真宗大谷派 西照寺

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『純正哲学』意訳


第二節 事物の性質

[23] 事物と関係の究明順序
 前節で、事物の実在とは諸般の関係というものを確定するところにある、ということを明らかにした。 ここで我々は更に進んで
 1 関係とはどのようものであるか。
 2 この関係の属すべき事物とは何であるか。
〔事物とは何であるかをここで問題にすると、第一節の反復に陥りかねないのだが、一、二節での事物の扱いは 次のように視点が異なるというべきだろう。
第一節:純正実在の誤謬を抉り出したものといえる。
第二節;あくまで関係と事物の相関の視点から事物を改めて考える。〕
を究明しなければならない。
 この二つの問題はとても分離できるものではないのだが、とりあえず順番としては2を初めに検討し 次に1に当ろうと思う。
 ところで2についても
 2−1 全ての事物について、その何であるかを究明する立場。
 2−2 個々の事物について、その何であるかを究明する立場。
があるが、実在論は2−1を立場とする。そしてそれを問題にしていくと必然的に2−2に話題が及ぶことになる。

[24] 「事物=本体+性質」というとらえ方について
 2-1の研究を開始するに際しては、やはり感覚を依り所とせざるをえない。先に言及したように、 我々は事物を知ろうとして、その行為を起こすとき、その手段は先ず感覚にしか依れないからである。
 ところで「通常の見解」では事物と感覚は次のように捉えられる。
 ・我々は感覚によって諸々の事物のあることを知り、事物に諸般の性質があることを知る。
これに対する別の捉え方として
 ・事物の事物たる所以は知覚しうる性質のみにある。
というものがあるが、これは通常の見解の捉え方ではない。通常の見解はここまでは考えていない。

 「甘い」「赤い」「重い」は、通常の見解では事物の性質で事物そのものではない、ということになる。
 「甘い」「赤い」「重い」を除いて他に事物の本体などは無い、という考え方は通常の見解より 高尚な思想が発見したものである。
〔この一文があるため、後の議論がとちらを向くのか曖昧な面がある。〕
 したがって「事物は性質を有する」という言い方は、通常の見解でのものであり、その意味は 「事物にはそれぞれに本体というべきものがあって、諸般の性質はその本体に付属するものである」 ということである。
 この見解は、性質と見られるものが状況によって変化することから正当なものと見なされるようになった。
 例えば、或るものの性質としての色が青であるとき、この青が変化して赤になり、青黒くなり、 更に種々の色になったりするものがあるからである。このとき、これらの色は変化する性質で、 それらの変化を通して一定であるものを事物の本体とする、という考え方である。
 本体は諸変化の中で不変のもので、かつ諸変化を結合してそれらの中心となるべきものである、という。しかし、 このような本体に関する分析は、本体の外容を示しただけで、まだ内容を示すに到っていない。
 しかし、実在論が求める所となれば、それは事物の本体の内容の解明であり、その本体が変化する性質を どのようにして生じさせるかの説明でなければならない。
〔通常の見解を認めた上で、それを実在論(存在論)に適用する場合の方針ということになろうか。〕

[25] 本体は性質と類似であること(ヘルバルト説)
 感覚は我々が直接に実在の正確であることを知る唯一の方法である。感覚が我々に与えるものは 事物の性質の知識に止まって、決して本体の知識ではないが、それによって我々は事物に本体があることを推測しうる。 そして、推測するところの本体とは何かを考えるとき、感覚と類似の作用によって知り得るとし、 本体は感覚において生ずるものと類似であるとする。こう考えるのは止むを得ざることである。
 これがヘルバルト(Johan Fredrich Herbart 1776-1841)の説である。

 思うに万物の本体は単一不動にして恒久不変であるとは、古来から学者が常に主張してきたことであるが、 その主張に於いて本体の外容を記すに止まらず、内容にまで踏み込んで説明したことは無かった。内容については、 その主張を受け取る者の想像に任せてしまっていたのである。
 しかしヘルバルトはその内容を断定して充全単一の性質である、と言った。我々の感覚に依っては本体の内容を 知るのは不可能だが、我々より一層優れた生霊〔精神?〕には直接に覚知できる、と主張したことは、 哲学に益するところ少なからざるものがある。
 しかしヘルバルトは、この充全単一の性質を人類の知識の外のものとした故に、我々は我々より優等な一種の 生霊を想像し、その生霊が我々の感覚に類似し、かつ感覚を遥かに超える能力を有すると仮定し、 その能力によって我々が色・形等の性質を知るように、充全単一の性質を直覚しうるだろうと推測した。 そして当然ながら推測に止まらざるを得なかった。

