真宗大谷派 西照寺

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『宗教哲学骸骨講義』意訳


第四章 霊魂(霊魂論)

1 霊魂の位置付け

 「有限」は一切万物に通じる名称であるが、我々に最も近く確実であるという理解から、霊魂を有限の代表とする。 これは前章に述べた通りである。
 デカルトは「我々の心ほど確かなものは無い」と言った。これは心を総ての有限の代表者とする、という意味である。
 「心が総ての有限の中で最も確実である」とは、一つの仮定にすぎないのだが、この仮定は認めざるをえない。 我々が「外物〔心の外の物〕」を知ることができるのは、我々の心になぞらえて知る、ということができる、 そのことだけに掛かっている。
〔例えば、私は今「万年筆」という「外物」を使って、この文章を書いているのだが、なぜ今持っている万年筆を万年筆と 知ることができるのだろうか。それは記憶による。すなわち、この万年筆は昨日使って机の上に置いた。一昨日にはインキを補充した。 インキはモンブランの青でなけばならない。この万年筆はペリカン製だがペリカンのインキとは相性が悪い。 この万年筆は十年前に通販で買った。・・・・といった記憶が、今現に有る万年筆と一致するために、私はこの「外物」 を違和感なく手に取って、書くという作業をすぐ始めることができる。記憶は心の部分である。この外物と記憶の一致が 「なぞらえる」である。〕
 形ある事物、無生物・無機物は我々の心とは異なる、という考え方もある。しかし、この考えの正誤は到底判定できない。 心と外物の区別を前提とするのが、物心の区別論である。〔言葉によって「心」と「物」を分けている以上、 我々の議論は何等かの区別論にならざるを得ない。〕
しかし、この論は研究すればするほと、錯綜して種々の説が生まれる。それらを挙げる。
(1)不可知的である。〔区別の議論はできない。〕
(2)物と心は同一である。
(3)非物・非心のものの一面が物、もう一面が心である。
 (1)は学問的には用は無い。ここでは(3)説を取る。〔なぜなら(2)を取れば、物がある、心がある、 という事実と明らかに矛盾するからである。したがって消去法で(3)を取らざるをえない。〕
そして、(3)を取った以上、有機物・無機物、有生物・無生物ともに同一種と見なさなければならない。
〔「物」は無機・無生物の面、「心」は有機・有生物の面を表すから、当然、非物・非心のものとは、無機・無生物、有機・有生物を 含むことになる。そして、こうなると、非物・非心のものとは、宇宙万物を含む、あるいは表すものとなる。〕
 そして〔非物・非心の〕宇宙万物が一原体から出来ているとすれば、一元論となる。無数のものから出来ているとすれば、 多元論となる。
 一元論は、スピノザ、ブルーノの説のような汎神論的なものになる。
 多元論は、ライプニッツの単子論のようなものになる。
 我々は有限の方から論じようとしているので、無数のものから出来ているという考えを取って、ライプニッツ的に考えようと思う。
 こうして、万物が悉く同類の原体から成り、その原体は幾分の相違があるかもしれないが、各々の本性は同一である、 という前提ができた。そうすると、我々の心、すなわち霊魂について研究する成果は、一切の万物に適用可能となる。よって、 我々の霊魂が有限から無限に到達することを得れば、他のものもまた有限から無限に到達することが可能である、と言うことができる。
 そして、これからまさに研究する要点は、この霊魂とは
(1)どのようなものか
(2)どのような作用をするのか
(3)その作用に有限が無限に発展する能力があるのか
ということである。
(『骸骨』参照〔第三章 霊魂論、第四章「霊魂開発(霊魂の発展)」〕)

