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清沢満之をめぐる経済について
5 東大大学院・一高嘱託教授・哲学館教授時代
明治20(1887)年(25歳)〜明治21(1888)年(26歳)
脇本本から
明治二十年(一八八七)七月、満之は大学を卒業した。数えで二十五歳であった。卒業後もただちに大学院に残って、 宗教哲学を専攻した。かたわら第一高等中学校(後の一高─東大教養学部)、哲学館(後の東洋大学)などに教鞭を とることになった。一高では、外山正一教授の推薦により、仏国フランス史を教えた。哲学館は、同年九月に 井上円了が創設したものだが、満之はこれに評議員として加わると共に、心理学・論理学・純正哲学などを講義した。 もはや押しも押されもしない「明治の文学士」であった。郷里から両親も呼び寄せて、本郷西片町十番地イの十六号に 一家を構えた。
当時、東大出の文学士に対する社会的評価は、まことに高いものがあった。まさに選ばれたるエリートともいうべきもの であった。満之におけるそうした文学士ぶりの一端を、村上専精せんしょうの回想のうちにうかがってみよう。
氏(満之)は明治二十年に大学を卒業せられて、西片町の十番地にをられて、
哲学館の教授をしてをられた。私も其の後東京へ来て、矢張やはり哲学館の
教授をやりましたが、麻布から本郷までテクテク通うて、一月に月給が大枚
一円五十銭〔37,500円〕、同じ教授でも氏と私とは大いに懸隔があつたのです。
この当時は哲学を知らねば学者でない位の時代であつたので、私は同志の
人々と相談して、ない中から私は一人で一円だけ奮発する、後はみんなで四
円だけ集めて、都合五円〔125,000円〕を毎月の御礼となして、氏からカント
の哲学をきくことを御願ひしたことがある。其の時氏は「まあ五円位でいい
でせう。」と云はれた。私はせめて多いとでも云はれることと思うてゐたの
で、実にあつけにとられたことである。当時の氏は、勇気凛然りんぜん
たるものでありました。
満之が哲学館からいくら月給をもらっていたか、残念ながらわからない。しかし一高からは、嘱託教員の給料として、
自今報酬として一ヶ月金四拾円贈貽可致此段申進候也
という辞令を受けている。(pp.49)
嘱託教員という身分での一高の月給40円〔百万円〕は、間違いではないかと言いたくなるような高給である。しかし、
学歴階級社会の頂点に立った者への待遇は特別だったのだろう。
そうでなければ、郷里から両親を呼び寄せて一家を構えるなどという事は、おいそれとできるはずがない。それは
村上専精の話からも窺うかがえる。村上は清沢より12歳年長で、ここで言っている哲学館で教えていた当時は
ウィキペディアによると
曹洞宗大学林の講師もしていた。おそらく哲学館の方はアルバイトだったのだろうが、清沢との格差は歴然である。
私は、清沢の経歴を初めて知った時、この時期から京都での中学校長時代までの話を読み「何と傲慢な若造だろう」
と思ったものだった。しかし、後になって清沢の文章を読むようになると、暮らしぶり、金回りには左右されない筋が一本、
常に通っていると感じるようになった。そしてそのようなところが、周囲の者へ感銘を与えるのではないか。このことは
次の逸話からも窺える。
脇本本から
一高に教鞭をとったのは、わずか一年に過ぎなかった。しかも一高を去るにあたっては、学生たちから記念の硯や 感謝状を贈られている。「之これは当時余り例のない事と考へます」と稲葉昌丸まさまるはいう。 また暁烏あけがらす敏はやによれば、その「感謝状の中に、随分濃厚な情が顕はれて居る」。 全集におさめられた漢文の感謝状二通をながめてみると、たしかにその通りである。一年こっきりの講師に対して このように惜別感謝の意を表するということは、師弟の礼のやかましかった当時にしても、やはり単なる儀礼だったとは 思われない。(pp.138)