ホーム > 雑文・文献・資料 > 清沢満之 > 『道徳教育について』意訳
『道徳教育について』意訳
6 西洋思想における解釈
互いに感ずるという言い方は、通常は相手がこちらを刺激したから感じる、というように相手と自分とを対立させます。
しかしこのように相手と自分を立てることは間違いなのです。そのように相手と自分を立ててしまうと、相手が刺激した
から自分が感じる、自分が刺激したから相手が感じるという説明の仕方を取らなければならなくなり、それによって今日、
学問的基礎の理屈が決定できず混乱してしまっています。
経験論者のように総てを経験から説明しようとします。そうすると、相手から刺激を受けるということは受動的です。
受動的という説明のしかたはどうしても能動的と言えない。経験が根本である以上、それは受動的であってどこまでつきつ
めても受動的です。能動的の説明ができない。能動的の説明ができないかぎり理論としては不完全です。
〔ひとつのものについて〕あるときは受動的、あるときは能動的ということはできない。〔そしてこのような受動的、
能動的のどちらも否定する立場に至ります。〕受動的でもなく、能動的でもない二つのものがあるとすれば、その二つの
ものが互いに同じように感じ合う、これが因縁であると言わなければなりません。
その感じるということは、自分が相手より先に在って〔感じる用意をして〕待っているのではありません。
〔自分と相手が〕同時に感じ合うということです。それは、相手には感じるに至るまでの独自の過程があり、自分にも
感じるに至るまでの独自の過程がある。その相手と自分のそれぞれの独自の過程が実は一つのものであるから感じ合うと
いうことが成り立つと言わなければなりません。
このような説明の仕方を取ると、どんな状況でも説明できることになります。これに対して相手と自分というものを
立てて説明しようとすると、必ず行き詰まることになります。このような見方を得て、歴史的な問題を省みると、
〔相手と自分、能動と受動という〕この問題が人の頭を非常に苦しめたということが見えてきます。この問題を仏教の
立場からとらえようとするとき、哲学が良い題材になるので、哲学の話を少しします。
近世の哲学の大問題が何であったかというと、相手と自分という二つの点です。デカルト、スピノザ、ライプニッツ、
みんなこの二つの点の働きの説明ができなかった。それはどうしてかというと〔相手と自分という区別を離れることが
できず〕こちらから〔=能動〕とか、あちらから〔=受動〕という説明のしかたにこだわったからです。
〔この区別された〕二つのものが働き合う説明には、こちらのものとあちらのものとが相感じ合うとき、そこに共通の
根底を置かなければならない。こちらにあることとあちらにあることに同じ事があるという場合、それがどうして同じ事
であるかを説明しなければならない。それを上帝とか天帝とかゴッドとか言って説明した。
キリスト教は神というものは天地万物を創造するという、それを基にして説明した。天地万物は千差万別である、
それを煎じ詰めると二つになる。二つから一つということは難しいことであるが、この一つとは何かというと、
神・ゴッドといういうものであると言って、その神の創造というところから説明しようとした。しかし、そうなると
神そのものの説明に困ってしまって、後にはとうとう神を叩き伏せることに掛かってしまった。そうならないような
言い方としては、こちらの物の中に神がある、あちらの物の中に神がある、その〔二つの〕神は一つである、と言った。
以上はご参考までに申しました。