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『宗教哲学骸骨講義』意訳
はじめに
『宗教哲学骸骨』日本語版原文をはじめて読んだのがいつ頃だったかはっきりしないが、1997年前後だったと思う。
この時の印象としては、とにかく難しく、論旨すら掴めなかった。
この時期の無限洞は、今村先生が清沢研究に集中していた時期であり、講義テキストとして『骸骨』英語版からの翻訳や、
他の清沢文献の解釈などが毎回大量に送られてきた。その今村先生の語りを通して現われてくる清沢は、
実に刺激的で魅力的なものであったが、いざ自分で清沢の原文に当ってみると、
やはり難しく今村先生の解釈のようにはとても踏み込めない。
その後、2001年に『清沢満之語録』が出版された。この中の英語版からの翻訳である『骸骨』を読んで、
はじめてその要旨を理解することができた。しかし、それでも読後感としては距離感があった。
『骸骨』の論調は堅い完璧な球体のようなイメージで、取り付く島が無いのである。
私に取っては清沢は飽くまでも「今村が語る清沢」であった。この私の捉え方は、その後先生が亡くなられるまで変わらなかった。
今村先生が親鸞研究に移られて、しばらくした頃の私信の中で「時期が来たら、
もう一度清沢研究に戻りたい」ということが書かれてあった。私はこの言葉に期待したが、その機会が訪れることは終に無かった。
今村先生が亡くなられて、はじめて私は清沢の思想に正面から取り組まなければならない、という必要性に気付かされた。
そうして開始した作業の経過が著作一覧の作成から始まって、今回の意訳に至る、この一年間の成果である。
この作業の動機の一つとなったものが「『骸骨』をきちんと理解したい」という欲求であった。
作業をしながら見えてきた方向性に従って『純正哲学』、『カント』、『ヘーゲル』の意訳を進める中で、
清沢は徐々に親近性を増してきて、その偉大さがじわじわと私の心にしみこんできた。
今回、この『骸骨講義』を意訳できる段階になんとか達したと判断し、作業を開始した。そうして、
この『講義』の教科書である『骸骨』本文との間を行き来する中で、私はようやく『骸骨』を理解するという目的を、
ほぼ達成することができた。
『骸骨』の思想には、人類を包摂する壮大なスケールと透徹した見通しがある。今村先生は清沢を読み始めて、
あっという間にこの魅力に引き込まれていったのだろう。
「前期清沢」「後期清沢」という言い方がある。今村さんはこの区別を認められなかったが、私も同感である。
「前期」に当る『骸骨』は、清沢の生涯を一貫する事実上完成された思想であったと思う。
「後期」に当る「我が信念」の中に次の記述がある。(以下、引用は今村編訳『清沢満之語録』から)
私の信念のなかには、いっさいのことについて私の自力が無効であると信じるという点がある。 自力無効を信じるためには、私の知慧や思案を可能なかぎりを尽くして、頭のあげようがないまでになることが必要である。 これははなはだ骨の折れる仕事であった。この極限に達するまえにも、しばしば、 宗教的信念とはこんなものだといった決着をつけることができたのだが、それが後から後からうち壊されてしまったことが幾度もあった。 論理や研究で宗教を建立しようとおもっている間は、この難点を免れない。何が善で何が悪なのか、何が真理で何が非真理なのか、 何が幸福で何が不幸なのか、ひとつもわかるものではない。自分には何もわからないとなったところで、いっさいのことをあげて、 ことごとくこれを如来に信じ頼ることになったのが、私の信念の大要点である。(pp.415〜416)
「前期」「後期」に分ける見解では、ここで言う「論理や研究」の中に『骸骨』を分類してしまおう、という傾向があると思う。 しかし『骸骨』では既に「論理や研究」の段階を越えたところに立場を置いている。そうでなければ「無限に到達する」 と明言することはできない。その無限に到達した立場を表わすものとして、『骸骨』の最後の文章を引いておく。
宗教の面では、有限的個人は無明のものたちのためにすべての修行を成就した他力の無限の恩恵(慈悲)にたいして永遠に歓喜し、 救済者から何も要求せず、ただ万物を包摂する他力の慈悲と知恵のしるしを得たいと思う。道徳の面では、他力門の信者たちは、 謙虚に、しかし力強く、有限者としての有限者に課せられた義務を遵守し、世界の進歩と改善のために全力を尽すのである。(pp.67)
前者は人生の辛酸(自身の不治の病(結核)、妻子との死別等)を経験した後、後者は未だそれらを経験する前、
という状況から来る文章のトーンの違いは確かにある。しかし清沢自身における有限と無限との関係は、
この二つの文章の間では全く変わっていない、と私は思う。
『骸骨講義』意訳の作業で、『骸骨』本文と『講義』との間を往ったり来たりする中で、私は以上の感想を得た。
この意訳を読まれる方は、是非『骸骨』本文を傍らに置き、往き来して頂きたい。そうして、読後、
私と同様の感想を持って頂けたとすれば喜ばしい限りである。
2010年1月8日 星 研良