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清沢満之をめぐる経済について
6 京都府尋常中学校校長〜禁欲生活時代
明治21(1888)年(26歳)〜明治27(1894)年(32歳)
吉田本から
京都府立尋常中学校長としては百円を給せられていたから、二十二年頃は立派な邸宅に住み、人力車で学校に通い、 生活もかなり派手だったらしい。しかし二十三年突然生活を一変して制欲主義を実行しはじめた。(pp.83)
本山本から
満之は、『日出新聞』が選出した京都の哲学者三傑の一人にも選ばれたほどですし、月給は京都府知事よりも高額でした。 宏壮な家に住み、迎えの人力車に乗って学校に通い、オーダーメイドの服を毎日着替え、山高帽をかぶりステッキ片手に 西洋たばこをくゆらせていました。まさに今をときめく文学士然とした贅沢な暮らしぶりでした。(pp.18)
校長としての月給百円〔250万円〕は、京都府知事より多いというのであるから、まあこんなものだろうか。しかし、
明治23年7月に校長を辞め、禁欲生活に入る。金銭感覚も次のように変わる。
脇本本から
日常の生活のさりげない心くばりのうちにも、以前の文学士ぶりとはまたおのずからに異なるものがあったとみえる。 いわば無意識のうちに、小さなところににじみ出たその対照を、村上専精はつぎのように捉えている。 (前に引いた四九頁の文章の続きである。)
後、私が小島町の大谷教校の校長をしてゐた時に、清沢氏が所要の為、訪問
せられて、一月一円五十銭〔37,500円〕の賄まかないの中食をされた。
いくらあげませうと云はれるから、いや銭ぜになぞはいりませんと申せば、仮令たとえ
三銭〔750円〕でも五銭〔1,250円〕でも、ただは食べられぬと云はれて遂に
銭をおいて行かれた。先には五円の金に対して、まあそれ位でいいでせうと
云はれた人が、僅わずかに三銭の銭についてこのやうに物堅く云はるるやうに
なられた。氏はこの時、着物は白衣の外はつけず、布の衣をきて、御菜は二品
とは喰べないといふ、禁欲主義を実行してゐられたのであつた。
このあたりの豹変ぶりに違和感がないのが、さすが清沢と言うべきか。