真宗大谷派 西照寺

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『純正哲学』意訳


緒論

[2] 変化・実体の定義
 純正哲学は変化のある実体を研究する。

「変化」とは物事が生滅し、起動し、休止し、出現し、消滅することをいう。
 
「実体」とは宇宙にあるすべてのもの、すなわち万有を指す。
もっと詳しく言えば、実体とは
   無ではなく有である物、
   起らないのではなく起ること、
   存在しないのではなく実存する関係
である。
これらはすべて「実」であって「虚」ではない。

 また実体を次のように解釈する者もいる。
1 実体は現象である。現象は無限に有って雑多この上ないのだから理想(イデア)の恒久・明瞭 であることに劣る。
2 実体は「真の実体」である。その変動は一定の法則にしたがって秩序正しく行われ、またその 活動は無限に多様である。したがってイデアなどという雲を掴むような考えに勝る。

 この二つの実体のとらえ方は古くから哲学の大問題で、手短かに論ずることはできない。 哲学の根底に達しなければ満足に解釈しうるものではない。
 そして、この二説は万有の評価の態度については異なっているが、しかし、変化するものであることは共に認めている。

 変化とは万有を貫いている事実である。
転化衰滅・行動受動・運動開発とは変化を形容する言葉である。
 そして、これらの言葉で言い表される事象が、古くから純正哲学の研究を促してきた。

[3] 哲学の起る理由
 純正哲学は予想〔想定〕と実験事実との矛盾に直面するところから開始する。
思うに諸々の学問は事実とそれに対する説明が明らかでないものがあることから起る。 純正哲学の起源もこれに異なることはない。
 我々が日夜に遭遇する実験事実は、すべてが我々の予想(想定)に合致するというものではない。 事実が予想と矛盾すれば、どうしても消しがたい疑問が湧き起こる。これを解決しようとして色々な学問が起る。 純正哲学もその一つである。
 ところで、我々が懐く予想には三つの種類がある。

(1)我々の本性として、あるいは生まれつきとして備わる予想は、我々が日常の事実として経験す  ることとは関係がない。我々にはもともと物事の真理を知覚する性質が備わっている。したがって この生まれつきの性質を開発すれば、万有の原理を知ることが可能である。
   よってこの説を立てる者は予想と現前の事柄との検証を軽んじる傾向がある。

(2)情緒的な予想が真にして確実な万有の真理である。
   この説は道理(論理)を捨てて信仰に依るというパターンである。
   単純に宗教的感情から万有の原理を説明しようとする者は皆この類である。したがってこの説は
   道理に依ることを放棄しているから、哲学の立場から是非を論ずる必要はない。

(3)実験的予想については、これまでの経験から数多くの法則を発見した。これらの法則こそが万 有の真理原則である。
   近世の自然科学上の成果に基いて万有の原理を究明しようとする者は、大体皆この説に立つ。
   これは少しは正確さの含まれる予想であるが、その基礎となる経験がどのようにして成立する
   かということを究明していない。これがこの説の欠点である。

 以上の三種類の予想は、我々が実際に経験する事実とは一致しない場合がある。これが疑問の起る理由であり、 また哲学の起る理由である。

[4] 二種の懐疑
 疑問の起るについて、予想と事実とが合致しないことから二種類の懐疑が生れる。「不合の懐疑」と 「整合の懐疑」である。ここで言う懐疑とは、万有を説明する原理は得られるべくもない、という主張を意味する。

 学者が日夜汲々として研究にいそしむのは、万有を説明する原理原則を発見しようという目標があるからである。
 しかし、そのような努力に対して、個々の事物の原理・定則は発見できるだろうが、万有の真理・原則に至っては 到底人間の探知できるものではない、と言う者がある。これは部分的な原理・原則の発見を認めている。
 また、万有の真理・原則はもとより、個々の事物の原理・定則についても発見不可能と主張する者がある。 これは、つまりは懐疑を徹底した者である。
 この二種の論者が「不合〔不徹底〕」「整合〔徹底〕」 〔この順番は以下の文脈に合わせるためにあえて逆転させている。〕の懐疑論者である。

 前段([3])で予想と事実とが合致しない場合があることを示し、その中の三種の予想で(2)の情緒的予想は 哲学上是非を論ずる必要のないことを注意した。
 そして残る(1)、(3)の予想からここで言う二種類の「不合の懐疑」と「整合の懐疑」とが生ずるのである。
 予想と事実とを合致させることができなければ、どちらかを取り他方を捨てざるをえない。 とすれば、我々は実験事実を捨てるわけにはいかないのだから、予想を捨てざるをえない。
 しかし、その予想の中でも実験的予想を棄てるわけにはいかない。なぜなら、これらは単なる予想ではなく 実験に基づいて立てられるからである。
 よって懐疑は次のように二種に形を成す。

