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『純正哲学』意訳
第三節 実有及び実体
[32] 事物の本体はその変化の定規・定則にあり
変化の説明を求めて事物の本体を尋ね、単一不変の性質にそれがあるという説を取り上げて、
これを考察したが誤りであることが明らかとなった。
よって我々は他の方向に転じて、事物の本体が何であるかを求めなければならなくなった。
通常の事物について何であるかを問えば、二種の応答がありうる。
1 人工の製作物 必ずその目的を持つから、目的がその事物の意味であるとすれば足りる。
また目的を達するためにその事物が持つ様々な形様は省略可能である。
2 天然の事物 その目的を知ることは困難なものが多い。この場合、その事物が自ら或いは
周囲の状況に応じて引き起こす現象の種類と順序を列挙して、事物の意味となす。
要するにこの二種の場合は、その進達の性質と形状──天然の物は目的性が弱いか強いか、
人工の物はその天然物を素材としての上に目的がある──によって、天然物の本体を顕す。
〔この部分原文の文意がはっきりしないが、類推する。〕
これに反する説明法として次のようなものもある。
事物を構成する諸元素列挙して、その本体とする。そして諸元素の結合から起る事物の動作等は問題にしない。
しかし、この方法は複雑な事物を解約して単一な元素を求める場合は有効だが、もし単一なる事物、
すなわち諸元素のひとつを説明しようとする場合は全く用をなさなくなる。
例えば「水銀とは何か」と問うたとき、我々はこれを解剖して他の元素に帰せしめることは不可能である。
そうして、どう答えるかというと、次のように水銀の動作についての説明となってしまう。
通常の温度では流動体であり、極低温では固体となり、高温では蒸気となるもの、と。
さてそうなると、事物の本体とは一種の言説不可能な一体で、ある事情ではAとなり、
〔そこから〕他の事情ではBとなり、さらに〔そこから〕他の事情ではCとなるものであると言わざるをえない。
そしてこのような説明を下すときにこの三種の事情〔文脈の取り方で、この段落前半の事物の説明の仕方を指すとするか、
A、B、Cの例示を指すとするか、どちらにも取りうるがここでは後者と解釈する。〕が逆に起る場合、
CよりBとなりBよりAとなる。決してD、E、Fと展転して拡大変化していくことは無い、ということを予定している。
ということは、我々が事実の本体・本性として追求しているところのものは、その変化の定規・定則あることを指す、
と言わなければならない。
そしてその変化は、自発的だろうと他の誘引で引き起こされるものだろうと、常に一定の範囲内にあるもので、
決して漫然と無秩序に起るものではない。
[33] 事物の本体は論理的な概念にある
事物の本体はその変化の定規・定則にあり、と言うことであれば、我々はこれが知覚しうる物体ではなく
論理的な概念にある、と言わざるをえない。
そうだとすれば、事物の何であるかを説明しようとするときは、単に現前の諸性質を審査するばかりでなく、
現前の諸性質はどのような既往の性質から起り、また将来どのような性質を発おこすかを考査する必要がある。
そして、このことについて、論理が止むを得ず前面に出てきたことではあるが、実際の場合にあっては、
事物の現前の性質だけでも考査し尽すことは、我々に為しうることではない。況やその前後の関係を尽すなど
到底不可能である。
我々は目下の研究の行程において、常にこの立場を基本としつつ、さらに進んで事物の真の底を探り、
その無限の相続の間において、百般の事情と千差の他物との終極の目的とに関係して、一事物の変化の形状と
発生とを解明すべきことを知る。
[34] 純粋単一な実体への願望
事物の本体の完全な概念を得ることは実に困難である。しかし、もし一旦これを得ればその物の変化する百般の形状は
全て本体の性質より生ずることを知るに到る。
しかしこれに尚、次のように異を唱える者がある。
たとえそのような完全な概念を得るに到っても、それは事物の本体を完全に想像し得たに過ぎない。
未だその物の実体には達してはいない。
すなわち、我々は思想内において事物の本体はこれこれである、と知り尽し得たとしても、
この思想を実物界中に位置付けることはできない。とすれば、このような観念は依拠すべき実体・実質ではない。
よって我々は次のように結論する。
純粋単一な一種の実体がある。此処ここの物に限らず、彼処かしこの物に関わらず、宇宙内の万物をして、
全て同じく実有ならしめる本真の一体が必ず無ければならない、と。
〔ここではじめて「実有」という語が説明なしで出てきている。おそらくこの講義では「実体」の定義がその概念を
探りながら二転三転する哲学の歴史をトレースしている面があるため、そのような概念操作に辟易した者の期待を
「実有」で表しているのだろう。〕
[35] 純粋単一な実体の論破
このような単純実体の説は哲学史をひもとく者の常に遭遇するところで、同類の説は非常に多い。
しかし今はそれらの一々を論評する暇は無い。ここでは、それらの全てが取るに足りないものであることを証明しよう。
思うにこの説は、日常の実験の事物の中に現れるものを取って、形而上・純正哲学上の問題に応用したものと言える。
その的外れなことは論を待たない。
言うまでも無いことだが、我々が日常に具体的に接触する色々な「もの」は、我々の技術と製作意図に応じて、
さまざまな姿・形を持つ、また天地の中で育つさまざまなものを見る。
このとき我々はしばしば、未だ形を成さない物質から定形の品物を生ずる、という風に思考するが、
これはひとつの謬見というべきである。
この場合、その最初の原料といえる物質は比較的には未定形と言えるが、純粋な未定形のものではない。
木材と机の例で考えてみよう。木材は机と比較すると定形を有する割合は少ないといえる。しかし、
木材が全く未定形なのではない。
