真宗大谷派 西照寺

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『宗教哲学骸骨講義』意訳


緒言

1 宗教哲学とは何か

 宗教哲学とは我々の理性(道理心)で諸宗教の原理を研究する学問である。この学問は最近になってようやく研究可能になってきた。 もともとこの学問は複数の宗教の内容を知らなければ、研究が難しいもので、少し前の時代では学が興ることすらなかった。 しかし、最近は諸外国との交通が自由にできるようになり、居ながらにして各種の宗教の研究が可能になり、 比較宗教学なども起ってきた。今日、宗教哲学の研究はその途を開きつつある。
 しかし、宗教とはもともと信仰に基づいているものであるから、その勢いで我田引水に陥りやすい。
〔ここで我々は、仏教徒の立場として仏教は宗教(re-ligion)ではない、あるいは仏教には「信」はあるが「信仰」はない、 などと言ってみてもはじまらない。清沢はこのような仏教の事情を承知した上で、あえて宗教や信仰というキリスト教準拠の (当時としては)新造合成語を使っている、と思うのである。いづれ「釈尊を信ずる」と言った時点で、 それは西洋式語彙では「信仰」になってしまう。清沢はそのようにしか捉え得ない考え方(西洋思想)の中にあえて仏教を放り込み、 鍛え上げようとしていたと思う。〕
 ある宗教は自分の信仰は完全で誤り無しと言い、ある信者は自分の宗教に反することは、すべて否定しようというありさまである。 したがって複数の宗教を公平無私に研究しようとすることは、少々難しい。
 また、宗教は信仰に基づくものである、とすれば、我々の不完全な理性によって諸宗教の全体を説明することが可能であるとは言い難い。 以下の本論で述べるように宗教の全体は我々の知識では到底研究し尽すことはできない。
 よって宗教哲学とは我々の知識の及ぶ範囲で理性を以て諸宗教の原理を研究し説明する学問である、ということになる。

2 他の哲学との関係

 宗教哲学と他の哲学との関係は次の図のようになっている。 画像
〔いつものことであるが、清沢の図表示の拙い面が表れている。全体を階層的な表示にしているが、 生物哲学の部分はその上位の心と物の両方に属するという表記で階層性を逸脱している。また心と物という分類はカテゴリーで、 つまりは何等かの哲学体系に依らなければならないものであるが、ここではその注意が無いまま分類されている。 解りやすくするための図表示でありながら、全体の意味としてはぼやけた印象である。おそらく当時としては、 このように図表化することそのものが新鮮な表現でそれなりの効果があったのだろう。しかし、宗教哲学が根幹であるなら、 それを根に置いた体系表示をして欲しかった。〕

この図で見れば宗教哲学は哲学の一部分として末端に位置する。しかし、宗教哲学の内容は哲学の根本を尽すといって良い 広大なものである。それはなぜかというと、宗教というものは純正哲学が歴史的事実〔原文の「実際」をこう訳した〕 となったものである。純正哲学が歴史的事実に生成(転)するための階梯となるものが宗教哲学である、と言って良い。 このとき純正哲学は宗教哲学のための道具となる。
〔この二つの文で、先の方は宗教哲学が階梯として純正哲学の道具となることを言っている。後の方は純正哲学が宗教哲学の 道具となることを言っている。おそらく互いに他のために道具になるという意味を含んでこの言い回しになったのだろう。〕
純正哲学とは存在論(実在学)、自然哲学(宇宙学)、精神哲学(神霊学)等である。
〔『純正哲学』意訳の方では、『清沢満之と哲学』の解釈に従って、純正哲学の対象範囲を存在論、自然哲学、人間学とした。 今村はここで、清沢の分類はヘーゲルのエンチクロペディーの分類と似てはいるが違うものとして扱っている。しかし、 清沢において純正哲学とヘーゲルの体系がどのような関係にあったかについては今後解明していくべき課題であると思う。 ここではとりあえずヘーゲルの体系に合わせて訳している。〕
特殊哲学の中では、理論的なものに属する論理学等は人生の幸福などには関係しないが、実践的なものに属する宗教哲学などは、 人生の安寧幸福に関係するものである。
実践的の中では、宗教・倫理は〔実践する本人の為に〕主となって、社会学等はその主となるものを助けるためのものであるため 伴〔主に従うもの〕となる。主の中で宗教は過去、未来、現在に関わる故に重である。倫理は現在のみに関わる故に軽である。