1 実験に基づく原理は真理と認める。しかし万有の原理などは実験での証明が不可能なの だから知ることはできない。我々が知りうるのは、個々の事物についての実験的定則に 止まる。
 これは、ある程度の原理は知り得るが、全体の原理は知り得ないという者だから、部分的な懐疑論者である。 また、原理を知ることが可能〔個々の事物について。〕と言い、同時に原理を知ることは不可能〔万有について。〕 というのだから、これを「不合の懐疑」と名付ける。

2 生まれつきとして備わる予想については初めから実験を考えていないので、これを捨てても事 実を把握するには何等問題はない──そしてこの考え方がそもそも事実によって原理を求めな いという態度に通ずる〔つまり原理ははじめに予想を立てないと求めえないから。〕ので、それを徹底させてしまうと、 一旦予想を棄ててしまえば、原理を求める必要はなく、また求めることはできない、というところまで行ってしまう。 ここから次のような結論に至る。
 我々は決して原理を求めることはできない。我々に言えるのは、過去に或る事実があった、現 在には或る事実がある、ということのみである。これらの事実に依って原理を求めることは不可能  である、と。
 この論者は原理を知ることの不可能を徹底的に主張するので「整合の懐疑」論者と名付ける。

[5] 蓋然の捉え方(有規聯絡の登場)
 「蓋然〔仮説、可能性〕は有規聯絡の外そとに求むべからず」という命題は実験学者が 十分注意すべき事柄である。
 学者が早朝から深夜まで研究に打ち込むのは、万有に一定の規律があって、物事が聯絡(連繋) していることを感じ取っているからである。もしこのことが無いとすれば、どうして面倒な考究の 苦労をわざわざするだろうか。
 また、この聯絡の認知は、研究の初めに仮定を立てる動機付けに有用なだけである、 その後の観察実験で仮定を証明することこそが、正確さを求める学問として重要なのだという見方もある。 しかし、そもそも仮定とは、既存の事実に現れる一種の関係を総括した言い方にすぎない。
 観察実験が仮定に合致する、という判断が起きることや、仮定から推測して不変の原則を導き出すということは、 全て我々の思想(思いと想像)における出来事である。すなわち万有に一定の規律聯絡があるという思想である。

 この考えに次のように反論する者がある。
観察・実験で有規聯絡の存在を証明をすることはできない。なぜなら、観察実験が仮説に合致することが増えるにつれて、 仮説の確実性〔蓋然の度合い〕が高まっていくからである。(蓋然とは将来も多分そうであろうということで、 既存の事象から将来の事象を推測するのだが、必ずそうなるとは言わず、そうならないだろうという疑いも残すのである。) 〔つまり、仮説の証明には観察実験の結果があればよく、有規聯絡という思想は不要である。〕

 この見解に答える。
そもそも蓋然という考えは、有規聯絡があることを先ず認めないかぎり、決して出てくるものではない。なぜなら、 既存の事実を根拠として将来もこうなるだろうと推測すること(=蓋然)は、すなわち事物の説明を欲しているのである。
 その将来の推測の度合い(蓋然の度)が増進するということは、事物の説明がますます完全に近づくということの 言い換えに過ぎないからである。
 よって「事物の説明」とは、一見隔離し散逸している事物を、統一した一定の規律において把握するということである。
 したがって、万有に一定の規律が無いとすると「事物の説明」そのものが無意味となり、事物の説明が無ければ 「蓋然」という考え方もまた無意味となってしまう。
 言葉を換えて言えば、蓋然とは既存の事実においてAという現象の後にBという現象が続いて起るのを見て、 将来も同様のパターンで起りうるだろうと推測することである。
 これについて、もし事物に一定の規律が無いとしたら、Aが起きた後、〔Bではなく〕C、Dその他の任意の 現象が起きても当然ということになる。
 そうではなく、Aの後にはBが起るということを蓋然〔ありうること〕とし、Aの後にC、D等が起ることは不蓋然 〔ありえないこと〕とするのは、有規聯絡があるということを認めている立場になるのである。

