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『純正哲学』意訳
第六節 万物一体
[59] 万物は一実体の諸部分である
前節の結論から、我々は事物の動作を説明するのに、万象が独立して自己開発する徹底した定道論か、
影響転移で事物に自発的作用があるとする説のどちらかを採用しなければならないことが分った。
そして我々は先に言ったように、感情的には定道論を採ることはできない。よってこれから影響転移説について
更に詳細な推論を行って、説明を満足させようと思う。
我々は前数節の論で、事物が多数であることを常に暗黙の了解事項としておいた。
したがって数多の離散して独立に存在する物体が、どうして相互の関係を有するに至るかを明らかにしようとし、
多くの難問に遭遇した。
今や、この暗黙の了解事項を撤去して、万物一体の説を採り、これについて考察すべき段階に来た。
思うに百般の事物に相互作用があるとすれば、万物は一実体の部分でなければならない。とすれば、
我々の説は多元論を捨てて一元論に帰せざるをえない。とすれば影響転移は変じて一体啓発とならなければならない。
〔啓発については第四節での議論を参照。〕
そもそも影響転移説の難点は、事物の変化においてAがなぜBに影響を及ぼすのかというところにある。ここで、
万物は一実体の諸部分であると仮定すれば、一物の変動は他物に影響しないということはありえないので、
それが何故なのかを問わなければならなくなる。例で考えてみよう。
ここに一個の膨らませた風船があるとする。
その一部を押せば他部が必ず隆起する。これは風船内の空気の一部分に独立の性質があって、ひとりでに凹み、
他部にまた独立の性質があってひとりでに隆起するというものではない。
風船内の空気は皆相依って一団を成す。もし一団を成さず、隔たった場所に散在するようなものであれば、
一方の変化のために他方の変化を生ずるようなことは決して無い。
万物一体の場合常にそれ自体を保持するから、一物の変動は必ず他物に影響を及ぼさざるをえない。
これらを更に詳しく検討する。
風船中の空気の一部が圧搾を受けたために他に生ずる隆起は、一箇所であったり、数箇所であったり、
また圧搾部分を除く全体であったりする。万物一体おける変化の様子も、このことから類推せよ。これを図式で表す。
1 天=A + B + 余
「天」は万物一体、A、Bは二個の物体、「余」は万物からA、Bを除いたものを表す。
+は諸物間に存在する関係、=は同一を表す。
よってこの式は、A、B等の万物はその相状は個別に独立しているように見えるが、
実は万物と一体であるということを表す。
2 天=A´ + B´ + 余
Aが変化してA´となるときBが変化してB´とならなければ、万物一体を保持できない。
故に天の内容はこのように変わる。
3 天=A + B + 遺 + 残
A、Bではない物が変化すれば、必ず他物の変化がある。すなわち2で「余」とした部分が、変化した部分「遺」と
その他の「残」に分れる。
4 天=A + B´ + 補
Aは不変でBだけがB´に変化すれば「余」の中の一物に必ず変化がある。したがって「余」は変化して「補」となる。
例では二物相互の動作によって変化を説明したが、二物に限らず三物、四物乃至無数の諸物間の動作によって
変化があるとすれば、上記のような形式化表現は無数にありうる。
以上から、万物の変化は一体の諸部分が相互関係を有する中に起る、ということになる。
そして一物の変動は常に他物の変動と相応して、一物と他物は相互動作する観を呈する。しかし、
万差の諸物は常に相依って一体を保存し、一体の原性に順じて彼此の変化を生ずるに至る。
[60] 万物一体:有限と無限の合一
我々は万物一体の説を述べた。
しかし、万なるものがどうして一であるのか、一なるものがどうして万であるのか。この問については古来から
議論が甚だしくあった。また一なるものはどうしても一である、万なるものはどうしても万である。
もし万と一とが均しいと言ってしまえば、論理の規則は乱れ破壊されるだろうという反論が当然起る。
そしてこの反論は至極当然と言えよう。
既に哲学の歴史の中で、これらの問題を解決するために「背反の論法」を宣揚する者があった。しかしこの点に関して、
我々の思想では明解にできない部分がある。
それは、以前に転化の解を求めたとき、実在と無在との結合である、と言ったものと同様の論法である。
実在なるものは無在に非ず、無在なるものは実在に非ず、どれだけ考えても「同一の物事に実在と無在を兼具する」
とは、我々の思考にとっては堪えられないことである。しかし、実在と無在との合一がなければ、転化はありえなかった。
これを解決するために時間の思想を導入して、前の瞬間には実在で後の瞬間には無在となり、
前の瞬間に無在のものが後の瞬間には実在になる、これが転化であると言う者があるが、
この説も難点を克服したとは言えない。
我々は一物について実在がどのようにして無在になり、また無在がどのようにして実在となるかを尋ねているのである。
時の前後は我々にとっては取るに足りない話である。実在と無在の転換の瞬間においての明解を我々は求めているのだ。
〔アビダルマの時間論などはこの文で一蹴か。〕
この難点は解釈し得なかった。そして我々は矛盾を承知の上で、「実在と無在との合一」と表して思考しえぬものを
置くことにした。
そして、今また同様の状況である。万と一とは到底合一しない。強いて解釈すれば、一とは無限の上においての
言い方であり、万は有限の上においての言い方である。
有限と無限を合し「万物一体」と命名する、ということである。
[61] 関係:事物の相互動作
隔離し独立である諸物を論じて一体であると決定したのであるが、さらにもう一つ考察・決定しなければならない
問題がある。
事物の関係とは何であるか、ということである。
我々はこれまで「事物の実在は相互の関係にある」と言ってきたが、その関係がどのようなものであるかを未だ
考察していない。
事物というものを各々独立の別体であるとすれば「関係」とは事物と事物との中間に存在して両者の聯絡を
するものとなろう。そうであれば「関係」は実体が在ることになるのか。もし実体があるとすれば、
事物の実体と同時に存在するのか。そうではなく、はじめに事物があって、その後に「関係」が出現してくるのか。
また既に「関係」が存在するとき「関係」そのものと事物とはどのような「関係」を持つのか。
これらの諸問題の研究を避けることはできない。
しかし今、万物を一体に帰し、一体の諸部分をもって万物とした。ここに於いて「関係」に実体があれば、
必ず事物と同時に存在すべきことを知る。なぜなら、一体があるのに、その後に生ずるとすれば一体の内に入る
理屈はなく、また一体の外にあるものは一体を破るからである。
そして事物と同時に存在し、一体の外に無しということになれば、関係は事物と事物との間にあるということは
できなくなる。よって、各事物の内部にある、と言わざるをえなくなる。
各事物の内部にあって、かつ事物と事物との関係である、とはそもそも何を言っているのか。
それは、事物の相互動作である。
すなわち、事物の実在は万物一体の事物と事物が相互動作するところにある、と我々は断定するものである。