2 霊魂は滅するか不滅か

 霊魂不滅の議論は、たいてい生死の問題の研究から起ってくる。よく考えると、死と生は不明なことなのである。
 死は経験することのできない事故であるため、明らかでない。
 生は実地に経験しつつある事だから、明らかであると言いたいところだが、その実そうではない。しかし、近来の経験説 〔経験主義哲学か〕では、生存については
(1)親子の相続
(2)栄養と消耗の調節
(3)独立・自由
の三条件を具えなければならない、とした。
 しかし、これで生存活動(生活)の意義を明らかにしたとは言い難い。なぜなら、この三条件が常に揃うとは言えないからである。 またこの三条件に限るとも言えないからである。
 生理学者は死を二種に区別する。
(1)全体の死
(2)部分の死
である。
 全体の死とは、普通の意味での死で、部分の死とは一部の活動が無くなることを言う。
 例えば、魚が頭を切り離された後、心臓がしばらく動く場合のように全体が死んでも、部分の心臓が生存する場合などがある。 〔つまり全体の死と部分の死は同時とは限らない。〕
 さらに詳しく言えば、筋肉の繊維にも生死があり、血球の一々にも生死があり、細胞の一々にも生死がある。 〔つまり全体の生の中に不断の部分の死が混在している。〕
このように考えてくると、上の三条件のみで生存の意義を説明しようとするのは、正しくないと言うべきである。 生死とは一個体(人間一個だったり心臓一個だったり〔と拡大解釈する〕)について言うことであるが、 その一個体の意義を知らなければならない。
 通常は一個体とは、空間的に明瞭に区別されるものを言う。しかし、動物の中には一個体というものが沢山あって、 それらの間に境界の無いものがある。〔サンゴなどの群体を指しているか。また下の記述を念頭に入れているだろうから、 人間そのものが一個体の集合体であり、個体間の境界が不明瞭である、ということまで含んでいるように見られる。〕
よって一個体というものがそもそも明瞭でない。空間的に境界がはっきりしなくても、官能〔器官の受動能力〕の独立なるものを、 個体と考えることもできるが、そうすると、植物の枝・葉・根・幹の各々は独立の官能〔光、水分、 物理的刺激等に対して各々が別々に反応する〕を示すから、枝・葉・根・幹等は別々の個体であると言わなければならなくなってしまう。 これは動物の内臓等の器官も同様である。
 さらにこの考え方を進めていくと、一細胞は独立の官能を有するから一個体である、と言わなければならなくなる。
 このように考えてくると、経験主義者の言う三条件〔原文は「生理学者の云ふ三条件」だがこれは筆録誤りだろう。〕 の生活の定義は正しいとは言えない。
 また温度〔体温か〕によって、生死の区別をしようという説もあるが、これも無理がある。
 したがって、生死とは明瞭に定める事が困難なものである、と言える。そうすると、生死の区別は我々の思想によって 決定せざるをえない。次の通りである。
 物が生存するということは、或る物が有る間について言うことで、或る物が無くなれば、死んだと考える。 その或る物を霊魂と名付ける。
 霊魂が有る時は物は生存し、霊魂が無くなれば死んだと言う。
 通常の考え方では、物質は滅せず、と言う。この様に言う以上、〔物質から成る〕物体もまた滅しない。 〔滅したと見えるのは形状が変化しただけである。〕物体が滅しないとすれば、霊魂もまた不滅ならざるをえない。 〔この根拠は前節の非物非心の一面が物、もう一面が心という前提による。一面である物が滅しない以上、 もう一面の心(霊魂)も滅しない。〕
 人の身体は種々の部分から成り立っているとすれば、それらの部分が離散すれば、霊魂としての存在を失うということが ありうるかもしれない。
 そうすると、霊魂は種々の部分から成り立つか、そうでないかが問題となる。しかし、部分から成り立つか否か、 という問いは形を持つものについて言いうることで、形を持たないものについては、意味を成さない。
 もし、形を持たないものについても形を持つものと同様に考えたいというのなら、〔部分から成り立つかという言い方ではなく〕 一か多か、という風に問いを変えざるをえない。〔多である、すなわち霊魂は複数の集合体であるとすれば、 それらが分離することで死というものがありうることになる。〕
霊魂は一か多か? 今日までの霊魂説に霊魂は一である。従って〔多ではないから、分離は起こり得ないから〕 その組織が解散して滅亡するということは起こり得ない。
 この一つのものが時を経る際に、一という性質を失うのならばともかく、どこまでも一という性質が滅亡しない以上は、 霊魂は滅するということが決して無いはずである。よって霊魂は不滅である。
(この説はカントに依る。)
〔したがって、普通に言う死んだ状態──物としての器官の動作がすべて停止し、意識と感情が無くなった状態は、 霊魂の死ではないことになる。我々は日常的な捉え方は、意識と感情がある状態と霊魂とをごちゃ混ぜにしてしまっているが、 ここでは峻別しているし、日常感覚のレベルとは次元が違う。〕

