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清沢満之をめぐる経済について
当時の大谷派本山は、「再建負債の二大件」に追いまわされていた。明治二十年に発表された負債総額は、 実に三三〇余万円の多きにのぼっていた。当路とうろに立つ本山執事渥美契縁かいえんは、銀行を動かし、 相続講をつくり、寺格をかけ、賞品を与えて、金つくりに狂奔した。おかげで二十五年一月には、負債額二〇八万円に減少、 ついで二十六年末には、一挙にこれを償却しおわっている。以て負債整理の強行ぶりもうかがわれるというものであろう。 しかもこれとあいならんで、元治元年(一八六四)に焼失した両堂の再建事業もまた、強行に強行をかさねていた。 明治十二年に着手して、今日見るがごとき大伽藍を落成したのが、二十八年四月であった。
全国に七千の末寺と百万の信徒を擁して、社会的にも一大勢力としての大谷派であった。(pp.68)
二十八年十二月の雑誌『日本人』は、ついに安藤鉄腸(正純)の筆を以て「平沼専蔵と本願寺法主ほっす」 と題する一文をさえのせるに至った。平沼専蔵は、当時有名な高利貸である。人間並みの心を持つものに、高利を貪って 富をなすことはできない。しかるに「当時尤もっとも人道に遠ざかりて、而して人間以外に立ちて利を 獲る者あり。平沼専蔵是れ也。本願寺法主是れ也」というふうに痛罵している。それまでは、どちらかといえば 教団体制・法主制度に中心を向けていた批判が、ここでは法主個人に集中された。この傾向を一気に煽り立てたのは、 二十九年六月、法主光瑩こうえいが伯爵を受けたことであった。「本願寺法主、天爵の尊きを忘れて 人爵に訣おもねる」。そういった非難が、時の新聞雑誌を賑わせた。勢のおもむくところ、妻妾を左右にして 舞子の別荘に豪遊するというふうな、法主の品行攻撃にまで発展していった。(pp.81)
内事局長の責任を兼ねるものは、執事の渥美契縁であった。しかもその執事は、法主を金貸し以上の人非人と罵倒された その翌月、あたかもこれを実証するかのごとく、教学資金募集と称して三六〇万円大勧財の暴挙に出た。再建・負債の 二大事業で疲弊その極に達した門末を、かえりみようともしない。
噫ああ、大谷派本山当路者とうろしゃの耳には、門末の饑うえに泣き、
寒に叫ぶの声は聞えざるか。大谷派本山当路者の目には、門末の衣を縮め、口を節して、
而も猶ほ生を聊やすんずる能はざるの状は見えざるか。古人曰く、苛政は虎よりも猛
なりと。人を救ひ、世を益すべき宗門に於いて、虎狼よりも甚だしき残虐を行ふ、
鳴乎これを何とか言はん。(『教界時言』社説(清沢執筆)からの引用)
その上、もともと本山の会計法はまことに不完全であって、「如何なる非をも遂げ得べき危険極まる法規」である。 廉正を要する財務の職員は、これまた信用しがたい点がある。財務部長は渥美の兼任であり、部内緊要の地位はすべて、 渥美の股肱ここう腹心たる四名の人物によって占められている。かれらをめぐって、とかくの疑難が門の 内外にある。少なくとも確実な事実は、本年八月三十一日の調査によると、本山の負債は再び 「六十二万二千〇七十六円三十五銭五厘七毛」にのぼっていることだ。このたびの募金も、教学資金の美名をかかげながら、 その実二十九年度予算表によれば、すでに負債償却その他の費用に流用が予定されている。(pp.82)
関心を寄せはじめた末寺にとって、生活の利害関係に直接結びついてくる問題は、いわゆる財政紊乱ぶんらんの 一事であった。再建・負債その他の上納金を二重三重に課せられて、門末の財力は枯渇に瀕していた。その状況を、 『教界時言』の第二号はこう描いた。
其の困弊の最も甚だしきは、特に寺院を然りと為す。田園を売り衣具を典するも、
猶ほ未だ債鬼の門に迫るを免るる能はず、妻は饑うえに啼なき、児は寒に叫ぶも、
衣食の以て之に給すべきなし。屋は其の漏るるに委まかし、壁は其の落つるに任し、
軒傾き、門頽くずるるも、之を修築することを得ず。……我が大谷派の末寺中、
此の如き悲惨の境遇に瀕するものを求むれば、其の数蓋けだし少なからざるべし。
若し夫れ最愛の子女弟妹、学齢已に達し婚期既に到るも、就学の資なく、帰嫁の財なく、
