真宗大谷派 西照寺

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清沢満之をめぐる経済について


8 真宗大学の移転建設
 明治32(1899)年(37歳)〜明治35(1902)年(40歳)

脇本本から

その後満之は、本山の政権争いにまきこまれることを極力警戒した。しかし、新法主の直書で再三の東上督促を受けては、 「敢えて奉承趨命之事に決着罷まかり在り候」と返書しないではいられなかった。 明治三十二年(一八九九)六月十四日、ついに新法主の侍読を引きうけて東京に住むことになった。
 満之の出京を機として、石川舜台しゅんだい一派の旧白川党に対する出馬の要請は、ようやく急を加えてきた。 満之は再び山政にかかわることを嫌って、慎重に同志との相談をかさねた。その様子は、当時の満之の書簡によく現れている。 七月五日の月見覚了あての手紙には、見込みのないところへ飛びこむわけにはゆかないが、と警戒しつつも、

 只だ大学生に対する一片の心と、真宗大学と云ふものを思ふ一片の心は、
 今日の如き場合には、一ッ前後左右を顧みず、盲目的に引受けても見度みたく
 候そうらへ共ども

といったことばもみえている。この宗門教学への情熱から、ついに満之は、厳しい条件をつけたうえで真宗大学の経営に のりだすこととなった。その条件というのは、以下の三つである。

一、真宗大学を東京に移すこと。
二、毎年一ヶ年間の大学の経費として二万五千円〔6億2千500万円〕を支出する
 こと。尚ほ当初三ヶ年間の経費を銀行に別預けとして、此の金は本山内に他日如
 何様なることあるも、其の変動には一切関係なきこととす。
三、教育上の方針、学課の編制等、教育に関する全体を一任して更に容喙ようかい
 ざる事。

本山はこの条件を呑んだ。三十三年一月、満之、月見ほか七名を真宗大学建築掛に任命、七月に着工、東京巣鴨の地に 校舎の落成したのは翌三十四年九月であった。十月十三日には、清沢満之を学監、関根仁応を主幹として、 真宗大学移転開校の式が行われる運びとなった。(pp.104)

吉田本から

先の学事の経験にこりていた彼は、着手前に確約をとる必要があったのである。
第一条では教学を宗政の本拠である京都から引離そうとしたことであり、第三条も同様に教学の独立をはかったものである。 三条件を呑んだ宗務当局は、三十二年十月下旬の議制会にかけて東京移転を決定した。
 三十三年一月太田祐慶・千原円空・松原秀雄・東文輔・清沢満之・吉田賢龍・月見覚了が真宗大学建築掛に任命された。 総工費五万七千百円〔14億2千7百50万円〕で大倉組によって三十三年七月着工され、三十四年九月落成した。このころ満之は 先述したような家庭問題や、妻やす子の看護、彼自身の病躯等で苦しいことばかりが続いた。三十三年六月十二日の日記に、 「後零時半発、医院に立寄り、浅草別院に赴き、真宗大学建築工事請負入札の席に列す」等と、病躯とたたかいながら 活躍していることを示している。満之は月見と共に主となって建築の諸事務に当り、三十四年十月十三日移転開校式をあげた。(pp.138) 

 移転開校時の学生数は175名である。この175名の一年間の教育に掛かる費用が二万五千円〔6億2千500万円〕で、 学生一人当たりにすると〔約357万円〕である。この額が当時の高等教育機関としてどれだけのレベルにあったのか 分からないが、不足の無い額を周到に計算して、宗務当局に条件として要求したものと思われる。また、現在のような 国からの私学への補助金制度はなかったと考えられるので、この費用は全額宗門が負担したと思われる。

 清沢が学監(学長)となった真宗大学の教育方針は次のような理想主義的なものだった。

吉田本から

宗門革新運動の過程を通じて、宗門の封建制や宗学の偏狭性を体験した彼は、宗門大学の持つ暗い伝統から宗学を解放して、 普遍的な近代性にたえ得る真宗教学を教授し得る場としての大学を建設しようとしたのであった。
東京に移転した真宗大学は、 従来の宗門大学の学科課程と著しく異なり、研究院五年・本科三年・予科三年の仕組であった。
本科は宗乗しゆうじよう科・華厳けごん科・天台てんだい科・性相しようそう 科の四科にわかれた。各科は宗乗・余乗・哲学の三つが柱で、これに外国語が附随している。本科を四つにわけたことは、 宗乗である親鷺教学を全仏教学体系の中で位置づけしようとしたものであろうし、哲学の重視は、真宗教学を世界的な 普遍性にたえうるものとすることを意図したものであろう。この学科の配列の中にも、彼の仏教学体系の具現化がみえる。(pp.140)

脇本本から

またある時は、この大学に寄せる抱負をこう語ったこともあった。

 この大学は世界第一の仏教大学たらしめざるべからず。他日欧米より仏教を
 学ばんがために日本に留学するものあらば、必ず先づ真宗大学に来るべし。
 されど、第一に留学に来るものは、印度、暹羅シヤム、安南諸国の
 人にして、欧米の諸士漸ようやく之に次がん。今や欧米に於いて、
 黒人勃興の元気、漸く進昂し来りしと言へば、白人の衰退も亦た将に遠からざる可し。
 白人の次に起るものは、東洋の黄色人種なり。支那、日本、文明の隆運に向ふ時、
 わが大学は仏教中心の大学たるべきなり。

