真宗大谷派 西照寺

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『純正哲学』意訳


本論 第一章 実在論〔存在論 ─語ることそのことを語ること─〕

第一節 事物の実在

[12] 何を以って実在とするか
 実在とは真実に存在することを指す語で、「事物の実在」とは、多くの事物が真実に存在する、 とはそもそもどういうことであるかを議論研究することをいう。
 この問題は、一見単純で特に頭を悩ます必要など無いように見えるが、哲学の理論において捉えようとしたときは、 決してそうでないことがわかる。
 事物の存在の真であるか否かは、哲学史最古の時代からの問題である。

 通常、人は五官で感知できるものが真実に存在するとみなし、感知できないものを真実でない存在とみなす。しかし、 五官で感知するものでも実物が存在しないことがある。例えば鏡に映った像、水に映った月などである。 これらは〔眼で〕感知できても実体であるとはいえない。よって古来、現象と実物の区別がある。
 また実体と認めたものでもそれを分析していくと実体たるべき形が曖昧となり、有るとは言えなくなるものがある。 また実体と認めていたものを分割すると別のものになる場合もある。このように結合によって成り立つものは 単一独立ではない。これにより単一と複雑との区別が出てくる。
 栄枯するもの、盛衰するもの、生滅起伏するものあり。これにより変化と不変との区別が出てくる。

 このように観察されてきた歴史の中で、実在物とは我々がそれを認知するか否かに関係なく単一にして 不変なるものであるとする思想に至った。
 しかしこの三つの性質〔五官の認知に関せず、単一、不変の三つ。〕は「あるべき実在物」の特徴を 列挙したものに過ぎず、実在の内容、すなわち実在が何であるのかを明らかにはしていない。それだけでなく、 この三つの特徴は次のような〔それぞれ別種な〕ものにもあてはまってしまうのである。
 我々の認知に関しないものは様々な「真理」について言える。
 単一なるものは五官の個々の感覚について言える。
 不変・不動は思想界における常識である。
とすれば、「あるべき実在物」の実在する所以は、この三つの特徴の他に求めなければならない。 それが最も肝要なものとなろう。

[13] 感覚を実在の根拠とできるか
 これに次のように答える者がいる。
 思想によって実在物が何であるかを探求しても、到底知ることはできないだろう。なぜなら思想と実在物とは 性質が異なるからである。本当の実在物とは我々が接触して知りうるものである。すなわち感覚は実在物の真であることを 知らせるものである、と。
 実にその通りである。我々が物体を調べようとするときは、常に感覚に訴える。たとえ、 そのものがあるという論理証明の正確なことを理解しても、また、そのものがあると言っている 他人が決して自分を欺かないことを固く信じる場合でも、なお、そのものを直接見聞きするとき、 始めて疑心を散ずる、というのは我々の常識である。
 そうだとすれば、感覚は我々を欺くことがない、とは言えないが、欺かない場合は実在を知るための唯一の 手段となろうか。しかし、感覚が果して実物の真性を知らせてくれるかどうかは更に検討しなければならない。

[14] 感覚を実在の根拠とする説の限界
 感覚は極めて単純なものと言えるが、これを分析すれば能感・所感の二つに分けられる。
実際にはこの二者は常に一体不離でそれぞれを識別することはできない。しかし、思想においては二者の識別は可能である。
 青、黄、赤、白等の感覚では、これらの感覚を生ずる時、我々の精神作用〔すなわち感受の仕方 〕は、 どんな場合でも一定の結果を出す。〔つまり、青を見て、ある時は青ある時は黄といった異なる結果を出すことはない。〕 これが能感である。
 外からの刺激としての青、黄、赤、白の四個はそれぞれ異なる。これが所感である。
 この所感は、我々を離れて独立自存するものと言える。ということは、実在なるものが外物に属するとすれば、 この所感の中に存在せざるをえない。
 すなわち、所感の中には青、黄等の場合のようにそれぞれ異なるものと、〔「我々を離れて独立自存する」という 〕 不変の性質ともいうべきものとがなければならない。何故なら「〔独立自存する〕実在」は青、 黄等の何れにも属すべきだからである。
 換言すれば所感の中に、変異の元素と共通の元素がなければならない、ということである。
 しかし、能感・所感が相互に合して一感覚を形成するに当って、所感の変異の元素というのは能感を喚起して青、 黄等を認めさせるものに過ぎない。
 よって、青、黄等の感覚においての共通の元素は能感を喚起するということの外にはあるべくもない。すなわち、 能感を喚起する、ということの外に所感に共通する元素は感覚中には存在しえない。
 ということになると、感覚によって「あるべき諸物の実在」を知ることができるという説は、無効に帰せざるをえない。 〔すなわち、知ろうとするものそのもの(能感)を離れて、独立自存する知られるもの(所感)を認めるということが 不可能になるからである。〕 もし、真に感覚によって知り得る実在があるとすれば、それは「能感を喚起する事実」 にあると断言せざるをえない。

