真宗大谷派 西照寺

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『純正哲学』意訳


第五節 物理的動作の性質

[51] 原因と結果の省察
 物体の動作は一般に原因によって結果を生ずる、ということにある。そして、いわゆる「原因」は常に 数多の元素から成る。
 ところが人の常識的な見方は、一結果の性質が決定されるのは原因の一元素が決定する、と独断し、 他の諸元素は単なる受動的状態にあって、決定要因の一元素の衝動を受け取るに止まる、と見る。
 例えば、水を熱して水蒸気とする時、蒸気になる原因は熱だけであるとし、水は熱を吸収するだけで、 少しも自みすからは働かない、という考え方がこれである。
 しかし、精密に事実を観察すれば「一元素のみが作用を起し、他元素は単に受動するだけ」と言ったとしても、 自らの働きが無いものが「受動する」ということはできないのである。
 思うに受動ということは、そうなるのに適した一定の性質があって始めて起きることである。前の例で言えば、 水に一定の性質がある故に熱と共働して蒸気を生ずるのである。水の代わりに岩石を置き、 これを熱しても決して蒸気は出ない。換言すれば、水は熱と共に蒸気発生の原因・事情である。
 また他の例を挙げる。
中毒によって人が死んだ場合、死亡の原因は服毒である、と言ったとする。しかし、精密に論ずれば身体の状態と 服毒とが相依って死亡を招いたのである。死亡の原因・事情はこの二つを合わせてはじめて備わる。
 要するに、一つの結果が生じるということには、必ず数多の原因・事情が相待ち、その後始めて結果が出るものと 言わざるをえない。これが、理化学で多元素の相互作用を重視する理由である。
ヘルバルトも形而上哲学の原理について、一動作が生ずるとき、それが必ず数多の原因に由っているということを 説いている。正確な説と言うべきである。
 しかし、以上の記述で動作の説明を尽したとは言えない。更に一歩を進めて考察しよう。
 弾薬の爆発〔原文では「暴発」となっているが、この言葉には人為的過失の意味が含まれている。しかし、 例としての意味はあくまで物理的な動作の説明であり、人為的なものは含まれていないので、「爆発」とした。〕 という現象を例に取る。
 先ず、弾薬と熱体という二個の事物がある。
 この二物が相互に接近することを「事情」という。
 弾薬の性質である、圧縮されている膨張性と受熱を爆発の「理由」という。
よって、二個の事物(原因)と近接の関係(事情)と圧縮された膨張性と薬質の受熱(理由)との三者が具備して、 始めて爆発という一結果を生じる。
 換言すれば、一結果が生じるには先ず複数の原因が必ずある。その原因が一定の関係(事情)を得れば、 それが理由となって結果を生じる。
 そして、一結果の原因である複数のものの中には、結果に大きく影響を及ぼすものがある。或いは小さな影響しか 及ぼさないものがある。或いは主原因が整う前にあるもの、主原因が整った後にあるものがある。 (爆発の例で言えば、発火のきっかけとなる激因は複数の原因の中で最後に出てくるものである。)
 このような具体例は一々の特殊個別の因果について考察すれば、非常に有益な成果を得られるだろうが、 純正哲学の立場からすればみな同規・同類のものであるから、これ以上詳細を議論する必要は無い。

[52] 事情:事物間の一定の関係
 原因というものが複数あることを知ったが、複数の原因があるからといって自然に結果が生ずるものではない。 必ず事情を待って結果に至るのである。事情とは一定の関係のことである。
 すなわち複数の原因が相互に一定の関係を得るを以って結果は生ずることを得る。ヘルバルトはこれを「倶在」 (複数の物が同一時間内に並んで存在する。)と言った。
 しかし精密に言えば倶在は事物が空間中で合一することを指さなければならないはずである。すなわち接合である。
 しかし、ヘルバルトの説は、ただ事物相互動作の外状を指摘したのみで、未だ内実を説明したものではない。 何故なら我々は、複数の事物が同一の場所に集まっていても、それらが互いに独立して少しも交互動作をしない 場合もある、と考えることができるからである。
 事物相互動作の実際は、事物の外状よりも重要で、哲学が最も考察するべきところである。事物相互作用の外状は 仮に倶在にあるとしても、我々は倶在がどのようにして各事物の独立を破って相互作用に至らしめるかを探求すべきである。

