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『道徳教育について』意訳


8 道徳の実践面
 しかしながら、これは口に言いやすくして甚だ行い難いことである。すでに私がこう言っている言葉の内で、私とあなた 方との区別を見て、そこから色々な間違いを起こしつつある。もし私が一人だけで自分の部屋に居たならば、くたびれたと ごろりと横になってしまうだろう。しかし、あなた方の前であるから、こうやって立っている。これはあなた方に束縛され ているからです。
 私があなた方を眼中に置かないで、開けた広野に居るように思って、このように立って居るものならば、かなり道において 進んだ者と言えましょうが、しかし予期しない事態への慎みや、恐れ避ける用意などというものは不可能であるように、 一人を慎むこともできない。
 そのような私が差別を見て、あなた方の前であるからと意識して、四角張っている。今日は教育大会の席だからといって 辛抱している。こういうことはとても苦しいことである。それを苦しまずにさっぱりとあっさりと自由にできるとき、 それが徳者だろうと思う。しかしそうではなく、この場にいるのだからそれに合わせてこんな話をしているというのは、 偽道徳とまでは言わなくとも、作った道徳と言わなければならない。これでは真正に心が定まってはいないと言わなければ ならない。そこで、自分が〔我と人とは別であるが互いに一つであるという決着を〕信ずるというところから、もう一歩 進んで、信じたところが明かになり、それに〔自分の心境が〕常に適う、というようになるまで勉めることがなければ 〔真正の精神上の根本に〕至ることはできない。したがって自分の信ずるところを得て、その信ずるところを日夜朝暮 どこまでも行っていくということに勉めるのが重要であると思う。
 実行面から言えば、
 先ず因縁果の理法から根本は一つであるということを信じなければならない。
 天地万物は一体であるということを信じなければならない。
 そのためには天地万物が別々であるという根本を払わなければならない。

 仏教で天地万物が一体であると言うと、そこで誤解されることがありますので、ちょっと注意します。この言い方は 差別ということを無視して平等だけを問題にする、と受け取られがちですがそういう意味ではありません。
 差別の考え方での間違いは、一つ一つの物が独立の存在である、独立の実物である、というように思い込んでいるその点 です。その考えを払拭しなければならない。それら〔一つ一つの物〕の真正の体は何かというと、別々の物ではない、 一体の物である、ということになる。と同時にその一体の物がそのまま千種、万種に現れてくる。これを存在論では、 現象は千差万別であるが、そのまま一つの実在である、と言います。
 理論的には以上のようになりますが、日常生活になると我々は差別して一つ一つの物が独立の存在であるということに のみ偏ってしまいます。人のことはどうでもよい、自分が死ぬことだけが恐いということになってしまっている。
 こういう考えは間違いであり、迷いである。しかし動物、植物などはどうかというと、差別の一つ一つが実在している という考え方に従っているような行動がいくらでもあります。植物界はちょっとはっきりしませんが、動物界の今日まで 進化してきた歴史にはこの実例があります。
 今日〔の一般的な説明では〕、人間の目的というものは自己保存ということが根本です。自分の利益を求めるほかに 我々に希望というものが起きる動機はありません。そして、その動機が千変万化して同情とか仁愛になってきたと説かれ ます。これは事実上、歴史上あるいは進化論上はそうでなければならないかもしれない。しかしそのような解釈はまた 〔我々が先に吟味した因縁を根本とする〕実際を遠く離れている。

 この点について私はちょっと言いたいことがあります。脱線になるかもしれませんが、先に述べたことの基礎を防禦する ためにも述べます。
 進化論とか文明論とかの論調は次のようなものです。

 我々は昔は下等な野蛮なものであった。そこから段々と開化して今日の文明を有するものとなった。そうしてこのような 働きが最初から一貫したもの〔=進化・淘汰〕として根本にあった。