3 ソクラテスの霊魂不滅説

 古代、ソクラテスはこの霊魂不滅の説を盛んに唱えた。参考のためにそれを紹介する。 これはプラトンの問答篇『パイドン』に出ている。
〔以下原文のままでは意味が取れないところが多々あるため、岩波文庫『パイドン』で文意をチェックし、 それに沿うように手を加えている。〕

 ソクラテスの死刑の前日、弟子が死後の事を聞こうとしたとき、それに関して壮快な話が出た、ということで徐々に本論に入る。
 ソクラテスが弟子の一人に向って「そこに居る弟子に、私の後を追うようにと伝えてくれ。」と言う。
弟子曰く「あなたは、もうすぐ死を迎えるというのに、その後を追うように、とはなんということですか」
ソクラテス「哲学を研究する者は、私の後を追う事を好むはずだ。しかし自殺することは良くない。だから自殺しろと 言っているのではない。無論彼等は自殺はしないだろう。自殺は法律に背くことだから」と言い、 「では、自分の後を追うようにとは、どういうことですか」というところから問答が始まる。
先ず「自殺が法律に背くとはどういうことですか。」
ソクラテス「神は我々を生活するためにこの世に生まれさせたのだから、自殺してはならない。例えば、 奴隷が主人の命令に従わないで自殺することが良くないように、神の命令に背いて自殺してはならない。」
弟子「それでは、あなたの後を追って死ね、とはどういうことですか。」
ソクラテス「哲学は死を研究する学問である。哲学者は毎日死ぬ用意をなしつつある。すなわち、哲学を研究する者は 非常な勇気を出して、死の用意をなしつつある。
哲学者が死ぬということは、徒らに死ぬのではない。この世界にも、もともと神の支配はあるが、この世界の外にさらに勝れた世界、 すなわち善人だけが住する世界がある。哲学者はこの勝れた世界に往こうと思って死すべきである。
哲学者は何を求めつつあるのか。一般人のように衣食住装飾を求めるのか。そうではない。哲学者はそのような事は求めず、 この身を離れて自由の生活をすることを求めつつあるのだ。その求めるについて、眼に見、耳に聞くことはすべて確実ではない。 とすれば、何によって求めるか。常に理性(道理)によって真理を求めつつあるのだ。」
 その、理性で真理を求めるということについて、正義の勇気はどのようにして求めるべきかを説いた。 このような種々の説明を行った後
「哲学者は、将来、この身体の束縛から離れて、高等の世界に行く者である。」と断言した。
このとき弟子の一人が言った。
「死んで魂(精神)が身体から分離されれば、精神は消滅するのではないか。それなのに死後、勝れた世界に趣くと言われる、 これはどういうことですか。」と。
 ここからまさしく霊魂不滅の論は起った。
ソクラテス「昔から、人は死ぬと地獄に行くと言い、幽霊界に行くと言い、また別に還り来るという。この考えからすると、 生存する者は死者から生まれた、ということになる。そうではないか。
さらに、これを確かめようとすれば、あらゆるものの『生ずる』ということの意味を考えなければならない。そうすると、 あるものはその反対のものから生ずるということを、認めなければならなくなる。
 小は大より、生は死より、清は濁より生ずる、というように論じられる。そして、今、生はその反対の死から生じた、と言う。 これを確認するために色々と比較してみよう。
 正は不正より、清は濁より起る。このように、あるものは必ず反対のものを生じるが、 それが必然の関係であるかどうかを考えて見よ。
 ある物が大きくなったということは、その前は小さかったことは必然である。
 強いということは弱いということから起るのも必然である。
 正しくなったと言えば、そのものは、以前は不正であったのである。
 したがって、あるものは反対のものから生じるということは明白である。しかし、あるものとその反対のものとの間に 中間となるべきものはないのか。
 例えば、大と小という両端の間には〔小から大への〕増、〔大から小への〕減なるものがある。これと同じく熱する、 冷めるなども同様である。つまり、物の変化というものが多くある。こうして経験から判断すると、 物とは一方から反対の他方に変化してくる、と言えるが、そう思うか。」
弟子「疑いありません。」
ソクラテス「生活にも反対の組がある。眠りと目覚めのように、生の反対は死である。その間に一方より他方への変化があるか。」
弟子「あります。」
ソクラテス「さて、今言った〔眠りと目覚め、生と死の〕二組の物事の進行を考える。先ず、眠りと目覚めについて考えよう。 眠りが目覚めを生じ、目覚めが眠りを生じて、相互に生じ合う、これでよいか。」
弟子「そうです。」
ソクラテス「同じように、生と死は相互に生じ合う。生から生ずるのは死である。死から生ずるのは生であるとすれば、 総ての生活は死から来たる。これでよいか。」
弟子「その通りです。」
ソクラテス「では、死から生を生ずることは明らかになった。そうでないとしたら、自然に理法が無いことになる。」
弟子「死がその反対の生を生ずるのは絶対の必然です。」