[53] 「動作は影響の転移である」説の検討
 動作の要義を説明しようとした説は古来、非常に多い。ひとつの説は「動作は影響の転移にある」
と言って、ある能動的物体から影響を発して、他の受動的物体に及ぼすところにあると言う。これは、 かなり一般的に通じる説である。しかし、この説が完全でないことは容易に分る。

 先ずここで言う「影響」を考えてみよう。
仮にこの「影響」を一つの実物Cとしてみよう。この実物Cが一物体Aから発生し、分離し、他の物体Bに到達し 付着するという理由を問わなければならない。これらの理由はとりもなおさず物体的な動作について、 我々が現に説明を求めているところのものである。しかしそうすると、一動作〔影響〕を説明しようとして 既に二動作〔Aからの発生・分離、Bへの到達・付着〕を仮定してしまっていることになる。
 更に実例を検討する。〔以下原文の意味を取って改作する。水分による性質の変化に合わせると 高野豆腐くらいしか実例が思い浮かばなかった。〕
湿った高野豆腐Aと乾いた高野豆腐Bがある。AとBが接しているとAからBに水量Cが転移してBを湿らせる。 ここで水量Cの転移はA、Bに変化をもたらしたか、そうでないか?無変化と言ってしまえばここで議論していること 自体が無用である。よって変化をもたらした。
 そうするとAは水量Cが去ったためにどれだけの変化を受け、Bは水量Cが加わったためにどれだけの変化が生じたか。 湿った高野豆腐は膨張し弾力性に富み、乾いた高野豆腐は縮小し脆いものになることから考えよ。
 これは水分子がBの分子間に浸入しAの分子間から退去することによって起ることである。そしてAでは水分子が 去るわけだが、なぜAの分子を近接(縮小)させ変性(脆弱性)させるのか。Bでは水分子が到達するわけだが、 なぜBの分子を隔離(膨張)させ変性(弾力性)させるのか。
 これは水分子がAにも一種の影響を与え、Bにも別の一種の影響を与えることによる、と言わざるをえない。
 そうすると、一物体Aの他物体Bに及ぼす影響C(水分子)を説明しようとして、かえって二種の影響 〔Aへの影響とBへの影響〕を必要としてしまう、ということになる。もしこの二種の影響を解明しようとすれば、 さらに多数の影響を見出すことになろう。これでは全く説明とならないのである。
 我々は転移する影響を一実物(=水)と仮定した。しかしこれを実物ではない一種の霊体と仮定しても、 上記と同様の説明の困難を招くことは推して知るべし。

[54] 「影響」を別の語に置き換えても無理があること
 あるいは次のように言う者があるだろう。
「影響」は実物でも霊体でもない。一個の勢力、動作、相状である、と。
 このように言えば、その転移の後に「影響」が到達した物体を変化させるかの問題を避けることができるだろう。 〔つまり「影響」が実体ではなく、変化した物そのものの形容あるいは作用となるから。〕しかし「勢力」は物体に 属する勢力であるし、「動作」は物体の動作であるし、「相状」は物体の相状である。すなわち、物体を離れて勢力、 動作、相状があるわけではない。勢力、動作、相状は常に必ず物体に付属する。それなのに一物体を離れ去って 他物体に到着すると言う。これではとても納得できる説ではない。これに加えて勢力、相状等の転移の説には 難点が甚だ多い。例えば次の通り。
 CがAから分離しうるとしても、それがどのようにしてBに向かうのか。これはCが離れ去るときにAがCに及ぼす 影響であるとすれば、我々はA、B間の影響の転移を説明しようとしてA、C間の影響の転移を仮設してしまっている ことになる。
 またCはAを離れた後はB、D、E等の何れにも向かいうるだろう。然るにあるときはBに向い別の時にはDに向かうのは 何故か。この問に答えようとすれば、我々は次のように言わざるをえない。Aの影響CをBに及ぼそうとする時には、 既にBがAに影響しているものがある。故にCはD、E等に向わないでBに向うのである、と。
 したがって、一動作を説明しようとして、その動作の前に動作を必要とする論法になってしまう。 かつまたCがAを離れた後、Bに着するのはどうしてか。なぜ無限に運行し去らないのか。Bがその影響をCに及ぼして、 その無限に去ろうとする運行を阻止していることによる、と言わざるをえない。阻止しているとすると、 これをBの勢力、相状と言わなければならなくなってしまう。 〔つまり「勢力」の説明に「勢力」を出さざるをえない。〕更にその説明が必要となってしまう。