 以上から、蓋然〔ありうべきこと〕、不蓋然〔ありえざること〕の判断は有規聯絡の枠内で追求するべきもので、 その外に求めるべきではない。

[6] 有規聯絡の位置付け
 「万物の要因は不可知(観察実験によっては知りえない)的ではない」という主張がある。前段の結論にこの 主張が合すると、必然的に純正哲学が成立することとなる。

 前段で実験によって知識を得るという行為は、有規聯絡が確実にあるということを認めないかぎり成り立たない ことを示した。

 しかし、実験学者はまた新しい反論を出す。
我々は有規聯絡という一個の仮定を設けなければ、知識を得ることはできないということは認める。 しかし、これは単なる一個の仮定に過ぎない。真実に知識を得るための方法は実験のみである。 実験以外に方法があるとはとても思えない。哲学者という連中は万物の要因(要因とは、無限の現象の本体、 本性というもので実験以外にあるとするものである。)を求めるが、これを得ることは到底できるはずがない。 〔不可知である。〕
 だから、要因を得る目的で「哲学」という学問を立てることは無益である。

 これに答える。
万物の原理原則を推測し研究していけば、一つの不可知的なるものに行き着かないわけにはいかない。
 しかし「要因を知ることは決してできない」という断言に至っては、この主張そのものが矛盾に陥っている。
 なぜなら「要因を知ることができない」という言い方は、既にその「要因」のあることを認めている ということではないか。既に要因のあることを知る。とすれば、なぜ不可知と言えるのか。
 さらにまた、これを「不可知と言う」ことは、要因と我々との間に一定の関係があること、すなわち 「知るべからざる理由」のあることを既に認めているではないか。とすれば、どうして不可知と言えようか。
〔この展開が見事。不可知論者は「語る(ロゴス)こと」の枠内での論であるが、それに対する清沢の論駁は 「「語ること」そのことを語ること(ロゴスをロゴスすること)」のレベルに飛躍して、相手の立場をバッサリ 切り落としている。相手からすれば無茶な言いがかりとしか取れないかもしれないが。 (このあたりは[今村41]参照)。〕
 ましてや君が「単一なる仮定」というところの「有規聯絡」は、たしかに単一の言葉で表されているから、 その意味も単一であると思っているかもしれないが、決してそうではない。
 論理・数理の原則、空間・時間・原因・結果の関係等は、すべて有規聯絡に属する原理・原則と言わなければならない。 これらは全て実験知識を形成する場合に不可欠のものである。
 しかし、これらは決して観察・実験によって得られるものではなく、それらの要因と言わなければならない。 そしてまた、これらの原理・定則はどのようなもので、実験事実とどう関係するのだろうか。 さらに実験以外のものにも通じるのではないだろうか。これらの様々な問題を解釈しなければ、諸学問は確固とした 基礎が何一つ無いものとなろう。
 よって次のように言わざるをえない。
万物の要因を悉く知るということはできないが、だからといって不可知的と言ってはならない。 要因が知り得るものであれば、そのために一学問を設けて、それを研究することは最も重要なことである。

[7] 実験知識と有規聯絡の関係1
 実験知識は純正哲学に基かざるをえない。思うに実験が我々に与える内容というのは、その実験の範囲内で 起る事に限られ、その外に及ぶことはできない。
 すなわち、過去にある現象があった、目前にはある現象がある、ということを教えるだけである。 これらはただ現象を列挙・叙述するだけである。
 しかし、知識の知識たる所以とは、過去と現在の事象から将来の事象を推測し、既知の事実と現在の事実から、 未知の事実を推測することにある。これを未来徹見未知推測〔未来を見徹し、未知を推測する〕という。
 多くの学術があり、実に多岐に亘っているが未来徹見未知推測の外にその働きがあることはない。そしてこの働きは 実験が与えることのできないものである。なぜなら、未知・未来は実験の範囲の外にあるからである。
 それでは何がこの重要な働きを実現しているのだろうか?
 それは先に言及した有規聯絡である。
宇宙の事象に確然不動の規律と聯絡がなければ、過去と現在にどんな不変の事実が存在していたとしても、 我々はそのことから推測して将来もまた、その事実が続くだろうと言うことはできない。
 またこれが無ければ、既知の事実と現在の事実にどのような一致があろうとも、我々はそこから推測して 未知の事実も同じように一致するだろうということができない。
 したがって、実験知識の知識たる所以は万物の変化に確然として不動の規律が備わることによる、 と言わざるをえない。
 すなわち、実験知識の基礎は有規聯絡にあると言わざるをえない。
 よって、有規聯絡は純正哲学の研究領域だから、実験知識は純正哲学に基づくものであると断言せざるをえない。