父兄をして涙を呑んで徒いたずらに其の年齢の長ずるを歎ぜしむるが如きものに
至りては、其の数の夥多かたなる、指屈しくつするに遑いとまあらざるなり。
況んや、本年の天災地変によりて、我が大谷派門末の困弊は、更に幾層の甚だしきを加へ、
其の悲、其の惨、到底筆舌の能く之を名状すべからざるに於いてをや。
事を構えた時言社員の筆に、誇張はあったかもしれない。それにしても、事実、末寺は困っていた。(pp.87)
本山本から
明治十七年の負債額は三百余万円にのぼっていた。同年の大谷派の収入は十四万円程。当時の執事渥美は相続講を 創設する等して、負債を償却していった。明治二十九年の負債額は四十六万余円。(pp.52)
渥美執事は一応、満之たちの「建言」を受けた実行案に沿って、同年九月、寺務所を全面的に改め、議会の開設要求に 対して議制局を置きます。また、改革派寄りの人事や学事の変革を行いました。しかしながら、一八九六年に状況は 大きく変化します。渥美は、その建言を利用する形で一月に「本山教学資金積立法」を発表します。この「積立法」に 対しては、満之は当初から疑問を呈していました。後に『教界時言』は「大いに当路者が、名を教学に籍かりて 不法の勧財をなすの罪を問わんと欲するなり」とこれを批判しています。(pp.52)
「本山教学資金積立法」
一ヶ月五銭掛けで十年間に六円、六十万口として計三六〇万円の寄付を募るというもの。負債六〇万円の償却に当てる という裏の意図もあった。
試みに問う、大谷派なる宗門は、何の処に存するか、京都六条の天に聾そびえる魏々ぎぎたる
両堂と全国各地に散在せる一万の堂宇どううとはもって大谷派となすべきか、
いわく否、これらは火もって焼くべきなり、水もって流すべきなり、なんぞもって大谷派と
するに足らんや、宗門なるものは水火をもって滅すべきものにあらざるなり、しからば
かの三万の僧侶と百万の門徒とはもって大谷派となすべきか
(『教界時言 十一号』からの引用(清沢執筆))(pp.57)
法主の品行についての非難…例えば、『明教新誌』は「大谷光瑩法主・渥美契縁執事と云へば、或は日本仏教界 不道徳を意味する代名詞たるものにあらざる無きか」としている(参照:吉田久一『清沢満之』一一六頁) (pp.69)
以上、スキャンダルを伴って、また、宗門内部の人間である清沢が書いた『教界時言』の社説によって苛烈に指弾される
東本願寺の財政状況がどのようなものだったかを、現在価値に換算してみる。清沢の文章を読んだだけでは、表現が
大袈裟に過ぎるのではないか、読者を煽る意図があるのではないかという感想すら起きる。はたしてそうなのかを
確かめなければならない。
9.1 現代の状況
比較のために、先ず、現代の宗門の財政内容を東本願寺発行の月刊誌『真宗』によって公開されている情報からまとめる。
(各データの公開時期が同じでないため、若干の誤差があるが無視できる程度と考える。)
寺院数・・・8,836(2009年8月号)
僧侶数・・・32,892(2009年8月号)
門徒戸数・・・1,316,084(2008年6月号)
(2007年11月に行われた「門徒戸数調査」による集計結果である。この結果数値が出るまでには、各寺院からの生のデータに 地域ごとの特殊事情を反映させるための、複雑怪奇な調整計算が為されているのだが、結果としては実際の戸数にほぼ同じと 考えられる。)
年間収入予算・・・89億6千万円(2009年7月号)
臨時会計予算・・・311億1千万円(2009年7月号)
(「親鸞聖人七百五十回忌御遠忌」という行事に関連して行う事業の総額。これを2003年から2011年までの9年間で集める。)
以上のデータから次の平均値が導き出せる。
(1)一ヶ寺当たりの僧侶数 32,892 ÷ 8,836 = 3.7 ・・・2人〜4人
(2)一ヶ寺当たりの門徒戸数 1,316,084 ÷ 8,836 = 148.9 ・・・149戸
(3)一ヶ寺当たりの年間収入負担額 89億6千万 ÷ 8,836 = 1,014,033
・・・約101万4千円
(4)門徒1戸当たりの年間収入負担額 89億6千万 ÷ 1,316,084 = 6,808
・・・約6千8百円
(5)一ヶ寺当たりの臨時会計負担額 311億1千万 ÷ 8,836 = 3,520,824
