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『道徳教育について』意訳
3 基礎=因縁果
基礎を作るとはどういうことか。これについて坊主の言うことは決まっています。「因縁」というものの外に
はありません。
「原因」というものと、それに対する「縁=条件」というようなもの、その原因と縁=条件が寄り集まって調子の合った
ところで「結果」を生ずる。「因縁果」この外にはありません。
天地の間にあるどれほどの広大なことでも、どれほどの愉快なことでも、因と縁と果に収まらないものはない。それを
通常は「因果」とか「因縁」と言っています。具体例を挙げます。
今日、総ての学問の説明に用いられる天地の現象はすべて因縁果の例となります。あえて古くさい坊主流の説明を持ち
出す必要はありません。原因というべきものがどれだけあったとしても、それに対応する縁=条件がなければ、結果は生
じません。こういう説明のしかたをすれば、天地の間のすべての現象を説明できます。
教育についていえば注入的教育〔つめこみ教育?〕とか開発的教育〔ゆとり教育?〕とかいいますが、坊主から言えば
教育も因縁であるといえる。
注入ということでは、教師だけが立派にすればよいということになって、原因〔=生徒〕をおろそかにして条件
〔=教師〕ばかりを重視する。しかしこれではうまくいかない。原因に条件=縁が適合しなければならない。
それならばと、開発ということで、子供がそれだけの性能を備えているのだから、ほうっておいても自然に能力は現れて
くる、と言ったところで、原因ばかりを重視して原因の発達するべき条件を顧みないとうまくいかない。
本当の教育とは教員と生徒が相対して一方が縁=条件となり、もう一方の原因にうまく適合しなければならない。そのとき
はじめて本当の知識の開発が行われてくるということは、今日では明かなことと思います。これを坊主流に言えば教育の
このような主義は、三千年の昔に既に釈迦牟尼仏が発揚していた、ということになります。
さて現代の教育について言えば、教員が自分が優れた知識を持っているからといって、それを勢いにまかせて述べて
しまっては、未熟な生徒はその影響を決して受けるものはない。これは条件が原因に適合しないからです。それを生徒に
適合するように言って聞かせる、すなわち高いところの知識を備えた教員諸君が、低いところに下って幼稚なことも言って
聞かせると、そこではじめて生徒の程度に適合して生徒が進化発達する。
いわゆる熟練した教員の方々の授業は、実につまらない平々凡々な内容にもかかわらず、その人が非常な教育の手腕を
備えた人であるということをしばしば聞きます。つまり因縁が適合することが必要だということでしょう。しかし、
だからといっていつでも平々凡々なことを言わなければならないか、というとそうではない。生徒の知識が進歩するに
したがって、段々と程度を高めて教授していくとき、本当の効果が出る。このような例でお話しさせていただきましたが、
皆さんのご経験から、なるほどと賛成してくださるのではないでしょうか。
初めて教員になった人の教え方を聞いてみると、生徒は先生の授業がさっぱりわからないと文句を言う。先生は生徒が
分かろうとしないのだという。しかし、生徒は「先生が分からないのだ」と言う。なるほど、生徒が分かるように教える
ことのできない先生は「先生が分からないのだ」と言っても差し支えないでしょう。
このように、因縁果の理法に依らなければ本当の教育というものの説明はできないと思います。道徳教育に至ってはこれ
が一層重要である。道徳教育を修身の教科書とか倫理で熱心にやったところで、聞く方の耳がそれに適していなければ、
さっぱり役に立たない。かえってそれらを嘲笑するというようなことになる。これではせっかくの倫理道徳も何にも
ならない。したがって因縁果の理法に鑑みてやらなければ、効果は現れるものではない、と言ってよいと思います。
人為的に行うことについては法則としての因縁果の真理に注意するということが最も重要であると思う。しかしこれは、
まだここでは方法としての段階の話です。「道徳教育の基礎としての因縁果」を問題にするときは、さらに深い意味に
進まなければなりません。