 以上を換言すれば、事物の本体・本性は形、色等と同類であろうと推測したところまでは行ったが、 それが限界であったということである。

[26] 本体についての通常の見解の固執
 しかし、この説を次のように批難する者がある。
たとえ、単一であろうがなかろうが、可知だろうが不可知だろうが、性質と言う以上は必ずそれが従属する 主体が無ければならない。
 「甘い」「温い」「円い」「白い」は独立自存するものでは無いのだから。
〔反論ではあるが、論破したはずの独立自存がまた出てくるのは議論の蒸し返しではないかという疑いが浮かぶ。 しかし、前節での独立自存の論破は、経錬実在と純正実在についてのものであった。ここではそれと別範疇の 本体と性質についての問題であるから、改めて議論しているというべきか。 〕
甘いは蜜に、温いは泉に、円いは月に、白いは雪に属す。蜜、泉、月、雪という主体無くして、甘、温、円、 白の性質があることは無い。とすれば、充全単一の性質もその属すべき主体が無ければならない。

 これに答える。
この批難は一理あるように見えるが、ヘルバルトの説を論破するには至らない。
 思うにヘルバルトが説を立てた動機は、事物の本体・本性というものの内容を説明しようとしたところにある。 若し、この説明が正解であるとするなら、もはや事物の体性を尽したことになる。
 ところが、この説に対して「性質と言っているのだから、主体がなければならない」という批難を加えれば、 我々はまたしてもその主体の内容の何であるかを究明しなければならなくなる。これでは事物の本体の上に なお別の本体を求めることになってしまう。これに対して次のように言おう。
 性質という言辞は通常の見解では、独立自存できないものに用いるが、ここでのヘルバルトの「充全単一の性質」は、 既に独立自存すべき領域内に踏み込んで説いている。その特別な場合を指して「性質」という語を転用したにすぎない。
 もし、この使用法を外れて「充全単一の性質」を通常の見解での言辞の用法でとらえ、 遥遠な到達出来得ないものとして扱い〔生命の神秘とかいった言い草などか〕、主体がこれを採取するとき真の実物を 生ずるに到る、などと考えることになる。
 こうなると我々はその遥遠な性質がどのようにして主体に従属するようになるかを究明しなければならなくなる。 しかし、これを究明することは万物創生の事業を説明しようとするもので、哲学が為しうるものではない。
 以上、要するに「充全単一の性質が事物の本体・本性である」ということは、既に完成して現にある実物について 説を立てるもので、万物創生の事業を説明しようとするものではない、ということである。

[27] 「単一なる性質」の問題(ヘルバルト説の欠陥)
 しかし、我々はヘルバルトの説を完全と認めるわけにはいかない。何故か? それは他でもない「充全単一」 という概念に問題があるからである。
 我々の哲学の目的は、宇宙の万化を説明しようというものである。我々が事物の本体・本性を求めるのも、 万有に変化があり、変化に規律があるからである。
 つまり、万化に亘って不動なるものを事物の本体・本性とし、個々の事変に転遷し無住なるものを事物の形様とする。 よって、事物の本体を説明しうる者は、事物が形様を具有する理由を解説しなければならない。 しかしこれは「単一なる性質」が出来ることではない。これを証明しよう。

 先ず「複雑な事物」の変化を観察しよう。この変化については次の三つのパターンを考えるべきである。

 1 a, b, cの元素の結合(a+b+c)は変化しない。これに
  dの元素が加わり(a+b+c+d)となるときAとなり
  eの元素が加わり(a+b+c+e)となるときBとなる。

