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清沢満之をめぐる経済について
2010/05/23 公開
1 清沢は葬式をしたか
しばらく前から無限洞の中でこの疑問が話題に出るようになった。清沢は大坊の西方寺の二女やすの婿となって寺に入った。
しかし清沢は東大出の、当時においてはスーパーエリートである。いくら大坊とはいえ葬式や法事などの「泥臭い」仕事を
したのだろうか─おそらくしなかっただろうという先入観、また清沢の難解な文章の敷居の高さから、
「頭でっかちで現場を知らないエリート」という先入観がなんとなく漂い、誰となく「清沢は葬式をしたか」
と言い出すようになったものと思われる。
私は岩波版清沢満之全集とようやく格闘をはじめた最中だったが、その作業で文章を通して見えて来る清沢の性格が
あった。その性格は、ひとことで言えば「真面目」という言葉で表さざるをえないものだが、しかし、清沢の「真面目」さ
には、こちらの居住まいを正させるような何かがある。
そんな清沢であれば、寺に居る時は律儀に葬式・法事に従事したのではないか、と私は思った。確かめるためには全集
第八巻の日記、第九巻の書簡を読むのが一番確実である。そうなのだが、しかし、退屈な記述の集積に見えた八巻九巻には
食指が動かず、放っておいた。四月下旬、ふと思って葬式をしたか否かだけでも確認しようと、日記をざっと調べてみた。
すると、清沢は自坊に居る時は葬式・法事は勿論、毎日の勤行や報恩講などの行事にも進んで出仕していたことが分かった。
結核を患う体調が許せば、という条件付きではあったが。
日記も読み始めてみると結構面白い。改めて最初から通読を開始した。しかし、文中に出てくる人の名前や人間関係、
その時々に清沢が置かれている状況などがよく分からない。解題・解説にその説明があることを期待したが、
役に立つ情報はほとんど書かれていない。しかたがないので第九巻の年譜をコピーし、また私の作成した
年齢順一覧の二つを手もとに置き、これらを見ながら
読み進めた。
日記を読み終わると、第九巻の書簡に進んだ。こちらは、当時の手紙文の漢文慣用句と漢字の当て字の羅列に辟易した。
しかし、辞書を引き漢文加点を類推しつつ数をこなしていくと、何とかなってくるものである。解題・解説は第八巻と
同様役に立たない。
日記、書簡を読んで清沢の日常生活の中身を具体的に知ることができたが、人間関係や、とりまく状況は十分に明らかに
なっていない。ここに来てようやく清沢の伝記を読まなければならないことに気付いた。