[55] 因果均同の説
 影響転移の説の難点はこのようなものである。しかし古来、この説から起る論旨は数多の謬説を生じさせた。 彼の因果均同の説と言われるものは、その最も有名なものである。これは次のような説である。
 〔以下前段の記号の意味付けをそのまま引き継ぐ。〕
CがAを離れてBに付着するとき、AがCを保有したと同様にBはCを受け入れざるをえない。ということはA、Bともに 均同の性質がなければならない、というものである。
 しかし我々は先に論じたように、一つの結果を生ずるには、多数の原因がその特性に応じて相当の影響を 及ぼすものであることを知っている。同一の打撃を受けても、変形するもの、分裂するもの、熱を発生させるもの、 爆発するもの等、さまざまである。これでどうして因果は常に均同であると言えるだろうか。
 要するに事物が動作する場合、各事物(自動あるいは受動)の性質とそれら相互の関係が相依って「理由」 を形作っていくと言わざるをえない。しかし、理由が形成されれば結果は明瞭である、とは言うことができない。 これは我々の思想が希望するところではあるが、実際の結果については事実で判断するしかない。何故なら、 宇宙の万化は普遍的な有規聯絡に属するか、造物主の意図(意匠)に属するかを決定できないからである。
 したがって我々は分解的に事物の変化を説明し尽すことはできない。〔つまり説明は仮定を立てて行わなければ ならないが、その仮定を立てる方向(普遍法則か意匠か)を決定できない。ということか。因みに現代科学では、 表に出ては来ないが暗黙のうちに意匠を認める姿勢があると思われる。〕)そしてまた我々は、事物の変化が起るのを 総合的に観察せざるをえない立場に置かれているからである。〔つまり変化を変化と認めるということは、 総合的な判断能力であるということか。〕
 ただ我々は探求の方針(=化設)として万有の変化に有規聯絡があることを表明した。その方針にしたがって 理性的に研究を進めるのが、我々に可能な唯一の道である。すなわち、事物の動作の説明に当っては、 各事物の性質とそれらの関係は論式の前提であり、動作の結果は論式の断定とならなければならない。
 しかし、論式というものには常に大小の前提があり、大前提は普遍の規則を表す。そして一つの大前提の基礎は 他の大前提に依り、その大前提はなおその上の大前提を要す。最も根本といえる大前提に至れば、それは論式の外に出て、 そこに根本を求めることになる。〔それは論式での判定は不能の領域である。〕
 よって論式を適用する場合、実際の観察と事実の確認は不可欠の要件である。〔これが論式の正誤を判断する唯一の 手段であるから。〕これが理科学が実証を重んずる所以である。
 以上の理由により、単に論理的必然を拡張して事物の動作の説明に因果の均同を説くようなことは、 当を得たものではない。
 考えてみよ。AとAを合すれば、論理上は二つのAを生ずるだけである。そしてその二つのAが相互に動作するか否かは、 それだけでは分からない。相互動作は無いと推測するのが妥当だろうが〔この論旨はよく分からない。〕 しかし因果均同説は相互動作があるという反対の見解を出してしまう。
 要するに二つの事物に同性があるということは、その相互動作があるということで知ることが可能なのだが 〔そしてこれが均同説の出る所以。〕、二つの事物に同性があるから相互動作があるとは断定できないのである。
 事物というものが、AがBに動作するとき同時にBはAに動作しているものである以上は、二者共に本体(サブスタンス) となるべき点においては均同である。因果均同の説とはこのような解釈に帰せざるをえない。 〔すなわち均同の意味が、動作の因果(主従)関係を含むのでなく、二つの事柄が本体になりうるという関係性を表す。〕
 とすれば、均同説発生の動機となったような、単一概念に還元して説明を完成させようという傾向には注意を要する。 〔原文脈からここまで書くのは無理があるが、あえてこう解釈しなければ繋がりが悪い。〕
 現在の科学で、宇宙間の諸現象を帰一して空間中の運動であると見るが如きは、その一つである。光・熱・電気等、 その観察される相は異なるが、皆、運動に外ならないと見なすは、動作の因果を均同であるとする説に基くものである。 しかし最近の科学界の見解は変わりつつあるため、この説はそのまま認めうるものではなくなっている。 どう訂正すべきか。この問に答えることは本論の役目ではない。しかし万性が羅列し異質なる物が躍動している 宇宙を説明するために、孤寥寂然とした一運動に帰着させようということは、我々のするべきことではなかろう。
 また、因果均同説から起った重大な謬説に「同類は互いに認知する」というものがある。 特に身心の関係を議論するとき、この説が顔を出す。この説の詳細もここで論じるわけにはいかない。 しかし極端に走った誤りの一例を挙げると、我々の眼の器官は太陽と同じ性質を持つから、 太陽光線を知覚しうるのである、というものである。これは誤想の甚しいものと言わなければならない。

