真宗大谷派 西照寺

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『純正哲学』意訳


第四節 変転二化

[41] 万物動転の解明
 凡百の事物の中で、統紀あって乱れざる理法の行きわたるものが、すなわち事物の実体であることが前節の 結論であった。そして、理法が行きわたるとは、万物が動転する中において規律があることを言うのである。
 とすれば、我々がここで議論するべきことは、この動転が何であるかを追求することである。
変化・転化の二化はこの動転に名付けられた言葉である。通常、変化とは一物がその形相を変えて現れるものを言い、 転化とは一物が消滅して他物となって現出することを言う。

[42] 実体の継続と断絶
 既に述べたように、変化とは一物がその形相を改変して現れるものを言う。そして通常の見解は一物の上に 形相と体性を判別して、形相のみが変じて体性は変ぜずと思考する。しかし我々は前に変化を論じて、 通常の見解が誤謬であることを指摘した。したがって事物の変化の中にあっては、実体は不断に継続するとは 説き得ないことを知った。これについて更に一例を挙げる。
 卵が変化して雛鳥となる例である。
卵が卵として実である間は、雛鳥は実存しない。既に雛鳥が実現したときは卵はもはや実在しない。 つまり新体が実になるときは旧体は実であることを排除されて、両者は相容れないものである。
 換言すれば、一実体が消滅して他の実体が出現するものである。この動きは純然たる転化と言わざるをえない。
 因みに注意すると、転化は実事・実物界の特性であって、思想界の特性ではない、ということが要点である。
 思想界にあっては、一つの思念より他の思念を生ずるということを説いても、その両思念が共に成り立ち 並存することが可能である。例えば「人類は社会を作る動物である」という思念から 「故に人類は政治法律を必要とする」との思念を生ずる場合である。「社会を作る動物である」思念と 「政治法律を必要とする」との二思念は共立・並存する。
 しかし実物界の中では卵から雛鳥を生ずる場合は、卵と雛鳥が両立しないことは前述の通りである。

[43]  転化とは実在と無在との一致である
 さて、この転化とはその実はどのようなものであろうか。その段階を分解しても、更に他の転化に帰せざるを得ない。 強いてこれを解釈すれば「転化とは実在と無在との一致である」と言い得るが、そうすると、今度は「一致」 とは何かを説明しなければならない。この場合の一致とは、二つの事が合わさるという意味ではなく、 一事物から他事物へ転移するという意味である、と言わざるをえない。
 つまり、転化の要点とは、解釈中にまた解釈を要求するということを包含しているところにあるのである。
 思うに転化の何たるかを構想することは我々のなしうることではない。我々は転化の実際を観察して、 その深相を理解するべきのみ、である。

[44]  均同の理法の適用の仕方を誤るべからず
 しかし、この立場に次のように反論する者がいる。
 事物が実に存在するというのは、均同の理法(均同の理法とは論理学上の一大理法で、各事物はそれぞれの自性を 維持して相違無いことを述べる)〔同一律。(現代的に言えばアイデンティティーの保持ということになろう。 R.H.Lotzeと清沢満之 pp.75)〕に依るのである。いやしくも実存する事物は少しも自性を改変することはない。 したがって万物に転化があるとする考えは、誤謬である。
 一応これにも弁駁しなければなかろう。
そもそも均同の理法は事物の変・不変に関するものではない。事物の不変であるときはもちろん、 事物が変化するときにあっても、均同の理法は少しも破綻することはない。卵と雛鳥の例で言えば、 卵は卵である間──すなわち卵の実存する間──は自性を保持して相違無い。雛鳥は雛鳥である間、 すなわち実存する間は自性を保持して相違無い。

[45] 事物の変転は無秩序ではないこと
 そうであるならば、事物の変転はその外形の変移のみでなくその体性にも徹頭するもので、 不動凝然たる同一本体というものがあってそれが変移するもの─ではない、と言わなければならない。
 そしてここに我々の注意すべき陥穽がある。
事物の変化において不動の骨髄が無いということになれば、その動転は無秩序に起伏して大混乱になって しまうのではないか、という疑念である。
 しかし決してそういうことにはならない。以前にしばしば述べたように、宇宙内の全ての変化には整然たる秩序があり、 画然たる区分領域がある。そしてこれが転化の詳しい解明を必要とする所以でもある。

[46] アリストテレスの「動転」解釈
 アリストテレスは万物の動転を解釈して顕在(現存)〔現実態 energeia〕と隠在(伏存)〔潜勢態 dynamis〕 の二者で表した。
すなわち、ある物が顕れるということは他物を生起するべき性能を具えているということであり、 すなわちここに他物が隠在しているということになる。
 例えば、Aの顕在はBの隠在にして、Cの顕在はDの隠在である。故にAはBに転ずるが、Dに転ずることはできない。 CはDに転ずるがBに転ずることはできない。
 これを逆に考えれば、Bの顕在はかつてAが顕在したことを証明し、Dの顕在はかつてCが顕在したことを証明する、 ということになる。
 これは転化に限界があるということの説明になっており、また、一物が存在するということは、 その物に然るべき自由がある〔つまりBがあるということはAに束縛された結果だが、C、Dとは無関係である。 すなわちBはC、Dからは自由である。〕ことの証明になっており、また同時に他物が現出するべき理由を表している。
 これがアリストテレスが顕隠二在を説く理由である。しかしこの説は未だ完全ではない。 思うに我々は次の二種の事柄を究明しなければ、この説を活用することができない。
 1 各々の顕在にはどのような隠在が具わるのか。
 2 諸般の隠在を顕在にするきっかけはどのようなものか。
この二件のうち1は二千百年後の今日でも釈然とした明解は得られていない。
2についてはアリストテレス自身が既に例を出している。
 すなわち、木・石材が顕在しているとき、家屋は隠在である。人体が顕在しているとき、霊魂は隠在である。 木石が具する隠在を顕在に転ずるきっかけは人による工作である。人体が具する隠在を顕在にするきっかけは 人体そのものである。
 ということは、隠在が顕在に転移することは、外部から来る刺激によることと、内部から起る啓発との二様あると 知るべきである。
 第一様は後段に回し、はじめに第二様を考究する。