・・・約352万円。これを9年間で分割集金するので、一年当たり352万円÷9=39万円
となる。
したがって、2003年から2009年までの1ヶ寺当たりの本山への上納金は101万4千円+39万円=140万4千円である。
門徒1戸当たりでは9,423円となる。
※ただし、実際には地域によって数倍の偏差がある。我が寺がある仙台教区は、最も軽い
部類である。
9.2 当時の状況と現代との比較
次に明治20年代の寺院数、僧侶数、門徒戸数データは上記引用の内容から次のように設定する。
寺院数・・・7,000
僧侶数・・・30,000
門徒戸数・・・10,000,000
年間収入予算・・・14万円〔35億円〕
負債総額・・・330万円〔825億円〕
それでは明治20年代の各種平均値と現代への換算値を出してみる。
(1)一ヶ寺当たりの僧侶数 30,000 ÷ 7,000 = 4.3 ・・・3人〜5人
(現代より1名程度多め。)
(2)一ヶ寺当たりの門徒戸数 1,000,000 ÷ 7,000 = 142.9 ・・・143戸
(現代とほぼ等しい。)
(3)一ヶ寺当たりの年間収入負担額 14万 ÷ 7,000 = 20円〔50万円〕
・・・〔50万円〕(現代の約半分)
(4)門徒1戸当たりの年間収入負担額 14万 ÷ 1,000,000 = 0.14円〔3,500円〕
・・・〔3,500円〕(現代の約半分)
(5)一ヶ寺当たりの負債総額負担額 330万 ÷ 7,000 = 471円〔11,775,000円〕
・・・〔11,775,000円〕。驚くべき数字ではある。これを明治20年〜26年で完済した
というのだから、7年で割ってみる。
〔11,775,000〕 ÷ 7 = 〔1,682,143〕 ・・・〔約168万円〕。
したがって、この7年間、各末寺は現代価値にして50万+168万=218万円の金額を本山に上納し続けたことになる。
門徒一戸当たりでは〔15,245円〕である。
この負債と現代の七百五十回忌事業予算は性質が同じとは言えないが、上納する側にとっては経常負担と臨時負担の 合計であるから同じ事である。よってそれぞれの合計額を比較してみると
〔218万円〕 ÷ 140万4千円 = 1.55倍
となる。
我が寺はちょうど現代の門徒戸数平均値149戸の近辺であるが、経済規模は自分の寺を維持することで精一杯という
程度である。他の平均値レベルの寺が我が寺と似たり寄ったりだとすれば、経済的ゆとりはほとんど無いと言っていい。
この状況が当時の門徒戸数143戸という平均値の末寺にも重なるとすれば、毎年〔218万円〕の上納というのは、
非常な無理を強いられたことだろう。だとすると脇本本の引用中にある『教界時言』第二号の描写はあながち誇張でも
ないことになる。
9.3 負債返却後の財政運営
330万円の負債を完済した3年後の明治29(1896)年には負債がまた46万円〔115億円〕に達している。
1年15万3千円〔38億2千500万円〕の赤字である。何と年間収入を上回る赤字を毎年出し続けている。当時の本山の
財務体質は、経常的に凄まじい赤字を垂れ流す放漫経営だったようである。そうしてその赤字を解消するために
「教学」に名を借りた「本山教学資金積立法」が発表される。
「一ヶ月五銭掛けで十年間に六円、六十万口として計三六〇万円の寄付を募るというもの。負債六〇万円の償却に 当てるという裏の意図もあった。」
・・・現代価値に換算すると、集金対象の門徒を60万戸とし、1戸当たり月々1,250円を積立させ、1年間で15,000円、 10年間で150,000円を徴収(寄付と書いてあるが実態は徴収だったろう。)し、総額で900億円を集めようというものである。
1戸当たりの年間徴収額が前項の門徒一戸当たり〔15,245円〕に近似している。明治26年での負債完済で味を占めて、 この程度なら恒常的に搾り取れると考えて立てられた計画のような感じがする。
清沢ら改革派の怒りは、ここに極まれりといったところではなかっただろうか。
このように見てくると、『教界時言』における清沢の過激な文章や、新聞雑誌による露骨な批難が出てくるのは、
当然だったと言えようか。