
└有形無形を含む楽土・・・事理相即〔現象本体不可分〕─ここではこれを楽土とする。
〔事・理については種々の意味があるが、ここでは現象・本体と解釈する。〕
8 「比説」
『法華経』に「今、この三界は皆是れ我が有、其の中の衆生は悉く是れ我が子」とある。霊魂の進化は統一していく作用である。
統一の至り届いたところまでは、すべてのものが我が所有となる。
我が心が万有界に住めば、すなわち万有はすべて我が所有である。家臣の功労・過誤をすべて我が功労・過誤
とするものは明君である。
一切が我がものと〔有限〕全体を所有すれば、それが霊魂開発の極限に達した状態である。すなわち無限に到達したのである。
『涅槃経』に一切衆生悉有仏性と言い如来蔵と言う。すべてこの境地を言うのである。
ここで言っている「我」は時を隔てた〔転生後の〕我ではなく、一切に普遍である我である。
『十善法語〔慈雲飲光(1718─1804、真言宗)の著〕』に言う。
この人があってこの道がある。〔道を〕外に向って求めることではない。その大人〔覚者〕があって 十善〔不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不悪口・不両舌・不綺語・無貪・無瞋・正見〕の道が全うされる。 それは今から新たに作り出されることではない。人々に〔自ずから〕そなわり、物は自ずからそこにある。 存在としてそのままである。ただ迷う者が迷う。知らぬ者が知らぬばかりだ。この迷う者、知らぬ者のために、仏の説法がある。 どんな説法かというとこのようなものだ。
『法華経』の中に「今、この三界は皆是れ我が有、其の中の衆生は悉く是れ我が子」と言う。
ここで三界とは欲界、色界、無色界である。
男女の欲があり、飲食の欲があり、睡眠の欲がある世界を欲界と名付ける。
この欲を離れて、身心が精神集中(禅定)と相応する世界を色界と名付ける。
この心がその質礙ぜつげ〔物体が特定の場所を占めて他の物を入れないこと。色の特質。〕の色身を離れて、虚空と相応し、 寂静と相応する世界を無色界と名付ける。
これらの世界と衆生の住むところがあるということだ。
この三界は十善が完全に顕れる所で、大人〔覚者〕の心が所有する世界である。その中の衆生は実の我が子である。 存在としてそのままである。ただ我見への執われ(我相)を持つ者が自他の区別を作り上げ、自ら覚りに達しない。 妄想になびく者が妄想に蔽われて自ら覚りに達しないのみである。
この者がもし自ら、我見への執われ(我相)が、もとより空であることを知り、我が所有物への執われ(我所相) がもとより空であることを知り、存在の差別のあり方(法相)がもとより空であることを知れば、 今日から三界は我が所有する世界となる。そしてこの中の衆生は実に我が子となる。
また言う。
一般の人々は、我が手に取ることができず、我が眼に見ることのできないものは、我が所有物とは言えないと思っているだろうが、 手に取れるものばかりが我が物ということではない。眼に常に見ているものばかりが我が物ということではない。
大金持ちの家の主人も、常にその大金を懐に入れているわけではない。それらは使用人などにまかせている。そうでありながら、 一村一郡の主である。
天下を治め一万台の兵車(一天万乗)の主たる大君でも、所有する山海の広狭、土地の産物、人民百姓の田穀財宝の数まで悉く 知っているわけではない。民百姓の田地財宝は民百姓の田地財宝としてそのまま我が所有である。
功臣や諸侯には一国、二国を与え、それをそれぞれの子孫末裔に相続させ治めさせておき、やはりそのままに我が所有の領土である。
これらの譬えで知れ。真に徳を開発(修行)する人は、梵天に昇って見なくとも、十八梵天には精神集中(靜慮)の楽を得させておいて、 そのままに我が所有であり我が子である。
無色界は見なくとも、また、自身が無色定を得なくとも、そこの衆生に深い禅定に入らせておき、そのままに我が所有、我が子である。
勇者は勇者、智者は智者のままに、たとえ自分の胆力や智慧は彼等に及ばなくとも、そのままにすべて我が所有であり、我が子である。 面白いことだ。
富貴の者は富貴のまま、我が所有であり我が子だ。貧賎な者は貧賎のまま、我が所有であり我が子だ。面白いことだ。
この法語はよく無限の境地に達した人の心情を言い尽くしたもので、我々は大いに味わわなければならない。
9 「光明の可能性(成道可得)」