ソクラテス「死の反対は、生活に戻ることである。それは死んだ者が生き返ることである。これまでの議論で、生は死より、 死は生より来るということが確実となった。また幽冥界から帰り来ることも確実になった。もし、 このように〔生と死の〕反対が相互に生ぜず、循環することなく、生は生のみで死が無く、 一方より反対を生じて再びもとに帰ることが無いとしたら、総ての生物は何物をも生じなくなるだろう。もし、 眠りがあって目覚めを生じなければ、生物は総て滅することになり、合あって離がなければ、一切は固まってしまうだろう。 生者が死んで生き返ることがなければ、人が生ずるということも無くなってしまうだろう。」
弟子達は皆、この説を納得した。
ソクラテス「私は再生なるものがあって、生は死より生じ、死者の霊魂はすべて存在し、その中の善い霊魂は悪しき霊魂よりも、 善い報酬を得ることを確信している。」
弟子ケベス「以前から仰っている『知識は回想である』という説が真実なら、我々が現在想起することは、 前にどこかで学んだためです。これは霊魂が前の生にあったればこそ、今の生で我々に知識がある、ということになる。 これはまた霊魂不滅の説の証明となるでしょう。」
弟子シミアス「その説をもう一度聞かせて欲しい。」
ケベス「質問するとは、その知らざることを求めるのに、自分の中にある知識を明らかにしていくということだ。 これが最良のことである。」
ソクラテス「シミアスよ、君は知識が回想である、ということを信ずることができないようだが。」
シミアス「そういうわけではありませんが、もう一度聞かせて頂きたい。」
ソクラテス「人間が回想するという時は、以前に知ったということが必ずなければならない。そして、知識というものには、 回想するということがなければならない。種々のものを見聞するとき、違うものを回想することがある。
例えば、人を知るということと、琴を知るということは、同じでは無い。しかし、琴を見てそれを使用した人を思い出すことがある。 これが回想だ。一人の友を見て他の友を思い出すことがある。このような例は少なくないだろう。」
シミアス「その通りです。」
ソクラテス「馬や琴を見て人を思い出し、絵を見てそこに描かれた本人を思い出すことがある。したがって回想は、 それに似たものから生じることがある。また、似ていないものから生じることもある。
ここから考えていくと、〔比較する物の〕形が似ているから木や石などが相等しいということではなくて、 『等しさそのもの』ということがなければならない。我々はそのように言いうるだろうか。」
シミアス「そう言っていいと思います。」
ソクラテス「既に『等しいということ』を知った。ではどこからその知識を得たのだろうか。石や木などが互いに等しいことを知って 『等しさそのもの』を認めたのではないか。
 しかし、これらの物がいつも等しいというわけではない。また、違う見方をすると、等しくないこともある。 これは等しいものが等しくないと見える場合だ。つまり『等しいということ』と『等しさそのもの』とは別のものだ。 そうして、等しい事物から等しさそのものの知識を生ずるのだ。」
シミアス「その通りです。」
ソクラテス「そうすると、その考えを生じたものに、似ているか似ていないかは問題でない、ということだ。つまり、 ある物〔具体的な事物の一組〕を見た時に、あること〔『等しさそのもの』を認めるということ〕が、思い出されたのだ。
シミアス「疑いありません。」
ソクラテス「さて、等しいという一組の木を見るとき、それらは心に思う『等しさそのもの』と一致するか。」
シミアス「一致しません。」
ソクラテス「そうすると、等しいということを考え出させたものと『等しさそのもの』とは一致しない。したがって 『等しさそのもの』については、それを思い出すきっかけとなった物を見る以前に、学んだということがなければならない。 そうして、それが一組の木により、不完全ながらも想起されたのだ。」
シミアス「全くその通りです。」
ソクラテス「したがって、等しい物を見る前に『等しさそのもの』の考えがなければならない。それが等しいものを見て 思い出されるのである。したがって『等しさそのもの』の考えは我々の五官の作用に依った〔経験的な〕知識ではない。」
シミアス「その通りです。」
ソクラテス「そうすると『等しさそのもの』という知識は、五官で感じるより以前に有ったものと言わなければならない。 したがって我々が生まれてから見聞するという経験をする前から『等しさそのもの』という知識を持っていた、ということになる。
等しいということについて、このように論じたことは、善や正義などについても言える。これらの知識はすべて、 我々がこの世に生れる前から持っていたことになる。
そして、このような知識を持ちながら、忘れてしまっていることがある。また、それを思い出すことがある。 したがって我々が何事かを知る、ということは、初めて知るのではなくて、思い出すことではないのか。」
シミアス「その通りです。」
ソクラテス「これまで議論してきたことを、総ての人々が道理と考えるかどうかは、今判断はできないが、 皆このことを知っているとは言えない。しかし、誰でも自分の知るところ〔等しさや善や正義〕を思い浮かべられるだろうか。」
シミアス「できます。」
ソクラテス「それは何時学んだのだろうか。人と生まれた後に学んだのではないのだから、生まれる前としなければならない。 したがって、霊魂は人の形を得る前にそれらの知識を得ていたということになる。」