明治三十年代の日本の空気を反映しながら、世界を相手にして真宗大学の位置を考えようとする、まことに遠大の 期待であった。
 学監として満之が学生に希望するところも、自然この線に沿うものであった。たとえば、学生が卒業後の就職の心配を するなどということは、満之の立場からみると、もってのほかのことであった。大学を文部省の認可学校にすると、 卒業生には教員免状が与えられる。卒業生の社会的進路を安全にするために、この措置をとった方がよい、 といった話の出たことがあった。すると満之は、声をはげましてこう述べたという。

 それは以もっての外のことである。真宗大学の学生は、其の学校の性質上、
 純粋の宗教的方面にのみ向ふべきものである。又、是非ともさうなければ
 ならぬものである。それ故、強ひて純粋の宗教的方面以外に
 進路を開くなどは、誤れるの甚だしきもの、たとへ左様さよう
 道路ありとも、之は是非閉ぢてしまはねばならぬ。

純粋すぎるほどに徹底した満之の態度であった。この満之にとっては、教員免状をほしがるような学生気質が、 憂いの種であった。

 余が真宗大学の前途に就いて憂ふる一事は、学生に遠大の志望乏しきこと是なり。
 徒いたずらに成功を急ぎ、漸く卒業の期に達せんとすれば、早くも
 パン問題に奔馳ほんちす。是れ修養の足らざるに依ると難も、
 一ひとつは亦た遠大の志なきが故なり。(pp.105)

 現代の大学と学生・親の状況からすれば、ほとんど理解不能なほど高邁な方針だろう。私自身若い時から 「パン問題に奔馳」した生活を送り、親となっても子に対して「パン問題」と教育が同じであるような方針で臨み、 ようやく54歳の今にしてその間違いに気付き、清沢の文章に頭が上がらずにいる。
 しかし、清沢の方針は当時の学生達にとっても中々受け入れがたいことだったろう。その不満は次のような形となって 現れ、清沢は大学を去ることになる。

脇本本から

 学監清沢満之の理想主義的な教育方針をうけて、実際に大学を一手に切りまわしていったのは、主幹関根仁応であった。 かれは、さきの革新運動の当時、真宗大学研究科の在学生として、学生たちの先頭に立って活躍した一人であった。 真宗大学の新発足にあたっては、主幹の任に就いて満之の懐剃刀とも評されるほどであった。そうした主幹のいわば 全権的な活動は、教職員の一部に不快を買うことにもなった。
 他方学生たちの間には、教員免許状の問題をめぐって、大学運営の実際面に対する不満があった。そのうえ、新学年度に なって、大学研究院の学生のなかから多田鼎かなえら五名を選んで予科の教師に登用したのも、学生たちには 気にいらなかった。昨日までは友達だったような若造ではなく、もっと知名の大家を教授に招聘しようへいしろ というわけである。学生たちのこうした不満や要求が、教職員の不平分子とも結びあって、結局は関根主幹排斥運動として 燃えあがったのである。
 関根仁応は、十月二十一日、辞表を提出した。満之は、続いて翌二十二日、辞表を出した。暁烏敏の記録するところに よると、

 関根君を止すのなら己おれも止める、関根君のした事は、皆自分のした事だから。

 これが満之の辞職理由であった。学生たちにとっては、満之の学監辞職はまったく思いもよらぬところであった。 その間の事情を、当時予科の学生だった加藤智学は、つぎのように回想している。

 先生(満之)に対しては皆な頭下げてる。先生の徳望と云ふものは非常に立派な
 ものです。先生は悉ことごとく手を合せて拝んでる程です。だから先生に
 対しかれこれ云ふものは一人も居らん。先生は先生だが、関根さんがやらんもんだから
 いかんのだと、関根さんをせめた。……ソンナコンナで先生は……関根君がさう云ふ風に
 云はれると云ふのは、私の精神主義が学生に良く届かんのだからと云つて辞職になつた。
 ……さうなつたら学生は困つた。研究科の学生の中には泣く者もをつた。清沢先生が
 お辞めになつたと云うて泣いてをる。それから本科の学生でも清沢先生が辞めなさつたと
 云うたら皆な呆然として一種の悲しみを感じて、これはやり損そこなつたと
 云ふ思ひを持つたもんだ。

 学生たちは、あわてて百二十名連署の請願書を提出して、満之の学監留任のための運動を試みた。しかし、 もはや無駄であった。満之の心は動かなかった。(pp.107)

 そして清沢は学監辞任の約半年後、死去した。

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清沢満之をめぐる経済について


1 清沢は葬式をしたか

2 清沢の伝記

3 経済状況を知りたい

4 東本願寺育英教校時代

5 東大大学院・一高嘱託教授・哲学館教授時代

6 京都府尋常中学校校長〜禁欲生活時代

7 結核発病〜教界時言社時代

8 真宗大学の移転建設

9 明治20年代の宗門の財政状況
9.1 現代の状況
9.2 当時の状況と現代との比較
9.3 負債返却後の財政運営

10 人口の変化と宗門の権勢

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