阿弥陀仏を立てることは、ゴッドを立てるようにしてはいけない。なぜなら、そうしてしまうと〔第三章で見たように〕
哲学で破られるからである。
もし哲学に破られまいと欲するなら、阿弥陀仏を真如と等しいものとしなければならない。しかし今『骸骨』のこの
「光明の可能性(成道可得)」の項の内容で論を立てる時、阿弥陀仏の存在証明が確立する。
10 有限と無限の一致
〔図省略〕
11 私の宗教説と他の哲学説
ここで我々はこれまで述べてきた〔私の〕宗教に関する説と、他の哲学説とを比較してみようと思う。
自由と必然については、無限については自由、有限については必然ということを言った。この言い方はカントの本体・現象の論と
似ている。カントの説は、本体は自由、現象は必然と言った。
しかし、現象・本体と有限・無限とはかなり様子が異なる。これについて哲学の説と私の有限・無限説とを対照する。
哲学では唯物論と唯心論は必ず二つに分れており、唯物は唯心を容認せず、唯心は唯物を容認しない。
さて、この唯物・唯心を有限・無限に対応させてみると、有限に重きを置いたものが唯物論、無限に重きを置いたものが唯心論である。
しかし、有限無限が一体と言うときは、唯物一辺倒でもなく唯心一辺倒でもない。両方を超越した説である。
そうすると一元論にしてしかも本体・現象論(体象論)と言って良い。(カントは本体と現象を分けた。)
本体・現象論と言う場合、現象は有限、本体は無限にあたる。
さて、この本体・現象論には、本体現象一体説と本体現象非一説がある。
スペンサーの本体・現象論では本体を不可知的とし、現象を可知的とした。〔つまり本体現象非一説である。〕
この点はカントが物自体を超越論的と言ったことと同じ言い方である。
理科学などは、この世界を現象世界と捉え、その事物を研究する学問で、スペンサーの進化論もこの範囲
〔つまり現象世界の説明のみの範囲〕に属する。よってスペンサーの進化論でどれだけ完全に現象を説明しようとも、
理論そのものは不完全である。なぜなら更に不可知的本体との関係を明らかにする必要があるからである。
そして、この要求にスペンサーの学説は到底応えることができない。
『骸骨』では、この点を迷悟の範疇によって明らかにしようとした。
この本体と現象との関係は迷の領域では到底解らない。悟に生成した(転じた)ところで一種特別の智見を開いて
無限に対する関係を明らかにするのである。
したがって私の有限・無限論はカント、スペンサーの本体・現象論とは少々異なるところがある。
かえってスピノザの本体論と似ている。しかし、スピノザは本体は絶対の一であるとするが『骸骨』では無限は無数ある。
あるいは有限が各々無限である。あるいは〔有限が各々〕無限となる(成仏する)〔『骸骨』第六章八「無限の無限数(無限の数)」〕
と説くから、我々の心身がそのまま有限・無限の一致である。
要するに有限・無限と区別すべきではなく絶対である。したがってその一種特別の智見が開けた以上は、有限・無限を超越して
絶対的な活動を行うようになる。
この点から言えば私の論はヘーゲルの絶対の開発の論、あるいは絶対理念(理想)の論〔西洋哲学史講義「ヘーゲル」意訳
第一章 3.3 理念(理想)〕の論に似ている。この見地から言うと迷もなく悟もなく有限・無限もなく、ただ絶対である。
迷即悟、有限即無限、煩悩即菩提という考えになる。(ヘーゲルの論の価値は『西洋哲学史講義』に譲る。)
『骸骨』の説はヘーゲルの論に類似すると共に、ライプニッツの単子論のような語り口も持っている。ライプニッツは
一つの単子が開発して神になるというように説いたが、へーゲルはこれとは異なり、はじめから絶対が動いて相対に顕れると言い、
それが再び絶対に帰るという。
私の説はこのように種々の哲学説と関係を有している。それらの哲学説が私の説において、調和させることができただろうか、
後賢の判断を待つ。
12 私の宗教説と他の宗教諸説
他 ┌(1)独断的─────神は存在しない。
の┌反面──無神論┼(2)批判的─────神の存在の証明が成立しない。
宗│ └(3)不可知的────神の存在は知ることができない。
教└正面──有神論┬(4)多神──────有限の神が沢山ある。
諸 └ 一神┬(5)単神───無限の神が一つある。
説 └(6)汎神───多数の有限が其のままに無限の一神である。
『骸骨』の説を簡単に見てみる。
先ず万物がある。
万物中に我が心がある。
その万物を認めるのは、我が心である。
心の中に万物が入る。