 その働き〔=進化・淘汰〕が根本であるという。しかしこれはおかしい。そのこと〔=進化・淘汰〕を問題にするならば、 我々が下等なものであったとき、そこに潜んでいた進化して向上するという因が最も大切なものである、と言わなければ ならない。〔その下等なときの因を無視して外側に〕根本の働き〔=進化・淘汰〕があったという言い方をするのはちょっと おかしい。
 そして歴史的経過としては進化の過程を経てきたが、それは目標へ到達するための過程で、そこで根本の大切なものは 何かといえば、その目標まで行くということである。そこに行くためにこの過程を始めてきた。開始したところから、 目標に行くために現れた働きが根本でないかという考えがあるかもしれない。しかし、それは行程の一番はじめに現れた というだけである。それが何のために現れたかというと目標に到達するために現れたのである。我々が今日までに人間に なってきたのは何のためか。それは我々はここから更に高等なものになるためです。その高等なものになったとき我々の 性質は根本に達する。
 「天の命ずる之を性言う〔中庸一章〕。」 性に還らなければならない、という点から言うと、我々は性 〔=天命である目標〕に重きを置いて、それが少しでも現れてきたならば、そこではじめて「現れてきた」と言いうる。
 例えばある人がもう一人の人を訪ねたとする。天気の話からはじめて、さて今日はこういう用事があって伺いました、 要件はこうです。と言うとき、この人がそこに行って色々の話をした根本がどこにあるかというと、根本はただ一つの要件を 達するためです。
 さて、本日この場にいる我々が根本と言うべきことは何かと言えば、我々が活動しだす土台が完全でなければならない、 ということであった。完全になるとは自分を愛するということではない、自分を忘れて我と人と同一体に見るということで ある。それこそが最初の働きであるととらえると、その働きが少しばかりでも今日現れてきたならば、その少しのものは 人間の根本の性質である、人間としてはこれを根本としなければならない。
 しかし、どうも文明論とか進化論は論調が間違っているようである。加藤弘之先生の自利の説〔出典確認〕はある面正 しいことを言っている。この説は進化論の上において何が一番初めに現れたかということを過去の歴史を調べて求めているの であのように言わなければならない。ところがどうもすると同じ論調を今日の我々に適用して、我々は競争淘汰優勝劣敗で 進んできたから、これから後も優勝劣敗でいかなければならない、というような主張は間違っていると思う。
 競争淘汰優勝劣敗は今日の我々に至るまでに現れた主義である。しかし、ここから先へ進むとき取るべき主義ではない。
 これまでは我々の知識がそれほど進まなかったため、自然に支配されて競争淘汰優勝劣敗で盲滅法にやってきたが、今日、 我々の思想に道徳的、宗教的精神が出てきたのだから、その精神が働かなければならない。このようにならなければ進歩の 教えとは言えないと思う。そこで、この精神においてどこまでも進み、進めるという立場がさらに出てくる。そして我々の 精神はどういうものであるかというと、どこまでも進むことができるものである。
 どこまでも進んで行くとどうなるか。これを仏教では説いていますがなかなか愉快になってくる。我々の精神がどんどん 進むと天地万物中で自分の外にあるものは一つも無いようになる。一切の生き物は一つも他者ではなくなる。天地万物は 皆我が所有である。一切の生き物は皆我が子であるという具合になる。これが最後の有様だとしたら、そこを目標に我々は 精神を鍛錬しなければならない。
 我々の今日の有様が少しはその事を思い、いくらかはそれに従って働くことができるとすれば、さらに精神を奮い立たせ 少しでも早くそこに到ろうとすることが、我々のなすべきことだろうと思う。そしてそれこそが道徳教育であろうと思う。

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『道徳教育について』意訳

更新情報・使用法・凡例

-----意訳開始-----
1 自己紹介・導入
2 道徳の基礎
3 基礎=因縁果
4 実地との相応
5 因縁果を知る
6 西洋思想における解釈
7 因縁から見た道徳
8 道徳の実践面
9 道徳の指針
10 物の値打ち
-----意訳終了-----

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