ここから分かるように、新しい物として形を得る物において、材料となるものは、その確定した性質として定形を有し、
そのことによって周囲の事情に応じて働きうるのである。
あの古来からしばしば引用される蝋ろうの例のように〔この詳細が不明。〕その印象を持ちうるのは、
その体が一種の固有の性質があるからである。
とすれば、事物の実体を自ら一定の性質無くして単に他の性質を受持すべき元体ととらえ、それに達しようと試みる者は、
大いに惑える者と言わざるをえない。
なぜなら、実体が無性質なものとしてみよう。そのものはAという事情に影響される理由無く、
またBという事情には影響を受けてCという事情には影響を受けないといった場合の理由も見出すことはできないことになる。
すなわち、無性質の実体は一定の状態αを得るということが不可能である。またαの状態のみを得て、
他の状態βを得ないという理由の説明も不可能である。
そうして、宇宙内の万有に一定の規律法則がある理由は、実体が彼の形状受けても此の形状を受けない
というところにあるからである。〔原文最後の文意が曖昧なためこのように訳した。〕
[36] 実体と性質の分離の無理なること
以上から事物の実体とは、その物別に一体ありとは言えなくなる。〔何故なら机の実体として机個別のものが
あるとすれば、机が木材から作られたと言えなくなるからである。すなわち、木材には木材の実体があり、
机はその木材の実体を引き継がなければならなくなるから、机固有の実体はありえないことになる。〕
一体ありと言えなければ、「実体」なるものは我々の思想内にあるものと、実有界にあるものとを判別する徴しるしであり、
諸般の性質というのは、我々が単に思想するというところに止まらず実に存在するものである、という外にない。
〔何故なら「性質」は「実体」を形容するものであるから、その「実体」が無く、しかし「性質」が認められると
いうことになれば性質が実に存在すると言わざるを得なくなるから。〕
しかし、このように認め判断することは我々の思想のみがよくなしうることで、それ自体を一個の物体である
とするのは明らかに誤っている。
いわんや、諸般の性質については我々の思想から出たものだから、独立に存在しうるものではないと見なし、
思想上の認定を経て真に個別の実物なるを得る、と主張するに於いてをや。
そして、実体の説を立てる者は以上述べた問題点を考慮もせずに、諸物というものを、実有ならしめる原理と、
実体そのものという二つに鑑別しようとしているのである。
よって事物が形を変化させるのを見て、始まりの内容から変化後の内容に移ったという認識だけでなく、変移の前、
変移の後の二つの形に亘って存続し、二形を外形と為し、二形が前後に相続する理由は、
その性質より起こるべきであるという──実体がある、とするのである。
しかしこのような思考における実体は、全く純一未形の実体と言うべきものではなく、反対にそれと矛盾するものと
言わざるを得ないのである。
〔この判断の根拠がはっきりとは述べられていないが、具体的な個物についてその物別の純粋単一の実体という
言い方は矛盾した概念の混乱である、ということを念頭においているのだろう。〕
[37] 「規律」の意味合いに注意のこと
以上から、我々は純粋実体の説はひとつの謬見であると言わざるをえない。ここで、
我々が以前に発した問題を考えてみよう。
・我々は「事物」なるものがある、と仮定してその事物である理由を研究しようとした。
・そして事物の事物である理由は、それが変化することであるとした。
・したがって我々の究明すべき問題は「事物の変化する根本はどのようなところにあるか」という問
と同等となった。この問に一個の実体を立てることによって解答を出すことはできない。
要するに我々は、事物が変化するということにより、それが実有であることを知る者なのである。
よって「実有」とは事物を形容する言葉・思想であるだけで、それに体があるというものではないのである。
我々がまさに研究すべきは、実有の形状─すなわち、事物の変化の規律を求めるところにある。
〔ここで問いを立てる〕
事物の実有なる形状──すなわち変化の規律を以って、事物が事物である理由だと言うのであれば、
そもそもどうして我々はこのような規律を認め、それを実有であるとするに至ったのか。
およそ規律というものは一定の事情より、一定の結果を生ずるものを言うのではないか。
しかし今問題にしているような規律は、常に全般の事実に就いて言っているわけで、
それが行われる個々の場合・数多の事情の一々の価値は、今問題となっている規律の中にはない。
たとえあったとしてもそれは「そうであるだろう」という考えのみであり、その事実が存在するのではない。
とすれば、どのように考えるとしても我々はこれを「実有の事物である」と認めることはできない。
〔答える〕
この疑義の内容は、我々が通常、思考するところの規律の性質である。しかし今問題にしている
「事物そのものである規律」は、そのような意味のものではない。
この規律は「数多の場合を含蓄し、それらに通じる規則」というものではなく、
「数多の個々の場合での規律に対応するあるもの」を指すのである。
〔この捉え方は「縁起は法である」という言い方・立場とほとんど同等と思われる。〕
すなわち、我々の要点は個々の規律に通じる規律ではなく、個々の規律に関するものにある。
これをもう少し詳しく説明する。
[38] 変化を引き起こす根源
事物の実体というものが真にあるとすれば、あのロウのように一種の定性を具えなければならない。
もし、何一つ定性ということが無く、ただ諸々の個物の性質を受納するだけだとすれば、
それがなぜAの性質を受納しBの性質を排除するかの理由を説明できない。
したがって宇宙内部の変化に整然とした秩序が存在することを説明できない。故にこのような実体は
全く価値が無いものと言わざるをえない。とすれば、実体なるものは全く無いのか?