Aの心とBの心と一つである。
A即Bである。B即Aである。
という説である。
そして、なぜA即Bであるかという説明に少々骨を折ったつもりである。
他の宗教説について感想を述べる。
(1)無神論・独断的
私の説の、有限の外に単独で無限があるのではない、という部分に合致する。
(2)無神論・批判的
神が有るとも無いとも決着しない説のため、私の説に合致するところは無い。
(3)無神論・不可知的
有限が未だ開発しない段階では、無限を知ることができない、という私の説に似ていないこともない。
(2)と(3)は真の無神論ではない。よって〔考究が中途半端なので〕無視してよい。
(4)有神論・多神
私の説の無限が無数であるという部分と、ある面合致する。しかし、通常の多神論は有限の神が無数にある、という内容である。
しかし、それでは多神と言うには不十分である。真の多神は無限が無数でなければならない。
(5)有神論・一神・単神
これは無限の一方面のみを認めた説と見ることができる。
(6)有神論・一神・汎神
多神論と単神論の中間の説である。しかし、その中間ということの内容は、無数の有限と唯一の無限との一致を認めているだけで、
無数の無限ということを含んでいないように見える。そうなると、これだけでは充分とは言えない。
無数の無限まで言わなければ、開発・進化というところまで進まないからである。
〔つまり清沢の説は無神論と多神論を内包している、ということになる。そしてこれは大乗仏教経典の説相に類似する。
つまり空・真如を説く経論は無神論的であり、諸仏・菩薩を説く経論は多神論的である。〕
13 宗教と道徳
道徳は有限が有限に対する働きである。我々人類各自が既に向い合っている以上、共に有限である。
そして、この有限の間の関係が道徳である。
この有限なるものは独立自存することはできず、互いに相依り、相助けて存在せざるをえない。
(この点を深く究めれば、有限はついには無限に依らなければならない、ということになる。したがって道徳は宗教に
依らなければならない、ということになる。)
有限が相依るという関係には、次の二方面がなければならない。
(1)自己保存
(2)同類保存
この二方面の関係を全うするのが道徳である。道徳の原則はここから出る。
自己保存には、自分の欲するところがなければならない。
同類保存には、自分の欲するところを他人に施すということがなければならない。
したがって、倫理の格言には「己の欲するところを、他人に施せ。」という。これは正面からの言い方である。
これの反面からの言い方もまた格言で「己の欲せざるところは、他人に施すなかれ。」と言う。
この二つの正面・反面の原則が充分に行われれば、自然に倫理が成立し道徳が行われる。
東洋倫理、すなわち中国の道徳では、反面を教える。
西洋倫理、すなわち欧米の道徳では、正面を教える。カントの倫理やキリスト教の倫理はこれである。
この二面を併存して道徳の原則とするのが「諸悪莫作 衆善奉行(諸々の悪を作さず、衆の善を行え)」という仏教一般の教えである。
ここで注意すべきことは、この欲するところと欲せざるところを分ける基準はどこにあるか、ということである。
この基準を主観的良心の上に置こうという考えがある。この説は実践上は問題は無いだろうが、〔主観的良心への〕
誤謬の混入を防ぐことができない。
したがって我々は客観的に善悪を定める必要がある。そのためには基準がなければならない。しかし、
一般的な倫理ではこの基準を定めることが容易ではない。これに反して宗教に依るときは容易にこの基準を定めることができる。
既に善悪は宗教に無関係ではありえないことは『骸骨〔第五章〕』で述べた通りである。そうだとすると、
道徳は最終的には必ず宗教にその立場を求めなければならない。
道徳上では、上に述べた原則に基づいて、いわゆる「徳」というものを説く。
すなわち、欲するところを施す、ということは「仁」である。
欲せざるところを施すなかれ、ということは「義」である。
この仁義の二徳は東西の倫理が共に教える。その他の諸徳はすべてこの二徳に収まる。よって仁を正面徳、
義を反面徳と言うことができる。
しかし、己の欲するところ、己の欲しないところと言う時、これらの意味が、各自の思うままに任す、
ということと混同してしまう恐れがある。したがってよく考えて誤りの無いように判断しなければならない。
この判断を行うのが「智」という徳である。