[56] 機会論
 我々は事物動作の説明を求め来て、ようやく正しい道に進み入ることになった。更に進もう。
影響転移説の誤謬は指摘した。この通説と異なって動作の説明を企てたのが、機会論〔偶因論 Occasionlism (R.H.Lotzeと清沢満之 79)〕である。この説は次のような内容である。
 A、B二体間の関係は両者の変化の機会である。この機会を得てAがA´と変化しBがB´と変化するに当ってAとBは 各々独立に変転して、相互間の動作は少しも無い。
 この説は理科学において、万化の前後順序を観察してその次第を記述しようとする者には、役に立つ理論であるが、 哲学上は価値の無いものである。
 なぜなら、AがA´と変化しBがB´と変化することは、各々独立に開発するものだから、機会Cは無用のものとなる。 もし機会に用はたらきがあるとすれば、CはAに動作し、またBに動作するものであるとせざるをえない。となると、 機会の用を説くために動作を仮定することになる。これではそもそも動作の説明のために論を立てたことに矛盾する。
 これに対して、我々が説明するべきは機会に限ってであり、機会の用はたらきがあるのは規律があることによる、 と言う者がいる。
 しかし規律は決して現実のものではない。現実のものとは事物動作が現実であることによるのである。 規律から現実を生成しようとすることは本末転倒と言うべきである。規律というものは現実の動作を待って 確認されるものなのだから。