[15] 「通常の見解〔語ること〕」の検討
 このように事物の実在は感覚によって知りうるとすると、その実在は所感が能感を引き起こすことにあると 言わざるをえない。
 換言すれば、所感の物体は能感の境遇となり得るという一事に諸物の実在はあるということである。そうだとすれば、 能感の無い所に事物の実在は無いということになる。何故なら能感を離れて〔所感の実在なる〕境遇は無いからである。 〔事実上唯識の唯心の境地に立っている。〕
 しかし、このような捉え方は通常一般的の見解と大きく趣を異にする。
通常の見解でも感覚が実在を知る唯一の方法であるとする。そこから、一感覚の与えるところがその物の真性を尽し、 一物の実在とは感覚以上のものではない、という誤謬に陥る場合がある。しかし、諸物の実在は我々の知識の中に あるのではなく独立自存する、ということを、この見解も疑わない。

(a)すなわち、諸物は我々がそれを知ると否とに関わらず、実存するというのである。

 これは非常にはっきりした説で疑いをはさむ余地は無いように見える。しかし注意深くこの見解を検討すると、 そうとも言えなくなる。
 思うに「物が実に存在する」ということは、それが我々の心に現れるから言えるのである。 「実に存在する」ということは我々の心に現れるということに過ぎないとも言える。
 それでは(a)の「我々の心に現れることなくして物の実に存在する」とはどういう意味を言っているのか?
 これに答える。
一人の心に現れなくても、他人の心に現れるということである。例で示す。
 ここに一室があって数人が会合し相談しているとする。その中の一人が室内を去っても他人は依然として室内で 談論している。その室内を去った者の心には室内の事物は現れないわけであるが、室内にいる他人には依然として 事物が現れているということである。

 この説明は一理なしとは言わないが、未だ完全ではない。
我々の心にも他人の心にも現れない場合はどうなるのか?
宇宙において精神というものが全て滅却すればどうなるのか?
〔独立自存を認めるとこの疑問まで必ず行き着く。〕
といった難問をこの説は免れることができない。

 通常の見解はこれに答える。
そのような時に至っても、事物は相互に関係しつつ世界に行き渡り遷りゆくことは、我々がそれらを見聞し知覚した時と 同じで、それと異なることはない。

[16] 「通常の見解で事物の関係を語ること」の弱点の指摘
 これに反論する者がいる。
事物の実在はそれらの相互の関係にあるといっても、「関係」なるものは、我々の思想に依っているので、 それを実とも不実とも判断しうる。
 ということは、「関係」は単に我々の思想内にだけあるものと言わざるをえない。だから 「事物の実在は相互の関係にある」という主張は現実の関係ではないということになる。