[8] 実験知識と有規聯絡の関係2
 しかしながら、純正哲学の原理は実験と相依り相助けて正確な知識を生み出すこともまた知るべきである。
 前段では、しばしば実験を排撃したが、この意図は実験のみが知識の本源であるとする誤った見方を 正そうとしただけである。
 近代は実験の趨勢が非常に盛んになって、ほとんど純正哲学を払掃する状況にあるが、しかし前段の結論で実験は 純正哲学に基かなければありえないことを示したので、今度は少し立場を転じて純正哲学の専横は排除しなければならない という点を論ずる。

 純正哲学が実験を無視して誤りに陥る例は実に少なからずある。思うに純正哲学は原理原則を究明するもので、 特殊個別の法規法則を探求することはできない。
 どのようなものが現実に存在し、どのようなものが実際に起るかは、実験の他に確認できる方法は無い。
 そして、真実に有用な知識とは、このような個々の実験の事実を採集し、これらを万有に普く通づる原理原則に照して、 宇宙進化の行程を認知するところにある。
 これを詳しく言えば次のようになる。
純正哲学は理法を与えるのみで、その理法に適応する材料は実験から採集せざるをえない。
 家を建てるという行為でこれを喩える。
設計図は理法で木石は材料である。
設計図がいかに精緻であっても、設計図に住むわけにはいかない。
木石がいかに豊富にあっても、木石に住むわけにはいかない。
そして家の家たる所以は住むことができるということである。
 知識もまた家と同じである。
知識の知識たる所以は特殊・個別の法規法則にある。
原理原則がいかに精緻でも、実験事実がいかに豊富にあっても、この二者が相互に関係しなければ、特殊個別の規律を 生ずることは決して無い。
 よって、純正哲学の原理原則は実験事実と相互に関係して、正確有用な知識を生ずると言わなければならない。

[9] 思想の基礎付けについて
 心理学が純正哲学の基礎ではない、ということを理解することは最も重要な点である。
 前段で何度も有規聯絡の必要性を述べたが、有規聯絡というものは我々の思想の中で、かくあらねばならない、 ということを明らかにしただけで、つまりは思想に必然的に備わるということを注意しただけであった。

 そうして、その有規聯絡の研究を開始するに先立って、思想とはどのようなものであるかを探求しなければならない、 という意見が起きる。
 思想の必然は有規聯絡のような万有の原理を判断・決定できるのか。あるいは、思想はこの判断・決定をするには 力不足ではないのだろうか。またこのような思想を有する我々の精神とは、そもそもどのような作用をし、 どのような性質を持つのか。
 これらの問題を検討しないで、すぐに万有の原理を究明しようとしても、誤謬に陥る恐れがあるのではないか。 そうだとしたら、純正哲学の研究には心理学を基礎とせざるをえない。
 これが英独の何人かの学者が立てる説である。(経練学派〔=経験主義。全集5 pp.172でのロックの記述で 「経練学の基礎をなす」とある。〕批評学派〔=カントの批判哲学。全集5 pp.210でのカントの記述で「これを批評哲学と称す。」とある。〕等がこれに属する。)

 しかしこの説が間違いであることは容易に判る。
この説の論者は、思想を用いて万有の原理を探求するに先立って、思想そのものの何たるかを究明しなければならない と言っているが、その究明はどのような作用によって為しうるのか。
判断・推理等によるのではないのか。つまり思想の必然によるのではないのか。
とすれば、思想の何たるかを究明しようとして、かえってその思想の指令に従っているということになる。 既に思想の指令に従っているのである。なぜこれに依ってただちに万有の原理の探求を開始しないのか。

 以上をまとめるとこうなる。
我々が物事の筋道の真妄を判定する場合は、思想の必然に訴えないわけにはいかない。
すなわち、思想はその内部の関係によって物事の筋道の正・不正を確定する能力を持つと言わなければならない。
 どうしてこのような能力を持っているのかという疑問は、その能力の価値を少しも変化させはしない。 そしてこの能力の起源を究明しようとすれば、また思想の必然に依らざるをえない。
 よって純正哲学は心理学を基礎とする必要が無いことは明白である。反対に心理学の研究はかえって 純正哲学を基礎とせざるをえないと言える。
 何故なら、精神であって一個の実体であるものは、純正哲学の範囲内に入らざるをえないからである。 精神であって変化を呈するものは、また純正哲学の範囲内に入らざるをえないからである。