[47] 隠在の顕在への転移(内起・啓発)
 内起・啓発の好例は我々の思想にある。すなわち思想に理由が具われば結果の行為に転ずる 〔どういう状況を指しているのかあいまい。「転行」が結果の行為なのか、思想の推移なのか不明のため このように訳した。〕しかし思想においても、理由はすぐに結果を生ずるには至らない。 もし理由が直に結果を生ずるならば、真理は探究しなくとも自ずから明瞭だろう。
 ということはすなわち、事物動転というものを思想論理の必然性だけで、推測断定すべきではない、 ということになる。まさに「事物はなぜ特定の必然性に順応するか」の考察が必要になる。
 思うに我々の思想上の必然性とは、事物の実体・実性から生じたもので、思想は事物によってこそ起るのである。 事物が思想によって起るのではない。結局、事物の転化とは事物の体性から起るものと認めざるをえない。 そうであるなら、我々はこれについて明解を得ることができなくとも、事物の体性はその後体(=結果)を引起す、 と認めざるをえない。このように論を運べば、万有変化の説明も得られるに至る。

[48] 内起・啓発の動転は変化とも転化とも違う
 事物の動転の中で内起・啓発に属するものは以上の如くであるとすれば、これは「変化」とも「転化」 とも名付けることができない。
 何故なら、変化は体性は継続するが、その実、前物が消却しなければ、後物は実在することを得ない というものだからである。
 転化は前物が滅して後物が新しく出現することだが、その実、前物が全て滅して、後物が全く新しく 出現するのではない。「前物の前物たる意味は後物を生ずるにある」ということを以って、二者の間に 一条の継続を有するからである。

[49] 隠在の顕在への転移(外来の刺激)
 内起・啓発の動転は以上のように説明した〔といえるのか、「変化とも転化とも違う」という定義の 仕方で少々ぼやけている。〕が、実存の諸物中に純然たる啓発はほとんど無い。たいていは外来の刺激によって 動転するものである。以下、これを要点として事物相互が統制・影響する様子を観察する。
 ある物Aが他物Bの刺激によって変化する時、AはBあるがために一定の変化を起す。C、D等がある場合はまた 別な変化を呈する。
 とすれば、AはBがある時は、ある状態を取り、またBが無い時や他の物がある時は別の状態を取ると言わざるを得ない。
 換言すれば、BのためにAが変化する時はAはBの存在を覚知しうると言える。
 更に換言すれば、一物が他物の刺激によって動転するときは、一物は他物あることを認知するということになる。
 とすれば、この認知はどうして可能か? 次の様に言う他は無い。
「一物に自動的啓発の性があるからである。」
そうすると、一物が外来の刺激によって変化する、という時でも、それは内起・啓発の時と同様の動転を行っている と知るべきである。

[50] 転変化そのものが宇宙万化の説明である
 以上、論じてきたところをまとめる。
事物の変化は、同一体性なるものがあって事物の諸相を貫通して継続するところにある、と言うことはできない。 すなわち、一事物の前後の相異なる状態は、同一物の形相であると言ってはならない。
 我々はむしろ、転化そのものが宇宙万化の説明に近いのである、と受け取り、その転化は無秩序に 起滅するのではなく、一定の限度内で整然とした秩序を追って動転することを忘れるべきでない。
 また転化の二種については、
内起啓発については、前体の顕在は後体の隠在を具すと言えるが、隠在がどのようにして顕在に至るかは、 これは隠在の隠在たる性質に由ると言う外に知ることは不可能である。
また外来の刺激による転化については、一物Aが他物Bの存在を覚知すると言えるが、どのようにして覚知するか、 ということについては、ただ、そうでないことはありえないからである、と言うしかない。

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更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
序言

緒論

本論 第一章 実在論

第一節 事物の実在

第二節 事物の性質

第三節 実有及び実体

第四節 変転二化
.[41]万物動転の解明
.[42]実体の継続と断絶
.[43]転化とは実在と無在との一致である
.[44]均同の理法の適用の仕方を誤るべからず
.[45]事物の変転は無秩序ではないこと
.[46]アリストテレスの「動転」解釈
.[47]隠在の顕在への転移(内起・啓発)
.[48]内起・啓発の動転は変化とも転化とも違う
.[49]隠在の顕在への転移(外来の刺激)
.[50]転変化そのものが宇宙万化の説明である

第五節 物理的動作の性質

第六節 万物一体

終結
-----意訳終了-----

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