答える。
単独・孤立・未形・無住の実体は無い。しかし、宇宙のそもそものはじめから、確定しているものとして、
個別の形・性質と一体となって離れない「実体」はある。
すなわちこれは我々が事物と認め、実であると受け入れたときに知られるものである。これは一物が変異する場合に、
変化前の形と性質とを棄てて、変化後の形と性質とを取るときの、その変化の基盤となるもので、実に変化を引き起こす
根源となるものである。
[39] 実体を例証しようとする場合の概念の混乱
この立場から見るとき、単独孤立の実体という思想は、哲学界の中で古来の一大謬説であると見なさざるをえない。
さらにこの謬説の誤りをはっきりさせるために一例を引く。
ある色素がある。これは無色(あるいは白)の元素と結合するときは一定の色を出す。器に入った水に若干量の
紅粉を投ずると水が赤くなるような場合である。これが実体が諸性に付着して、これらを実有ならしめる例となしうるか?
答える。否である。色素が水を染めるということは、外観に過ぎない。その内状を検査すれば、
水分子は決して変色しておらず、また色素は元々の体を変化させて水分子に付着したものでもない。
水分子は依然として水分子でその色を有し、色素は依然として色素であり、その元々の体を失ってはいない。
しかし、この例で説明しようとする実体の説は、諸性と実体が相依って唯一体を成し、諸性はこれによってはじめて
実有となるもので、例との意味合いが全く異なる。
換言すれば色素と水分子は二者並立共存の物体で、実体と諸性があたかも主伴の関係がある、というべきものとは異なる。
[40] 理法を独立実存するものとしてはならない
事物の実体というものを一種の独立したものとする考えは、以上の数段の内容で、論破するに至った。
転じて事物の真の状況を考察すると、事物が実有である所以は実体と称する一物があるためではない、ということを知る。
実有とは事物存在を我々が認知したときに、その形状を述べる言葉に過ぎない。すなわち事物が変化し満ちている
世界において整然とした規律がある。それは首尾一貫して統紀を乱さざるもので、これを実有と名付ける。
強いてこれを実体と名付けるとすれば「実体とは事物変化の理法である」と言わざるをえない。
しかし、一般に理法と称するものは、数多の事例についてそれらに一貫する規則を指す、というのが通常の意味である。
そして「事物の実体は理法である」と言ってしまうと、またこの「理法」について通常の意味と同内容を想像してしまう。
しかし、理法というものは、必ず諸現象に一貫する規則を表さなければならないというものでもない。
一つの個別例について理法と言っても間違いではない。「人は死ぬものである」という理法は人類全般に
通じることであるが、また個別例で「私は死ぬものである」と言っても、人は死ぬものであるという理法の
要点をいささかも損ずるものではない。
この例に限らず、通常説かれる一般に通じる理法は、先に個々の事例があって後に生ずるものであり、
個々の事例の前にあるものではない。また理法とは個々の事例において「真に」存するのみであり、
その外に存するものではない。よって、今ここで事物の実体を理法と言うのは、個々特殊の理法を指すと考えてほしい。
換言すれば、真に存在するものは個々特殊の理法であり、一般に通じる理法は結局のところ我々の思想上のもの、
すなわち実存しないものである。
ところが古来の大家にあってもしばしばこの点を誤り、一般に通じる理法を独立実存するものと見なしたのみならず、
個々特殊の事物は一般に通じる理法の摸像に過ぎないと言う者があった。
理想論〔観念論?〕、実体論〔唯物論?〕の分かれ目はこの点にある。
読者はこの節の内容を追跡考究すれば、理想は実体を離れてはありえず、ひとえに実体の中にゆきわたり
活動するものであることを知るであろう。
思うに我々は、実体が何であるかを推測・研究しようとすれば、事物の存在と運動を調べて、その適当で
錯乱の混じらないところに、理法が行われていることを発見しないわけにはいかないのである。