〔そうして判断された〕仁・義に過失の恐れが無くなったとしても、それを実行するのは難しい。
これを敢えて実行する徳を「勇」という。勇はすなわち力である。
この勇気を養うことが大切である。それには養うべき本となるものがなければならない。「信」という徳がまさにこれである。
我が心に信ずることが深ければ、千万の難を排して作すべき事を行うことができる。信はまた、行動の中心となるべき至誠でもある。
至誠がなければ勇気はない。したがって道徳を行為から考えた場合、最も大切なものは信である。そして、この志誠である信は、
宗教に依らなければ養うことは難しい。宗教上の信仰が確立する時、志誠の心が生れる。よって道徳は宗教に至らないわけにはいかない。
以上より、仁・義・智・勇・信は先の二原則から出るものであることが分った。しかし、道徳上の徳は何個である、
と定めるような話ではない。徳の何れか一つを取れば、他の徳はこれに含まれることになる。一徳は諸徳を兼ね具え、一即一切である。
これは東西の倫理の教えるところである。ソクラテスは一徳に諸徳を具えると言い、仏教では一即一切という。
しかし、一から五くらいの数を定めて、それを根本の徳とする、という場合もある。
例えば、仁を、忠恕を、智仁勇を、仁義礼智を、仁義礼智信を根本の徳とするといった形になる。
これらの徳を実行するとき、そこに「道」が生れる。この「道」は有限と有限の関係であって、種々のものがある。大まかには、
人類としての道、国民としての道、家族としての道のように分れる。人類としての道は、朋友の道で友誼信実である。
国民としての道は、忠君愛国〔現代の我々の見方からすると、時代錯誤的で共感を喚び起さない言葉であるが、
如何なる時代でも国と個人の関係はこの言葉で表されるようなものにならざるを得ないと思う。
今村先生はいみじくも言われたことがあった。「民主主義とは期限付独裁体制を自分の判断で選択することである。」と。〕である。
家族としての道は、親子兄弟夫婦の道である。
道徳哲学では、これらの道を詳しく研究する必要がある。しかし、ここでそれを論ずる必要はない。
しかし、この道について注意すべきことがある。通常は道に関連して義務ということが出てくる。西洋倫理では義務をやかましく言う。
ここで、義務と出したからといってそこに必ず権利が伴うと考えてはならない。
道徳上の義務には権利は無い。もしそのようなものがあるとしても、それは人間には属さない権利で、人間に属する権利は無い。
普通に言う権利・義務は人間に属するものの枠内である。
さて、我々はこのような倫理としての義務、すなわち権利なき義務では満足を得ることができない。
またそのような義務は通常は実行できない。したがって、この義務を実行させる「あるもの」がなければならない。すなわち、
義務には権利がある〔通常の場合〕か、そうでなければ制裁〔「あるもの」の場合〕がなければならない。ここで、
道徳は宗教に立場を求めなければならなくなる。
宗教は道義についての権利である、制裁である。〔それらを与える〕神である。〔またそれらは〕善悪因果の制裁として現われる。
善悪因果ということは宗教でなければあり得べからざることである。このようにして我々は宗教に依らなければ道義を実行することは
困難なことを知るに至る。
また、道徳について、先に施す・施さずということを言った。具体的には何を施し、何を施さないのだろうか。
施・不施の実質は我々有限にとって必要なものでなければならない。仁を為せと教えるが、はたして何を恵めというのか。
その実質を考えると、要するに精神的・肉体的に必要なものでなければならない。
そして、精神的に必要なものの極点は何かというと、幸福──すなわち、心の平安と己が生きるということの意味を知り
それを全うすることの充実感(安心立命)である。
そうすると、施とは安心立命を施せということ、また施すなかれとは安心立命を妨げるものを施すなということになる。
すなわち、人を悟に導くことが仁で、人を迷に導かないことが義である。
この点から言っても道徳は、安心立命を教える宗教に依らなければその実質を得ることができない。このように道徳は
その枠組みについても、実質についても宗教に依らなければ完成に至ることはできない。〔宗教に依らずに〕道徳のみに依ったとしても、
幾分の道徳的行為は行うことが可能ではあろうが、宗教に依らなければその行為の完成に達することは到底できない。
したがって道徳の根底には宗教が必ずなければならない。