[17] 弱点を指摘する立場の混乱について
 それでは「常に思想中にのみある関係」はどのようにして「現実の関係」に転化するのだろうか?
この疑問はとうてい哲学が解釈しうる問題ではない。これを解釈しようとすれば常に自己矛盾に陥る。
 思想中の関係が現実の関係に転化するという説明を求める者は、現実がどのようにして虚無から生起するかを 尋ねる者である。
 すなわち我々に「万物が生起する原因を示せ」と迫っているのである。
 しかし、万物の生起については、哲学の範囲外の事である。それを求めるのは、 眼無くして物を見ようとするようなもので、決して為し得ない。
 哲学は万物が既に実存しているところに起り、実存する万物の説明を与えようとするものにすぎない。 〔すなわち、「実存」という未知の意味内容を、探求しつつ部分的に明らかにしていく学問である。〕

 生起と説明とは決して混同してはいけない。

通常の見解において「生起の疑問」を解釈しようとしないことは、当を得たものと言うべきである。

[18] 「通常の見解」とその弱点を指摘する立場双方の限界
 しかし、通常の見解が関係の何たるかを明瞭に示し得ているかということになると、 哲学はそれは決してできないということを主張する。
 これを詳しく説明しよう。
先ず、関係と我々の思想とは相互に順応するものである、ということを言おう。この意味は
 1 事物の関係は我々の思想の変化に随って変現する。〔事物間に「関係がある」と認めるのは
  あくまでも我々の思想であるから。〕
 2 我々の思想は事物の関係に順じて変化する。〔事物間に認められた関係によって我々の思
  想は決定的な影響を受ける、あるいは事物間に認められた関係の集合によってのみ我々の思
  想は形成されるから。〕
この二様にあるということである。
ここで二様にあるのではなく、1か2の何れか一方のみが成り立つとするとどうなるかを検討しよう。

 1のみが成り立つとした場合。
すなわち、事物の関係は完全に我々の思想の変化に随って変化する、とした場合、 事物の実在は我々の精神の外に独立自存するとは言えなくなる。 〔事物の関係は我々の思想でどうにでもできるものとなる。〕

 2のみが成り立つとした場合。〔これが実は「通常の見解」に当てはまるのだが〕
すなわち、我々の思想は完全に事物の関係に随って変化する、とした場合、事物の実在は我々の精神の外に その基礎を有すると言わなければならない。
すなわち関係は実物と実物との間に実存し、我々の思想はただこれを発見しうるのみである。
 そうだとすれば、関係を離れて事物が実在することなく、事物を離れて関係の独立自存することがない。 それだけでなく、一物の実在は他物の実在を必要とし、一物の行動は他物の行動と離すことはできない。
 更にこの考えを徹底すると一物の実在は万物の実在であり、一物の行動は万物の行動であると 言わなければならなくなる。

[19] 「独立自存する純正実在」の浮上
 事物の実在は、このように無数の関係が互いに聯合・組織して成立するもので、決して分離するべきものではない。 しかし、この組織を分析する場合は、次のように考えざるをえない。

 事物は個々独立して自存し、諸関係の中心点として存在する。それらの事物が先ず在って、 その後にそれらの事物の間に現実の関係が成立する、と。

このような、関係を離れても在りうる独立自存の実在は「純正〔純粋?〕実在」と言われるもので、 哲学・思想界の一大問題である。これを「純正」と名付ける所以は、関係を雑えた経錬的実在と区別するためである。
〔「あるべき実在」を求めた結果「独立自存する純正実在」に到るのは、ある面必然と言えるだろう。これは「語ること」 そのことの限界あるいは欠陥に根ざしていると言える。〕

[20] 純正実在の陥穽
 純正実在は古来から哲学上の重要問題となり、常に学者の考究を促したものである。 その学者の論拠をここで批評することが必要である。そうすれば、我々の探求に有用な結果を得られるだろうから。

 事物の実在はそれらの相互の関係にある、ということになれば、この関係があるものを実在とし、 無在あるいは虚無と判別可能である。
 ここで、事物の実在の思想から関係の思想を除くと、この判別が不可能になる。
 つまり、何れの場所にも無く、如何なる行動も起こさず、何れの時にも無く、如何なる影響も受けることなく、 静でなく、動でなく、一言で言えば毫も関係を持たないものは、正に無物・無在と同一である。 実在と言うべき根拠が無い。〔これが純正実在ということになってしまう。〕