この論を確認すれば、霊魂は生まれる前からある、という主張が成立する。これはプラトンのイデア(理想)論から起っている。 この説によれば、我々はかつて理想界にあったものである。そして今は堕落してこの世界にあるが、 理想界を回想する形でイデアを有している、となる。

シミアスとケベスは問う。「霊魂が生前にあったどうことは納得しました。しかし死後にもあるということは未だ納得できません。 その説明をしてください。」
ソクラテス「ものには、散り散りに分解するものとそうならないものがある。合成的なものは分解するもの、 合成されないものは分解しないものである。合成的・組織的なものは変化しないわけにはいかない。」
ケベス「その通りです。」
ソクラテス「前に言った、善、正義などは変化するか。」
ケベス「変化しません。」
ソクラテス「人や馬などはどうだろうか。」
ケベス「変化します。」
ソクラテス「それらの変化するものとは、手に触れることができ、感覚を通して感じられるものである。 善や正義などは思想でのみ扱えるもので、形なく見えないものである。」
ケベス「ご尤もです。」
ソクラテス「見えるものと見えないものがある。見えるものは変わるもの、見えないものは変わらないものである。我々には、 身体と霊魂とがある。身体は形が有り見えるもの、霊魂は形が無く見えないものである。
その霊魂は種々のことを考える。見たり聞いたりして考えるときは、身体が霊魂を変化して一時も同じあり方を保たないものの方へと 引きずり込む。そして霊魂はそのことにより惑乱されることがある。しかし、もし霊魂が身体に関わらないときは純粋、不変、 不動のものとなり誤ることがない。この状態が智慧と言われるものである。」
ケベス「そうです。」
ソクラテス「霊魂は何に似ているか。」
ケベス「不変に似ています。」
ソクラテス「そうすると霊魂は真の不変、単一、分解されないものである。身体はこの反対で穢れた合成されたものである。 したがって身体は分解するが霊魂は分解しない。身体は死後朽ち終るようになるが、霊魂は純粋不可見の幽冥界に入り、 進んで神の許に至る。霊魂は〔単一であるから〕死後、分解して四散するものではない。それが分解すると思うのは不合理である。
人は哲学を学んで幽冥界の善所に行かなければならない。そうせずに身体に執着し〔その欲に囚われ〕不正を行い、 乱暴を行った者の霊魂は、死後善所に生れることはできず、狼や鷹などの動物となる。少しましな者は蜂、蟻、人間などになる。 そこから進めば智者となる。だから君達は哲学を研究して〔神々の許である〕善所に行くようにせよ。」
(以上は霊魂輪廻説にも通じる。この説は理屈なしの感情的なものである。)
 この後、シミアスとケベスが囁きあったので、君達は私の証明に不満があるのか、とソクラテスは聞いた。 これに二人は「その通り」と答えた。
シミアス「霊魂の不滅を信じられません。身体は琴のようなもので、霊魂はその琴に奏でられる調べ(整調)のようなものです。 すると琴が滅びれば調べも無くなるように、身体が滅して後の霊魂はありえないでしょう。」
