真宗大谷派 西照寺

ホーム > 雑文・文献・資料 > 清沢満之 > 清沢満之をめぐる経済について

清沢満之をめぐる経済について


7 結核発病〜教界時言社時代
 明治27(1894)年(32歳)〜明治31(1898)年(36歳)

 清沢は禁欲生活の帰結として結核に罹る。

 脇本本から

明治二十七年(一八九四)一月二十九日、前法主ほっす厳如ごんにょの葬儀がとり行われた日は、 格別の寒さであった。葬儀に参列した僧侶たちは、午前二時から午後五時まで、この寒中を剃りたての頭で立ちつづけた。 そのためか、当時流行中の感冒にかかるものが続出した。世に大谷風と呼ばれたほどであった。年末頃からすこし 不調気味だった満之もまた、寒風中に停立十数時間に及んで、たちまち大谷風の冒すところとなった。病態は悪化の一方を たどったが、かまわず禁欲主義は続いた。友人たちがどんなに静養をすすめても、頑として聞き容れなかった。 後年、藤岡了空が満之との対話を録したところによると、当時を反省して満之はこう語っている。

 私の感冒の放任と曰ふものは中々甚だしかつたです。先づ時日を云へば、
 凡およそ半ケ年、其の放任の有様を申せば、当時ある一種の行者
 気取で居たものですから、常に魚肉の類を用ゐず、又薬などは一切用ゐるには
 及ばないと日ふ勢でありました……。どうもあの時分の私は、実に我慢の極点
 に達して居ました。

陽春四月にいたっても、依然感冒恢復のきざしは見えなかった。
ずっと心を痛めてきた親友たちは、春になればののぞみも裏切られて、もうこれ以上ぐずぐずしてはいられなくなった。 その頃京都には、稲葉昌丸、今川覚神、井上豊忠ぶんちゆう、沢柳政太郎らの同志が集まっていた。 かれらは相談の結果、満之に強要して欠席届に印を捺させた。こうしてやっと四月十六日から学校を休ませ、 続いて府立病院に診断を乞わせたところ、左肺上葉結核症。この診断を裏づけるかのように、喀血もあった。当時としては、 まさに不治の病の宣告であった。
そのときの気持を回顧して、満之は、藤岡了空との対話をつぎのように進めている。

 私はさう落胆はしませんでした。夫れは無常迅速の理を明らめた
 已上はさのみ驚くには足らぬと思つて居ましたから、唯だ此の上は家族及び其の
 他の人に累を及ぼしてはならぬ、且つかかる不治難症の病に家財を
 投じて養生をするも、畢竟ひっきょう無用であるから、自家の片隅
 又は適当の地を選んで、精神の静養をするに若かずと決しました。

家族や親友たちにしてみれば、満之のこんな考え方には、むろん賛成できるはずもなかった。満之の片意地ぶりには閉口 しながらも、同志の面々は、いろいろ奔走を続けた。その結果、播州垂水の海岸に家を一軒借りて来て、切に転地療養を すすめた。さすが我慢の満之も、親友たちのこの情誼には我を折った。父永則とともに、六月三日、垂水の浜に引き移って 行った。井上豊忠によれば、

 今までの徳永はこれで死亡した。この上はこの屍骸は諸君の自由に任せませう。

というのが、満之のこのときのことばであった。(pp.63)

 清沢の療養中に、彼の同志が中心にあって進展していた宗門教育の刷新体制は、真宗第一中学寮生のストライキに端を 発して、宗門行政側からの介入があり潰されていく。清沢達は次第に対立姿勢を強め、ついに教界時言社を設立して宗門の 改革運動を開始する。

脇本本から

二十九年八月の末、今川は熊本済々黌こう中学に、稲葉は群馬県前橋中学に、妻子とも別れてそれぞれ単身赴任 した。運動資金は二人の給料で調達する計画であった。十月十日、洛東白川村二三番戸に教界時言社を設け、満之はここに 籠居した。社員は、今川覚神、稲葉昌丸、井上豊忠、月見覚了、清川円誠、清沢満之の六名である。世にこれを白川党と 呼んだ。井上豊忠は、当時の決意をこう語っている。

 六人の身の上に甚ひどい異動のない上は、たとひ一人の来援者なくとも、
 たとひ一金の投資者なくとも、いつまでも挽たゆまず屈せず、
 謇々けんけん諤々がくがく言はんと欲する所をいひ、
 獗々けつけつ梗々こうこう、為さんと欲する所を
 為さむことを盟ちこうて各々正しく其任務についた。……
 革新運動の武器は、実に筆と舌とである。

ねらいは、全国門末の世論の喚起にあった。満之と稲葉が共同で買いためた蔵書「如是文庫」も、いまは売り払って雑誌 『教界時言』の資金に投入した。その『教界時言』第一号がようやく発行されたのは、十月三十日であった。(pp.79)

本山本から

機は熟しました。満之は八月に大浜から上洛します。辞表を提出していた今川覚神・稲葉昌丸の両氏は解職となり、 稲葉は群馬県の中学校(沢柳校長)、今川は熊本県の済々黌へ、それぞれ教授嘱託として赴任して行きます。十月には、 井上豊忠も辞職し、清川円誠が大谷中学教授を辞します。これによって「本山当局者と同志者との関係は全く断絶してしま」 うのです。こうして十月、井上、月見覚了が満之の居する洛東白川村に集まり、教界時言社を設立し改革運動が発足する のです。(pp.53)

稲葉、今川両氏は資金調達のために京都から離れて赴任し、清川円誠は「諸多の任務を帯びて」六条付近に、 満之と井上豊忠、月見覚了の三人は事務を担当し、白川村の教界時言社に住むことになります。稲葉、今川が送ってくる 運動資金を唯一の財源にして「苦行者のような」貧しい生活のなかで運動が始められます。(pp.55)

 ちょっと想像がつかないスケールの話である。六人は、おそらく、相当な長期戦になるとの覚悟の上で、冷静に戦略を 練って教界時言社を立ち上げたのだろう。事を起すに当っての清沢の用意周到な配慮と決断が想像できる。 本山と全国門末を相手にできるという自信があってこその行動だろう。運動資金は今川、稲葉(二人とも東大卒)の給料から 調達するという目算、妻子がありながらも給料を運動に投入する(おそらく妻子を養える最小限の額を残して、 残り全てだろう。)という覚悟など、明治という時代の知的エリートの活動の最良の形が見えるように思う。

前ページ トップ 次ページ

清沢満之をめぐる経済について


1 清沢は葬式をしたか

2 清沢の伝記

3 経済状況を知りたい

4 東本願寺育英教校時代

5 東大大学院・一高嘱託教授・哲学館教授時代

6 京都府尋常中学校校長〜禁欲生活時代

7 結核発病〜教界時言社時代

8 真宗大学の移転建設

9 明治20年代の宗門の財政状況
9.1 現代の状況
9.2 当時の状況と現代との比較
9.3 負債返却後の財政運営

10 人口の変化と宗門の権勢

 (C)西照寺 2007年来