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『道徳教育について』意訳
明治33年(1900年)愛知教育会総集会での講演
1 自己紹介・導入
今日は当県の教育会の大会を開かれるということで、そこで講演をして欲しいという要請を私の宗派の本山を通して
頂きました。本山からは都合を付けてこの要請を受けるようにと言ってきましたので、こうして出かけて参った次第です。
しかし、このような場に私のような者が出てくるのは、ずいぶん失礼になるのではと思っています。
私は皆様の前で喋ることができるようなしっかりした思想もありません。そういう者が喋るということはおこがましい
ことです。しかしこのような私をお呼び頂いたことには感謝致しますとともに、本山の命令は果たさなければなりませ
んので、こうして出てきた次第です。
ところが私は病人です。思想を組み立てる力ももうありません。これから申し上げることも支離滅裂でまとまった話
にはならないと思います。私ひとりが信じていることについて話すことしかできません。
しかしまた、この場に出させて頂いたことは私にとって大変嬉しいことでもあります。その理由は、先ず自分は名古屋の
生まれです。その自分を県下の教育大会にお呼び頂いたことは大変な喜びです。また、この第一中学は、その初め──未だ
尋常中学として生まれる前、さらに県立学校として生まれる前──は、官立学校でした。外国語学校と称していた時でした
が、私は創立の初めに入学してお世話になりました。その講堂で図らずもこうして皆様の前に居るということは、当時を
思い出し、今昔の感を覚えて喜んでいるところです。この喜びに応ずるようなことを、何か申し上げたいと思いますがなか
なか難しいことです。なぜかというと、第一に自分の知識が足りません。次に自分の行いもはなはだ拙いものです。
このような私に本日は道徳教育について話すようにというご依頼でしたが、はたして有益なことが話せるかどうかわかり
ません。また、これからお話することが道徳教育の内容になるのかどうか、自分でも判断できないところがあります。
私はご覧の通りの姿〔僧形で演壇に立ったと思われる〕ですが、十六歳で坊主になるまでは名古屋におりました。坊主に
なってからは専らその方面の教育を受けて現在に至っております。したがってお話する内容も坊主の専門の考え方のほかは
ないのです。
今日では坊主が業としているところの仏教というものは道徳教育に深い関係がある、道徳教育の基礎になりうるという
見方も世の中にはあります。そういう見方からすれば、仏教の話を申し上げるのは道徳教育の講演になるだろうと思います。
しかしまた、坊主の本分から言えば、道徳教育になるか否かにかかわらず、仏教というものは人間として信じなければ
ならないものである、という決着になりますのでその立場から話をしていくとお聴きの皆さんは、ずいぶん大袈裟なことを
言う、思いのほかのことを言う、という感想を懐かれるかもしれません。道徳教育に限った場合はそこまで踏み込む必要性は
無いのかもしれませんが、しかし、関係してしまうことはやむを得ないことです。この点を予めお断りしておきます。