ホーム > 雑文・文献・資料 > 清沢満之 > 『道徳教育について』意訳
『道徳教育について』意訳
10 物の値打ち
一つの色、一つの花の香りが無上の性質を備えているといったならば、それは無上の値打ちを持つものであると言わな
ければなりません。こんなふうに言うと途方もないように聞こえます。しかし我々が実際に感ずるところはどういうもの
でしょうか。最近、東京にいる友人から聞いた話をします。
ある人が友人が訪ねてきたので菓子を出した。その友人は日頃、菓子の好きな人であった。その人が四,五年ぶりに来たの
で菓子を出したのだが一向に食わない。「君、菓子を食い給え」と言っても「はい」と答えるばかりで食わない。何故食
わないのかと聞くと、もったいないと言う。以前であれば菓子と見ると我先に食った人がもったいないと言って手を
出さない。その友人がこんな話をした。
最近、自分は非常に困窮していたときがあった。旅行をしていて夜になり泊まるところを見つけなければならなくなった。
ところが宿屋は高くて泊まれない。たった五厘でもあれば木賃宿に泊まることができるがその五厘も無かったので、野宿を
して蚊に食われて苦しんだ。そのとき五厘あればその苦しみを免れたのである。ところでこの菓子は一個一銭以上する
菓子だろう。あのときの困難を思いやると、そのような菓子は食えない。
と言ったということです。こういうところが我々の精神の心機一転というところです。菓子にどれだけの価値があるか
といえば、経済学的に需要と供給とから難しく論じてみれば、貨幣価値は出てくるでしょう。しかし、もう一つ精神上の
値打ちがあると思う。精神上からは一銭の菓子も大変な値打ちになる。天地万物のすべてがその通りです。
たとえば子供でも、この子供がどれだけの値打ちがあるかということは決まっていない。こちらから見て値打ちをつける
ことはできない。この子は他日大変立派な人物になるに違いないと思えば、その子が何となく貴重に見える。はたして
英雄豪傑大人君子になる種があるかといえば「王侯将相寧んぞ種あらんや〔十八史略〕」で、種は決して無い。どんな子
でも他日大人物になるかもしれない。そうとらえると人物をいい加減に評価すべきではない。
それと同じように我々は自分自身をみだりに評価すべきではない。いちばんはじめに申しましたように、たいていの人は
自分自身の評価を間違う。その間違いを起こさないように、そこに「我々は貴重なる値打ちを備えたものである。千古、
万古から開発し続けてきて今の自分に至り、さらにこれから先も滅しない性能を備えたものである。」という精神を持って
くれば、自分自身の値打ちは全く違ってくるだろう。その違ってくる精神によって、我々が毎日を生活するようになれば、
はじめて、本日問題にしているところの道徳教育とか宗教教育とか精神教育というものの目的を達し得ると思う。
以上まとめますと、
〔我々自身において〕因縁果の道理の確かなことが知られれば、我々は大変な値打ちを持ったものである、完全無限に
発達するべきものである、という心境が必ず起こってくる。
その完全無限に達し得べきであるということが真に信じられて、その立場にて自分が行動していく。
これが今日の我々の信仰上から言った道徳教育を成り立たせる根本である。この立場を本当に信ずるか信じないかで働きが
違ってきます。この点については言葉でいくら言っても表せるものではない。
もし私の話が少しでもご参考となるようであれば、望外の喜びです。まことにつまらない下手の長談義を致しました。