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『道徳教育について』意訳
5 因縁果を知る
因と縁との二つがあって、適合するところで結果ができてくるというときには、そこにどれだけの考えが籠もっている
のか。
まず因については、縁に合うだけの性質が籠もっていなければならない。そして、それに対する縁があって、因と必然的
に合わなければ〔結果を生ずる〕働きを現すことはできないと言わなければならない。そこで〔一つの因に対する〕この
ような縁というものがどれだけあるのかというと、世の中、世界、宇宙に縁はいくらでもある、またどんな種類でもある。
したがってその縁に合えば、この因がどれだけでも働きを現すことができる。この面から言えば、縁はたくさんあるから
因はどこまでも発達することができると言える。
またもう一面から言えば、因は不変であることはできない。もし不変であるとすれば、結果に移ることはないから、
因のままで変わらない。しかし、因縁が投合して結果に至る、ということは因が変わるということが先ずなければならない。
変わるということがあるとすれば、一度変わるものは二度変わる、二度変わるものは三度変わる、このようにしてどこまでも
変わらなければならない。そうすると、因というものそれ自身に「変わらなければならない」という道理〔=法則〕がある
ことになる。変わらなければならないとすれば千万無量に変わらなければならない。
もう一段進んで申します。因に対する縁という外側からの事は、あるところで止まるかもしれない。縁がたくさんあった
ところで、それが因に働き及ばないものがあるかもしれない。また、不変なるものがあるとして、変化はそこで止まる、
という考え方もある。〔しかし、そうではない。因に対して縁が働き、変化するということの〕根底を叩いてみると、
原因と条件とがどうしても離れることはできない、と言える。
つまり、原因と条件の二つは別々のものではない、実は一つのものである、ということでなければならない。こうなった
とき、原因と条件とが合わなければならない、という法則の基礎が出てくる。これによって、原因と条件とが適合すると
いうことが成り立つと考える。
どのように適合するか。原因と条件とが全く異なるもの、たとえば水と油のようなものなら、決して一つにはならない。
原因と条件とが一つに適合できるのは、両者が相感じて合一することができるのだと言わなければならない。
人間を例とすれば、朋友どうしが信じ合ってこちらの言うことが相手に通じると言える。これがもし敵どうしであれば何も
通じない。二つの石を近づけたようなことなら感じ合うことはできないと言える。しかし、感じ合うことが起きるのは、
つまりは朋友相互が感じ合うということと同じである。すべての人間の倫理的な事柄は、この感じ合い応じ合うという感応
同合ということがなければ、決して美しく成り立つものではない。今言っているのは人間のことで、低いレベルの話
ではない。
人と人の間に行われる、感じ合うということがらは、天地の法則である。この説明が一般的にはどうもすると、物質の
原子がどうだ分子がどうだというところからからはじまってしまう。そうすると、人間の身体はいくつかの元素からできて
いる、脳髄も神経も物質の元素からできているということになってしまって、このような仕方で人間を説明しようとするから
行き詰まる。
唯物論ははじめは面白いのだが、あとになると必ず行き詰まる。この考え方では、我々が感ずることができるのはどう
してか、精神的現象がどうして起こるかという説明ができず、機械的な説明だけになる。人間を機械的に説明してしまって
は、人間の首を切るのは大根を切るのと同じことになってしまう。
このようになってしまうのは、根本が間違っていると思う。根本は「人間が知る」というところにある。天地の間の事を
知るとは、人間が知るという行為が知識となるのだ。だから人間において最も大切な働きは、知るという行為を成り立たせる
ところの根本である、と言わなければならない。すなわち、人間の働きの中で最も根本となるものは、人間相互が感ずると
いうことである。感ずるというところから総てが起こって知情意が起こり、物を知るとか動くとか欲するという働きが
できてくる。つまり、相感ずる、相応するということが無ければ、総ての働きができない。そしてそこからはじめれば、
総ての説明ができることになる。
(演台に置いてあるコップを指し)ここにあるコップのような機械的なものは、精神的な働きの度合いが低いのです。
植物は精神的働きの度合いが少し高まってくる。動物はそれがさらに高まってくる。それから、人間の神経の働き、精神の
働きという風に高まってきて、これらすべては同一種類の働きであって、下等な状態と高等な状態との違いがあるだけで
別種のものではない。
ここからの説明は仏教的には万物は唯心のほかはないとか、万法は唯識であるというように展開しますが、今はそういう
説明の仕方はしません。我々が感ずるということが宇宙の根本の働きであるということを基礎に置きます。すると、その
感ずるとはどういうことかというと、二つのものが互いに感ずるということである。