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『道徳教育について』意訳
7 因縁から見た道徳
さて、もとに戻って因縁について申しますと、因と縁というものの働きは、こちらとあちらに同じものがある。
それが互いに感じ合って働くという事でなければ説明ができない。そうしますと、先ず二つのものが働く、その働くと
いうところには、一つのものという根本があるということになります。そうして、あるものから別のものという風に順に
関係を付けていくと、総てのものは互いに働いて感じ合っている。それらのものの根底が一つでなければならないという
ところに落ち着く。つまり、天地万物が色々離れているが、それが実は一つであるということです。これは因縁の理法上
どうしてもそうなる。そこを指して仏教では差別即平等と言う。差別は色々と立てられているが、そのまま平等一体の
ものである。
この立場から見ると我々の弊害はどこにあるのか。それはお互いが別々のもので人それぞれ違うと思うところが弊害です。
〔その人それぞれ違うというところで〕先ず、我と言うものと彼と言うものを立てる。我の権利、彼の権利というものを
立てる。権利を違いに立てるはよいが、一方が他方の権利を侵すとメチャメチャになる。財産も人の財産、我の財産と
別々にしているうちはよいが、他人のものを取ろうということになると大変なことになる。
社会上の罪悪、道徳上の罪悪ということは、この我と彼との境界がありながらぞの実は一つのものであるということを
忘れて、境界があるということだけにこだわって、その境界を拡めようとするから、争いが起きてくる。このほかに罪悪の
根本の説明の仕方は無い。
したがって仏教者はこれについてどのような言い方をするかというと、先ず我というもの無くさなければならない。
我と人との間に非常な軋轢を生じ、我と人との張り合いから総ての罪悪を生ずるのだから、この根本を退治してしまわ
なければならないという。
そこで今日、我々が道徳を話題にするとき、四海兄弟とか万民同胞とか仁義礼智とか言わなければならない。道徳におい
ては彼の苦楽は我の苦楽、我の利害は彼の利害、天地の間の利害苦楽も皆、我が利害苦楽であるとなったところで、
はじめて真正の精神教育の根本が成り立つと思う。しかし、この立場をないがしろにして、これは人の事である、
これは彼のことであると言ってしまっては、この根本が成り立たない。
したがって、根本とは我と人とは別であるが互いに一つのものであるということの決着が確定していることである。
それを信じて掛からなければ真正の精神上の根本が立たない。