 これに反論する者がいる。
純正実在は、はじめに事物があって、その後に関係を除いたもので「無関係」をその属性とする。
無物・無在は「無関係」という属性を持たないものであるから、純正実在はそれらとは大きく異なる、と。

 しかし、このような言い方は、我々が関係が満ちわたっている世界に住んでいるからこそできるだけのことで、 その事情を離れて、言葉の定義のみで純正実在を求めれば、無物・無在との区別は不可能となる。

〔この部分、清沢の言い回しは微妙である。 その理由を考える。
今、私は机の上の紙に万年筆でこの文章を書いている。このとき、「机がある」「紙がある」「万年筆がある」 「私がある」ということは如何なることか。列挙したものの中には二種の因果「関係」論 (自然法則的因果と人間学的因果)が含まれていると言えるが、ここではその別を特に考慮せず、 「机がある」という例で「机の純正実在」を求めてみる。
 純正実在は他物との関係と特殊性の剥奪によって顕れるべきものであるから、そのように考えてみる。

1 他物との関係の削除
 (1)「私」を削除。
 (2)「紙」を削除。
 (3)「万年筆」を削除。
 A.以上で「机」単体が残る。

2 「机」の特殊性の削除
 (1)材料及びその出自(欅材を使っている。この欅の由来は云々)の削除。
 (2)加工手段(ある家具業者に特注した云々)の削除。
 (3)所有者(私)の購入動機の削除。
 B.以上で「机」の特殊性が削除されて「机の一般性あるいは普遍性」が残る。既に眼に見
     え触れられる机ではなく「机の概念(イデアに近い)」である。我々の心の中にのみあると
  言える。

3 時間・空間の特殊性の削除
 「ある」ということは、特定の時間(あるとき)、特定の空間(あるところ)に「ある」ということだ
 から、その特定の時間・空間を削除する。
 C.そうすると、どんな時にも無く、どんな場所にも無く、ただ概念としてのみの「机」が「ある」
  ことになる。これが純正実在と言いうるか。

そして、この「机の純正実在」にそれまで削除してきた特殊性、関係性を付加していけば、「今、現にある机」が 出来上がるというわけである。
 しかし、そもそもこの論法は正しいと言えるのか。(我々は日常この操作を行っているが。)
「机の純正実在」の導出はあくまでこの「私」が行ったものである。すなわち1で削除されてしまったものが 作り出したのである。つまり、「無から有を作った」と言ってもよい。矛盾でありその正否を判定できない。 その意味で根拠とするわけにはいかず、妄想との区別もつかない。
 清沢が「幾分ノ意義ヲ有スルカ如シ」と少し持って回った言い方をするのは、この判定不能の限界を意識しているから であろう。そしてその限界に注意し、純正実在を求める手続を厳格に適用していけば、それは無物・無在と判別できない ところに必ず行き着いてしまう。しかしまた人間はこの概念を持たなければ「机」について考えることも意思疎通する こともできない。そして、この矛盾の解消を次段以降で行っている。〕

[21] 純正実在を分相応の位置に収める
 更に別の説を立てる者がいる。
純正実在は「実在」の範疇の概念であるから、それとは異質の無物・無在と一緒に扱うべきではない。 純正実在と共に扱うべきは経錬〔経験〕実在である。この二つは共に実在であるが、関係を保存するものを 経錬的とし関係を除いたものを純正とするにすぎない。
 つまり、実在と無在との判別は既に終わらせ、その確定した実在の範疇の中で、純正と経錬との論理上の判別を設け、 思想の順序を示したものにすぎない。この意図を考えないで、無物・無在などの不当な概念を出して純正実在を責めるのは 筋が違う、と。