[10] 規律と意匠
 純正哲学は規律〔思想の必然によって見出される法則性〕を依りどころとし、 意匠〔万有の存在目的とか造物主の意図といった考え方〕を重視しない。
 前段で何度も有規聯絡を論じ、特に知識が生ずるしくみは有規聯絡が確実にあることを仮定してはじめてありうることを 説明した。
 そして有規聯絡という考え方は近代では万有に普遍で時代を通じて共通である、と捉えられているが、 理性の未熟だった古代ではこの見解にはまだ至っていなかった。
 すなわち、古人も万有の間に一定の聯絡あることを認めたが、その場合に普遍の規律とはみなさず、 唯一の造物主による意図・計画による聯絡とみなした。よって個別の事物は皆それぞれの目的を持ち、 それらの目的が全て結合したところに、唯一の造物主の目的が完成するに至ると考えた。
 よって、この考えを持つ論者は、唯一の最上究竟の観念を以って全学問の起点とし、そこから全ての物事の目的を 演繹して、その目的によって個別の物事の現象を説明しようとした。
 しかし、彼等の常に誤れる点は最上究竟の観念の何たるかを説明できないところにあった。 最上究竟の観念が不正だとしたら、そこから演繹するもの全ては、皆ことごとく誤謬を免れることはできない。 もし幸運にも良い結果に達したとしても、それは情感的な満足を生み出すところに止まり、 確実な議論によってそれを証明することは不可能である。
 そして確実な議論での証明ができなければ、それは哲学の対象とすべきものではない。思うにこのような最上究竟の 観念は、例えそれがあるとしても我々が現実に到達できるものではない。
 我々の到達可能な領域は現実の万象にある。現実の万象の中に、真にこのような観念から起り、それに従って世界に 行き渡っているものがあるとすれば、現実の万象の探求の中で、その最上究竟のものを必ず覚知しうるだろう。
 そしてそれが覚知可能であれば、必ず普遍的に通じる有規聯絡に帰するはずである。なぜなら知識は有規聯絡に 基づかざるを得ないからである。
 したがって、最上究竟の観念に到達できると否とに関わらず、純正哲学は普遍的な有規聯絡を現実の万象の中に 探求すべきである。
 以上が、純正哲学は規律を依りどころとし意匠を重視しないということの意味である。

[11] 純正哲学の対象範囲
 さて緒論を終るに当って、この学問が対象とする範囲を明らかにし、講義を展開する順序を説明する。
 純正哲学の対象範囲を明らかにするのは困難なことではない。古来からこの学問に従事し、 その範囲を示した者が少なからずいたからである。
 また、この作業はそれほど難しくもない。それらの成果を検討すれば、範囲は容易に見出せるからである。それを示す。
先ず
(a) 外界としての万物〔外的自然 (今村40)〕
(b) 内界としての精神〔個人的・集団的人間精神 (今村40)〕
の二つの区分がある。この二界は相互に関与し社会的・歴史的世界を形成してきた。 そこで起きる現象は我々の研究を促すと同時に、
(c)二界を貫通して全てを統制し、二界相互が関与する活動が生起せざるをえない原理・真性  〔真実の存在=存在についての論証的な語り、存在者について語るところの「語ること」そのこと を語ること (今村41)〕 これも我々の考究を誘起して止まらないところである。
 この三つの領域での疑問が古来から哲学の範囲を区分してきた。ここでもそれを継承し、科名を立て講義の順番を示す。

1 実在論(c)〔存在論。または(存在について語る)論理学。 (今村41)〕
  内外貫通する原理を考究する。

2 宇宙論(a)〔自然哲学。縁起論の自然哲学。 (今村41〜42)〕
  外界現象の原理を考究する。

3 心霊論(b)〔人間学。社会的・歴史的世界を扱う縁起論の人間学。 (今村42〜43)〕
  内界現象の原理を考究する。

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『純正哲学』意訳

更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
序言

緒論
.[2]変化・実体の定義
.[3]哲学の起る理由
.[4]二種の懐疑
.[5]蓋然の捉え方(有規聯絡の登場)
.[6]有規聯絡の位置付け
.[7]実験知識と有規聯絡の関係1
.[8]実験知識と有規聯絡の関係2
.[9]思想の基礎付けについて
.[10]規律と意匠
.[11]純正哲学の対象範囲

本論 第一章 実在論

第一節 事物の実在

第二節 事物の性質

第三節 実有及び実体

第四節 変転二化

第五節 物理的動作の性質

第六節 万物一体

終結
-----意訳終了-----

原文

pdf版(印刷用)

 (C)西照寺 2007年来