(この反論は今日の唯物論者の言い回しと同じである。)
ソクラテス「その他に反論はないか。」
ケベス「例えば裁縫師があって、自分の衣服を作って着ては損耗し、また作っては着る。そうして一生を過します。 そして彼が死んだ時には最後の衣服がまだ残っている。このように霊魂〔裁縫師〕も種々の身体〔衣服〕に転生するが、 ついには最後の身体〔衣服〕を残して滅んでしまうのではないでしょうか。」
ソクラテス「君達は、私が先に知識は回想である、と論じたことを認めるか。」
二人「それは認めます。」
ソクラテス「そうすると、シミアスの琴の喩えはこれに一致しない。琴があって調べがある、というのであれば、 琴の無いときには調べはない。したがって身体の無いときは霊魂は無いと言わざるを得ない。しかし、知識が回想であるとすれば、 身体の無いときに霊魂があることを認めないわけにはいかない。したがって、知識は回想であるということを認めつつ、 身体を得る前〔=身体が死んだ後の(『パイドン』原文では文脈が別の展開であるが、ここではこのように少々強引につなげる。)〕 の霊魂の存在を認めないのは自家撞着である。
 更にこのような喩えを使った話の運びには問題がある。ものごとの解らないところを明らかにしようとするとき、 段々と外の事に原因を求めて説明する方法であるが、それは本当の説明とはならない。
 例えば、あるものが美しいとき、それは何故美しいかを説明するのに、それはこれこれの性質があり、それを感ずるからだと言う。 このように外の方に話を持って行っては説明とはならない。
 何故美しいかといえば、『美しさそのもの』という本体がそこにあるために美しいのである。醜いという場合も同様である。 (これはプラトンのイデアである。)
 四角とは何かという説明で辺が四つあるものといったことでは説明にならない。四角のイデアがあると言わなければならない。 あるもののイデアはその反対のものを容認しない。奇数というイデアは偶数というイデアを容認しない。また、 反対のイデアに属するものも容認しない。偶数のイデアには2、4、6・・・が属するが、ここには奇数を容認しない。
 さて、身体は何によって生きたものとなるかというと、霊魂によってである。それは生をもたらすものである。そして、 生の反対は死である。とすれば、霊魂は死という性質を容認しない〔=不死となる〕ものである。こうして、霊魂不滅が成り立つ。 したがって裁縫人の喩えは根拠が無いことが明かになった。」
 ソクラテスはその後も、種々の話をした。悪を為せば悪道に赴き、善を為せば善所に赴くということ、安穏に死すことなどを語った。 クリトンがソクラテスの妻子に何かして欲しいことは、と尋ねたのに対し「君達自身の事を配慮してくれれば良いのだ。」と答えた。 また「どんな風に君を埋葬したら良いのか」との問いに「先刻から、霊魂不滅の話をしていたのに、君にはまだ明らかでないのか。 身と心は別である。死後、霊魂が身体を離れて他所に行くのに、それが死んだ肉体など気にするだろうか」と語り、 そうして毒を仰ぎ自若として息絶えた。