 この意見は誠に純正実在の意味の正解を指摘したものと言えるか。
前段で排撃した目的は、純正実在が独立自存するかのような主張を反駁することにあった。これが純正実在は 思想上の便宜的な判別のために設けたもので、現実のものと混同するものではないということであれば排撃する 必要はなく、かえって賛同するものである。
 今、この賛同の意味を例を挙げて説明する。
物体が空間中で運動する場合を考える。このとき物体は必ず一定の速力〔以下、原文では「速度」と言っているものを 「速力」と訳す。〕・方向を有する。
 我々はこの運動を理解しようとする場合、内容によって運動の中心点に着目したり、方向に着目したり、 速力に着目したりする。そしてそれらの着目点について別々に思考することは、正しく抽象化していることで、 少しも間違いではない。またこれらの抽象化された概念を元に、更に一層の抽象化を行うことも間違いではない。
 しかし、これらの抽象によって得られた概念がそのまま実体に応用されるべきものではない。
  方向も無く速力も無い運動は実在ではない。
  速力、運動を離れた方向は実在ではない。
  運動、方向を離れた速力は実在ではない。
そして、通常の説話で運動、方向、速力等を個別に挙げるのは、他を略してその点に注意を集中するためである。
  実の運動には常に一定の方向と速力が伴い、
  実の速力には常に一定の方向と運動が伴い、
  実の方向には常に一定の速力と運動が伴う。
 純正実在もまたこれらと同様の抽象概念にして、現実としては個別特殊の実在にあるのみで、これらと離れている ものではない。

[22] 独立自存の論破
 純正実在は思想上の抽象で、現実に存在するものとは諸般の関係の中に於いてある、ということを大略証明した。

 ここで「純正実在の独立自存が初めにある」という考えに未だに執着している者がいるかもしれないので、 その不毛を証明しよう。
 先ず、「純正実在の独立自存」を仮定する。
 そして、この純正実在が如何にして諸般の関係と結合して経錬実在を生ずるに至るか、を考える。
 経錬実在は、個別特殊の関係を有するものである。
 ある経錬実在Aはαという関係を有し、別の経錬実在Bはβという関係を有す、と表せる。これは換言すれば、
 経錬実在Aは純正実在とαの関係で結合し、
 経錬実在Bは純正実在とβの関係で結合する、と言える。
とすれば、純正実在は、ある時はαの関係と結合し、ある時はβの関係と結合するものである。
 そして、α、β等の個別の関係と結合するには、必ずそれぞれの特殊な理由がなければならない。しかし、 純正実在は定義により、これらの特別な理由を有するものではない。特別な理由を有するものは既に経錬実在で あるからである。
 以上をまとめると次のようになる。
  1 純正実在が独立自存であるとすると、それは恒久に独立自存するのみで、経錬実在になる
   ことは決して無い。
  2 経錬実在として有るものは、他の経錬実在からしか生起しない。
そうなると、「独立自存する純正実在」というものは、宇宙万化の説明に全く役に立たないものと言わざるをえない。
 万化の説明に役に立たないものは哲学が必要とするものではない。

 以上から「事物の実在」の意味が明らかになった。
 ・事物の実在とはそれぞれの個別の関係において成り立つものである。

我々はこの実在を思考する場合、論理上の分解を行わなければならないので〔そうしないと思考できない〕、 実在を諸般の関係と純正実在に分けるのである。
 そして、この操作は思考の便宜のためでありそれ以上の意味は無い、と断言する。
 

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更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
序言

緒論

本論 第一章 実在論

第一節 事物の実在
.[12]何を以って実在とするか
.[13]感覚を実在の根拠とできるか
.[14]感覚を実在の根拠とする説の限界
.[15]「通常の見解〔語ること〕」の検討
.[16]「通常の見解で事物の関係を語ること」の弱点の指摘
.[17]弱点を指摘する立場の混乱について
.[18]「通常の見解」とその弱点を指摘する立場双方の限界
.[19]「独立自存する純正実在」の浮上
.[20]純正実在の陥穽
.[21]純正実在を分相応の位置に収める
.[22]独立自存の論破

第二節 事物の性質

第三節 実有及び実体

第四節 変転二化

第五節 物理的動作の性質

第六節 万物一体

終結
-----意訳終了-----

原文

pdf版(印刷用)

 (C)西照寺 2007年来