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『道徳教育について』意訳
4 実地との相応
〔普通に〕「法則」と言われる程度の扱いで〔道徳を〕やかましく教育しようとしていては、全く不十分である。そんな
法則ではない実地が大切である。
その実地とは、因縁果の理法から言えば、我々人間というものは非常な性能を備えているものである。そして人間は無限に
開発し得べきものである。この一事を自分自身において信ずるということが可能でなければならない。いわゆる自暴自棄は
あくまで排斥しなければならない。
また、たいていの人は自分の能力の可能性を自ら限ってしまうが、これが無限に発達していく上で弊害となる。自ら限る
とはどういうことかというと「自分はこんなものであるから、もうここから上に進むことはできない」といって自暴自棄
になることです。そのとき人間の発達が止まる。止まるとその人の品性が下がってしまう。
これに対して「自分は非常な性能を備えたものである、どこまでも発達するものである」というところに立つことがで
きて、その立場で精神気力を養う。そこにおいて本人の品性が高まるようになってくる。これがすなわち道徳教育上の基礎
であると思う。
この立場はわけもなく得られると思われるかもしれません。しかし、実際はこの立場が顧みられることが無いために、
社会は様々な問題を抱えている。
今日、たいていの人の考え方はどういうものかというと、食うに困る、寒いと凍えるというような事を重大と思っている。
また自分の命が無くなるということを人間としての最大事としている。そして、これらの事が起こってくると動転狂乱する。
これはすなわち品性の堕落である。その本人が自分自身を忘れたのである。こんな立場においては〔道徳の〕本当の基礎の
開発はできない。この一点に先ず腹が据わらなければならない。
あまり順序立てて話してはおりませんので〔坊主の〕我田引水のようですが、人間というものは死生を超脱するということ
ができないかぎり、価値は無いと私は思う。死する、生きる、ということは天地の法則で決して免れることはできない。
因縁果の理法によれば、その因縁が合って時節が至ったときには、生まれるものは生まれ、死ぬものは死ななければなら
ない。そんな事に驚くべきではない。
死ぬ、生まれるということに驚き恐れることがなければ、食うとか着るとかいうことは、そもそも取るに足りないことで
ある。食うとか着るとかいうことが、取るに足りないこととすれば、我々が平生日夜にすることは何かというと、実に
つまらないことにあくせくしているということになる。その中でいらない立腹をしたり、いらない争いを起こして貴重な
身体と心を消費しつつある。実にこれが道徳教育の基礎が立たない理由であると思う。
そこで、食うとか着るとか、もうひとつ、生まれるとか死ぬとかいうことに、驚かず恐れずという立場にどうしてなるか
というと、難しいことではない。自分自身で因縁果の理法について、その働きの及ぶところを十分に考える。そうして考え
得たところを実際に行えばその立場が得られるのである。この立場─因縁果を知るということが人間として無限発達の基礎
を得ることになる─について説明しなければなりません。