 2  a, b, cの元素の結合のパターンによって異なる場合
  (a+b+c)のときCとなり
  (c+a+b)のときDとなる。

 3  a, b, cの元素それぞれの増減によってEともなりFともなる。

これらの場合でa, b, cの元素は常に本体となる。そして1,2,3のそれぞれの場合によって、 複雑物に種々の形様が生ずることは容易に判る。
 すなわち、複雑物の場合は、それらの変異の形様と諸形様を貫通する本体とを解説することは決して 困難なことではない。
 ところが、単一なる性質に到達してしまうと、我々はもはやこのような分解の方法を用いて変化を説明することは 不可能となる。
 仮に単一なるものA´がB´に変化するとしよう。
それはA´が分解不可能〔すなわち解説不可能〕のままB´に変わるとしか言いようの無い事態である。 すなわちA´、B´の間には全く共通の元素が無いのだから、旧いA´が消滅して新しいB´が生起するとしか言いようが無い。
 しかし、旧いものが消滅して新しいものが生起するということは、それぞれ全く独立した働きで、互いに無関係である。 何故なら旧いA´が消滅した後に起る新しいものはB´である必然は無く、 C´でもD´でもE´でも間違いであるとは言えないからである。
 とすれば、新旧の二者は一本体の変化ではなく、二本体の出没がたまたま続いたものと言わざるをえなくなる。
 すなわち、単一なる性質というものは万物の変化を説明するに用を為さず、かえって万物の変化を否定するものと 言わざるをえない。

[28] 「単一なる性質」の擁護
 しかし、この結論に反論する者がいる。
前段で言うところは、単一なる性質が変化するということは、その変化の様々な形様それぞれを独立の本体と 見做さざるをえない、ということであった。従って、様々な形様に共通する元素が欠乏しているということで、 真正の変化でないことを示している。
 しかし、これは未だ皮相の見解であることを免れない。
「単一なる性質A´が分解不可能のままB´に変わる」と言うのは誤りである。
感覚の実例で示そう。
 或るものが純粋な赤色から別の純粋な黄色に変化する場合、我々はただ全く異なる二色を感ずるのみである。 しかし、これを詳細に検討すれば、この二色の間に共通する元素があることを知る。「色」という事実がそれである。
 思うに「色」という元素は赤と黄を離れて別にあるのではない。また赤より黄に移るものでもない。しかし、 赤と黄との感覚中に感得しなければ「色」という抽象的思想は決して生じない。
 単一なる性質の変化中に旧物が滅して新物が生じるとき、その滅・生の間に新旧二者に共通の本体が必ずあることは 疑うべからざることである。我々がこれを思想すること不可能なのは、なお赤・黄の感覚の外に単に「色」の感覚を 得ることが不可能なようなものである。
〔この反論はヘルバルト説の残滓というべきか。〕

[29] 注意事項:変化には一定の規律がある
 この説が間違いであることは容易に指摘できる。しかし、それをする前に注意しておくことがある。
 この論者の挙げた例によれば、赤・黄の感覚の中に色という共通の一事がある。しかしこの共通の事情は、 その範囲に区切りが無いわけではない。
 換言すると、我々は赤・黄等の感覚中には共通する「色」という事情を得るが、赤と黄の感覚の間にはもはや このような共通の事情を得ることができない。とすれば「色」という共通の事情は一定の区域内に往来するものと 言わざるをえない。このことは感覚ばかりでなく、事物万般の変化に亘って言えることである。

 すなわち、事物が変化する場合は必ず一定の範囲内で変化するわけで、際限無く、区切り無く変化することは無い。 「事物の変化に一定の規律がある」ということはこの範囲と限界があることを指摘するものである。
 これが、変化を論ずる場合の要点である。ここでは色の例に即してこの要点を述べた。

[30] 「単一なる性質」の擁護の論破
 さて、事物の変化と感覚の変化ははたして同類のものか?「色」が赤・黄に共通するということを例証として、 単一性質が変化に共通する元素であるという主張は、何が間違っているのか。
 他でもない、赤・黄等の変化は精神作用の移動であって、その例で説明しようとした変化は実物中の変化である。
 赤は常に赤、黄は常に黄であるが我々の精神は初めに赤に向い、次に黄に向った。これが論者の提出した変化である。
 しかし、我々が説明を求めたものは〔精神作用の変化ではなく〕実物のAがBに移り、BよりCに移るという場合の ことであり、AがあるときはB、Cはなく、BがあるときはA、Cあることなく、注目する時点ではA、B、C、D等のうちの ただ一つが存在するような変化であった。この違いは同時貫通、異時貫通という言葉で表せる。
 色の赤、黄等に通ずることは同一時にある。
 本体のA、B等に通ずることは時が前後に異ならなければありえないことを言う。
したがって、赤・黄等の感覚に貫通する「色」という元素がある、ということを以って、実物の変化中の本体を 例証しようとすることは明らかに的が外れているということである。