[57] ライプニッツの予定調和説
 機会論に類似のものにライプニッツの予定調和説がある。これは次の内容である。
宇宙の万物は無数の原子より成る。原子は各々独立に存在し離れて相互に動作する。ただし予定調和によって 各々自然に開発する。それは何故かというと、宇宙の始まりの前に造物主が様々な宇宙の構想を練り、 その最善のものを選択して現実たらしめたからである。
 この説によれば、宇宙の万化は宇宙の始まりより宇宙の終りに至るまで、一つとして予定されていないものは無い。 一滴の雨も一塵が舞うことも皆悉く予定されていて、予定外の現象は無い。これによって「風が船舶を進める」 と言わずして「船舶の進行が風を生ずるのである」という言い方もできてしまう。
 しかし事実がもしこのようなものであるなら、宇宙は意義無き、価値無き事変の継起に他ならない。
意義無き価値無き事変の継起は、それが想像に属そうが、現実に属そうが、損も益も無いものである。 よってこれを現実ならしめた造物主の愚かさはまさに笑うべきものがある。どうしてこれが造物主の 真面目でありえようか。ましてやライプニッツは宇宙の進化を説き、天楽教〔ユートピア構想か。〕 を主張しているのである。そのようなことは、この説からは導き出せないだろう。
 実に予定調和説は定道論に異ならないのである。
そして定道論は科学がしばしばその見解に傾くものであるが、科学者は実験・観察を重んじるため、 そこから偏向を修正し宇宙間の事実について現実の価値を採取する者である。
 しかし、定道論を避けて現実を価値あるものと見なすことは、結局のところ理論的必然に依らずして、 むしろ実際的感情から起きることである。
 よって我々はライプニッツの説について、それが価値あるものならば、理論的証明の論拠を追求すべきである。
 ライプニッツ説での原子は個々独立して自然に開発するものである。とすると、我々が相互動作と認知するものは、 どのように解釈するべきか。ライプニッツは二個の時計の喩で説明する。
 二個の時計は、それぞれの機構を動かせば独立して運転するが、両者は同じように時刻を知らせる。 二個が同様に働くのは、技師が稼動の準備をして開始させたばかりでなく、各時計の機関があることによる、と。 しかし、これが時計と原子の異なるところ〔したがって喩とならないところ。〕である。なぜなら、 各時計の機関は別々であるが、それぞれの機関は共に同一の物質から成り、同一の原理で運転するものであるから。 すなわち二個の時計は相互動作はしないが、それぞれの機関の諸部分は同期して(すなわち相互に)動作するからである。
 しかし、ライプニッツは次のように言うのである。
このような動作も実は予定によって自然に起きるものである、と。そうだとすると、 ライプニッツの喩は全く自説の解説となっていないと言わざるをえない。

 しかし更に進んで検討すべきものがライプニッツ説にはある。万化の有規聯絡についてである。
ライプニッツ説では現実の宇宙を最善最美のものとする故に、有規聯絡は善美の一性質とすべきものとなる。 しかしこれだけでは、有規が無規に勝る理由を知ることはできない。かつ、ライプニッツは万様の変化について、 すべて予定されており、また同一の変化は二度と起らない、とした。故に普遍の理法はライプニッツ説とは 相容れないように見受けられる。
 はたしてライプニッツ説に有規聯絡を組込み得れば、宇宙の完全なる理由の説明となりうるのか、 それができなければ、予定調和の説を棄てて、事物の現実の動作を取らざるをえない。

[58] 有規聯絡の説明
 ライプニッツ説は有規聯絡をどのように扱うかを明言していない、と言わざるをえない。
ここで我々はかつて論じた通常の見解における論法で有規聯絡を説明してみよう。

AがA´に転化する場合、同時にBがB´に転化する必要があるとする。そのときこの「必要」 (他の諸物全体の現状に帰着する〔ここでの「必要」の意味が曖昧であるがAがA´へBがB´への転化が 可能性の話としてではなく、宇宙事象一切から見た必然の話として扱っているのか。そうでないと 「他の諸物全体の現状に帰着する」という言葉は出てこない。よってここではその意味に取る。〕)と「 AがA´に転ずる」の二件は、Bに動作を及ぼす、と言うべきものとなる。
 そしてBがB´に転じてC´、D´、E´等に転じないのはA、B、C、D等の諸物体が相依って一聯の関係を 有するによるからである、と言わなければならない。そうであれば、A´が生ずるときには必ずB´が生じ、 他の事情は生じないという結果を見る。
 これが、宇宙に漸次の転化があり、動的に変化する因果があり、したがって有規聯絡があるという意味である。

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『純正哲学』意訳

更新情報・使用法・凡例
はじめに
-----意訳開始-----
序言

緒論

本論 第一章 実在論

第一節 事物の実在

第二節 事物の性質

第三節 実有及び実体

第四節 変転二化

第五節 物理的動作の性質
.[51]原因と結果の省察
.[52]事情:事物間の一定の関係
.[53]「動作は影響の転移である」説の検討
.[54]「影響」を別の語に置き換えても無理があること
.[55]因果均同の説
.[56]機会論
.[57]ライプニッツの予定調和説
.[58]有規聯絡の説明

第六節 万物一体

終結
-----意訳終了-----

原文

pdf版(印刷用)

 (C)西照寺 2007年来