 以上が『パイドン』に記された霊魂不滅に関するソクラテスの対話の要点である。

4 中世から近代に至る霊魂観

 中世は霊魂不滅を信ずるだけで、特別な議論も無かった。近世に至ると宗教者では特に論ずる者はいなかったが、哲学者は色々論じた。
 デカルト、スペンサー、カント、ヒューム、スピノザ等はその中の主な人々で、カントの霊魂論は特に有名である。 カントは、霊魂は理論上では不明だが実際上は不滅と思われると結論した。
 ヘーゲルは高大な霊魂不滅論を立てた。ヘーゲルの説は万物・全存在を包摂する唯心論で、霊魂の他に何一つ無いという立場である。 霊魂から万物が展開し、万物は霊魂の表現である。従って霊魂を相対のものとせず、絶対の、神とも等しいものとした。

5 私の霊魂論

 私の霊魂論を説明しなければならない段階にきた。『骸骨』に論じたように、霊魂が統覚する実体(apperceiving substance) (自覚の一体)であることを認めるならば、不滅と言わざるをえない。
 〔このように〕理論上、有ると確定しえたものが、無くなるということは考えられない。合成的なものは分解するが、 合成されないもの〔原文の「単純なるもの」をこう解釈する。〕は変化することはない。そうすると、この実体は虚無ではない。 〔原文「有は無にあらず」をこう解釈した。これを字面上似ているので、仏教の「有無の見」と同義と解釈してしまうと、文脈を誤る。〕
 唯一のものは変化しない〔原文は「単一のものは変化せず」で、これも言葉だけを取ると前章6の唯一と単一(単位)の 単一になってしまう。そして単一は変化するものである。しかし、ここでは変化しない「単一」を言っているので、 それは唯一を指していると考えられる。また、そう解釈しないとつじつまが合わない。〕と考えるとき、霊魂は不滅である。
 カントは先天的・後天的、可知的・不可知的の区別を立てた。そして、霊魂は不可知的としたために〔カントの〕理論では 霊魂の不滅を立てることができなかった。
 しかし今、霊魂を統覚する実体と結論した上は、不滅と考えざるをえない。さらにまた、霊魂の働きを検討して、無限に到達する、 と認める上は〔霊魂が無限に到達する説明は『骸骨』第四章、また前章7で述べられている。〕霊魂は無限の生活を営まざるをえない。 そして、この無限の生活とは、すなわち、不死不滅である。これは『骸骨』第四章「生成(転化論)」を確認すると、 一層明かとなるであろう。

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『宗教哲学骸骨講義』意訳

更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----

緒言
本論
第一章 宗教の定義

第二章 宗教心

第三章 宗尊体論

第四章 霊魂(霊魂論)
1 霊魂の位置付け
2 霊魂は滅するか不滅か
3 ソクラテスの霊魂不滅説
4 中世から近代に至る霊魂観
5 私の霊魂論

第五章 生成(転化論)

第六章 善と悪(善悪論)

第七章 心の平安と徳の開発(安心修徳)

-----意訳終了-----

原文

pdf版(印刷用)

 (C)西照寺 2007年来