[31] 本体とは規律のある変化である
 単一なる性質の変化ということの説明は不可能であることを、おおむね明らかにした。
 然れば「事物の本体」とは、どのように考えたら良いのだろうか。この解釈は、もはや読者の予想しうる所だろう。 しかし、解釈に移る前に、一個の重要な問題を究明しておこう。
 ヘルバルトは事物の本体を探求し、単一なる性質とし、単一なる性質にはそれぞれ自己保存の作用があって、 少しも変転することが無いとした。
 換言すれば、事物の本体である元素は変化することは無く、ただ諸元素の結合のパターンによって万種の変化を 現出するに到るという。
 これが正にヘルバルトが科学界に声価を博した理由である。この説は理化学──すなわち現象世界のみを対象とし、 その根底を探らない学問──にあっては、不都合は無いと言える。
 しかし現象なるものはそもそもどのようにして生起するのか、を探求する哲学にあっては、大いに不都合である。 ヘルバルト自身も自ら展開した心理学では別の説を示した。そしてその心理学の説くところは、正に先に我々が求めた所と 一致して、自身の前説を排撃するに到った。

 思うに、現象世界の変化極まりないことは、動かすべからざる事実である。そしてこのような変化については、 事物の本体が変化しようがしまいが、既に現象があるのだから、その説明をしなければならない。
 説明しようとすればその時、我々は精神(霊魂と言っても良い)の本体は、正に現象が由って生ずべき主体で あることを知る。己の精神ではない他の事物の本体の自己保存の作用を知ることは、我々には不可能である。 しかし、精神の自己保存作用は我々自らが実験するところで、少しも疑うべきものではない。
 そして、その自己保存作用の最も単純なものが、個別の感覚である。その感覚は我々自身が熟知するように、 種類は非常に多く、外来の万差の刺激に応じて一々その様を異にするといってよい。 エーテルの振動〔この時代であるからこのまま引く。〕という刺激は色感覚を生じ、空気の振動という刺激は音感覚を生じ、 その他香気の感覚、温度の感覚、柔軟の感覚等全て精神の自己保存の作用に他ならない。
 そしてこれらの異なった自己保存作用は、精神の本体が不変だとしたら、生起しうるようなものではない。 外来の刺激の性質と形状とに応じて、精神の性質と形状も異なる。かつそれは外来の衝動に対しての精神の 反動といえるもののみから成っている。
 したがって、精神の本体とは、一個の可変的実在と言うべきもので、異なる刺激に対して異なる性質を有すると 言わざるをえない。これを形式化して説明すると次のようになる。

 aの刺激にはAの自己保存作用がある。bの刺激にはBの自己保存作用がある。
 とすれば、A、B同時存在の時にあっては、精神の本体はA、B何れとも異なる感動と性質を有する、と言わざるをえない。

そうであれば、万物の本体というものは我々が直じかに知覚することは不可能であるが、 これまでの検討に基いて直覚しえたことから推測して次のように断言する。
 万物の本体は精神と同じく変化するもので、ヘルバルトの説のような不変不動の元素ではない、と。

 そうだとすると、万有の変化の中で常一不変なるものは何一つ無いのか?
そうではない。万物の本体は変化するが、その属性は一定で変異あることは無い。
 すなわち、万物の本体から顕れるそれぞれの自己保存作用は、一定不動で変転は無い。
これを形式化すると次のようになる。

 aの刺激に対応する自己保存作用は常に必ずAで、B、Cになることは決して無い。
 bの刺激に対応する自己保存作用は常に必ずBで、A、Cになることは決して無い。

故に万物は、あるいは此の属性を取り、あるいは彼の属性を取ってその本体は変化が絶えないものであるが、 一定の刺激に対応して常に必ず一定の自己保存作用があり、その属性は決して変転することが無い、というものである。

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『純正哲学』意訳

更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
序言

緒論

本論 第一章 実在論

第一節 事物の実在

第二節 事物の性質
.[23]事物と関係の究明順序
.[24]「事物=本体+性質」というとらえ方について
.[25]本体は性質と類似であること(ヘルバルト説)
.[26]本体についての通常の見解の固執
.[27]「単一なる性質」の問題(ヘルバルト説の欠陥)
.[28]「単一なる性質」の擁護
.[29]注意事項:変化には一定の規律がある
.[30]「単一なる性質」の擁護の論破
.[31]本体とは規律のある変化である

第三節 実有及び実体

第四節 変転二化

第五節 物理的動作の性質

第六節 万物一体

終結
-----意訳終了-----

原文

pdf版(印刷用)

 (C)西照寺 2007年来