3 宗教哲学と宗教学

 宗教を研究する学問に二種類ある。宗教哲学と宗教学〔原文では「宗教理学」であり、これには比較宗教学も含まれるとあるので、 現代の宗教学を指すと取った。〕
 前者は総ての宗教に渉る原理を研究する。後者はさまざまな個別の宗教における現象を研究する。比較宗教学などは後者に属する。 スペンサーの『宗教進化論』も後者である。
 宗教哲学は個別の宗教の現象や事実を研究するのではなく、さまざまな宗教に通じる原理を追求する。

4 宗教の起原について

 宗教の起原はどこにあるのか、という疑問は宗教学と宗教哲学の双方に関わる問題である。そこで我々は本論に入るに先立って、 これまでに表明された宗教の起源に関する諸説を挙げるとともにそれらに対する私の考えも述べる。
 宗教の起源については次のように色々な説がある。

(1)宗教は神が与えたものである。

(2)宗教は我々の先祖である野蛮人の妄想から起って、それが現在まで因習として伝わったものである。

(3)宗教は僧侶〔という搾取階級〕がでっち上げた人を欺くものである。

〔この三つで通俗的な宗教の概念とその内容程度をかなり言い当てていると思う。現代においてもこれらの説で現象としての宗教は ほとんどカバーできるだろう。そしてその中で金や力が強力に回転している。〕
 宗教の起原の説としては主にこの三種であるが、その他にも色々ある。その中には「我々は宗教を起すべき性質があるから、 宗教は起る。」というものもある。ここでは、これらの説を批評するとともに、私の考えも述べる。

「(1)宗教は神が与えたものである。」の検証。
 もし宗教が神が与えたものであるならば、様々な宗教は内容においてすべて同じものであるべきである。しかし、 比較宗教学に依れば実際の宗教というものは、それが信ぜられ、行ぜられる場所や時代によって異なる。これが、 この説の信用できない第一の理由である。
 また、様々な宗教の中には、神というものを信ずるものと、信じないものがある。宗教が神から与えられたとするならば、 神を信じない宗教も神が与えたもの、ということになってしまう。これは明かな矛盾である。これがこの説を信用できない 第二の理由である。

「(2)宗教は野蛮人の妄想から起ったものである。」の検証。
 野蛮人の妄想というものは、文化が発達するにつれて消滅していくものなのに、宗教だけが残って、 更にその勢いが盛んになってきているのはどうしたわけか。これでも宗教は野蛮人の妄想から起ったと言えるのか。
 また、釈尊、キリスト、孔子など、その宗教に力のあった人々はすべて、その社会・人種の中で知的にも勝れた人々であった。 これでもなお宗教を野蛮人の妄想と言うだろうか。

「(3)宗教は僧侶がでっち上げた人を欺くものである。」の検証。
 この説を主張する人々は次のように言う。釈尊やキリストなどの達人が宗教に力を入れるのは、 彼等が本心から宗教を信じていうのではなく、一時の道具として、他の目的のための手段として人を欺いているだけてある、と。
 この考えには次のように反論できる。
 もし人を欺こうとするならば、宗教に依らなくても他の手段でも可能なはずである。それを特に宗教を選んだということは、 そこにそれなりの理由がなければならないが、この説の論者はその理由を示すことができない。
 更に、仮に人を欺くために作り出したとしよう。しかし、その欺くという行為の前に、その人の心の中には宗教の観念が 必ずなければならない。この観念が根本である。とすれば、欺く前には必ず宗教の観念があるのだから、 人を欺くために僧侶が作り出したという説は成り立たなくなる。

 以上から、宗教の起源とは我々各自の心の中の宗教的観念──すなわち宗教心に在る、と決定しなければならない。

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『宗教哲学骸骨講義』意訳

更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
緒言
1 宗教哲学とは何か
2 他の哲学との関係
3 宗教哲学と宗教学
4 宗教の起原について

本論
第一章 宗教の定義

第二章 宗教心

第三章 宗尊体論

第四章 霊魂(霊魂論)

第五章 生成(転化論)

第六章 善と悪(善悪論)

第七章 心の平安と徳の開発(安心修徳)

-----意訳終了-----

原文

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