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『純正哲学』意訳
はじめに
・意訳の経緯
今村さんが亡くなられて丸一年を過ぎたあたりから、段々と気になってきたことがあった。書棚に積みっ放しになっている
岩波版清沢満之全集を読む、という仕事である。
私の清沢に関する知識は七割方が今村さんを通したもので、後の三割が必要に迫られて原文に当るという程度のものだった。
しかし、今村仁司に依りかかった清沢解釈はもう叶わないことなのだから、本棚に並んでいる清沢全集をこれ以上
敬遠するわけにはいかず、通読を開始しなければならない。2009年1月、無限洞5号の編集作業が一段落した後に
取り掛かることにした。
とはいっても、どこから手を付けて良いのか見当がつかない。とりあえず清沢の著作全体と生涯を把握するために
「目次一覧」と
「年齢順一覧」を作成した。
この作業で著作の年代順リストが大体頭に入ったので、この順番に沿って読み進めることにした。
そして『西洋哲学史試稿』『西洋哲学史講義』に及んだとき、私がこれまでに読んだ清沢の著作の中では
初めてといっていいような種類の感銘を受けた。それは一言で言えば「命を削って書いている」という迫力だった。
そもそもこの時代の漢学教養をベースにした知識人の文章の密度の濃さは、現代人が書く文章の二、三倍の
情報が圧縮されている感がある。清沢の文章はこれに加えて「内部からにじみ出てくる彼の理論的精神」(今村)から
生み出される文脈に、読む者の注意を惹きつける強烈な魅力があった。
続けて『純正哲学』を読むに及んで、この文章には清沢の思想の中核が、後の精神主義を形成するに至るまでの思想の
「骸骨」が、ほぼ完成された形で表現されている、という印象を持った。
我々が清沢の思想を理解しようとする時、おそらく『純正哲学』の内容を押えているか否かで、
精神主義等の後期文章の解釈には相当の差が出てくるだろう、という印象も持った。
言うまでもなくこの見解は『清沢満之と哲学』第一部第一章で展開されていることであるが、
今回、私自身の体験としても確認し得たということである。つまりは今村さんが清沢研究に集中するようになった
具体的な理由の一つを、清沢の原文に接して見つけたと思った。そして、その意味を明瞭にするためには『純正哲学』
を私なりに更に咀嚼しなければならない。これが意訳をはじめた動機である。
・二十歳代の清沢について
意訳を進めながら『純正哲学』関連情報をインターネット上で探し、
インド学仏教学論文データベース(INBUDS)経由で、
次の二氏の論文を見つけた。
1 峰島 旭雄 氏
「明治期における西洋哲学の受容と展開(1) ─西周・西村茂樹・清沢満之の場合─」
(主として西村茂樹の記述) 早稲田商学201号 1968年6月
「明治期における西洋哲学の受容と展開(2) ─西周・西村茂樹・清沢満之の場合(続の1)─」
(主として清沢満之の記述) 早稲田商学205号 1968年12月
「明治期における西洋哲学の受容と展開 ─西周・西村茂樹・清沢満之の場合(続の2)─」
(主として清沢満之の記述) 早稲田商学211号 1970年1月
「明治期における西洋哲学の受容と展開(4) ─西周・西村茂樹・清沢満之の場合(続の3)─」
(主として清沢満之の記述) 早稲田商学216号 1970年7月
「明治期における西洋哲学の受容と展開(5) ─西周・西村茂樹・清沢満之の場合(続の4)─」
(主として西周の記述) 早稲田商学219号 1970年12月
※早稲田大学のサイトからpdf文書でダウンロードできる。文書の中身は発表当時の雑誌のペー
ジをスキャンした画像であるが、十分読むことができる。3番目のタイトルの番号が欠落している
が原文のままである。また、ご覧の通り連載五篇のうち三篇は清沢に関する記述である。著者
が如何に清沢を重視しているかが分る。
2 樋口 章信 氏
「R.H.Lotzeと清沢満之 ─Metaphysikと『純正哲学』を比較して─」
大谷大学研究年報 第50集 1998年3月15日
※こちらは大谷大学Webサイトには無く、大谷大学に問合せをして図書館の有料コピー
サービスで入手した。
どちらの論文も「系譜学的」に『清沢満之と哲学』と同列にある内容であると思う。(今村さんはおそらくこの
二論文は読んでいらっしゃらなかったと思うが。)是非一読をお勧めする。
今村さんは常々、清沢を「並の学者とは全然学力が違う」と評しておられたが、
同様のことを峰島氏が表現している文章があるので引用する。
わが国ではじめての哲学概論といわれる三宅雄二郎『哲学涓滴』が刊行された明治22年に清沢満之は 『純正哲学』を出しているし、すでにその前年に『哲学定義集』を集録しているうえ、 大西祝『西洋哲学史』上・下二巻(明治36年)や、波多野精一『西洋哲学史要』(明治34年)にはるかに先き立って、 『西洋哲学史講義』(明治23-26年)をものしているのである。しかも、ただ単に,清沢満之が時間的に早く、 あるいはほぼ同時に、これをなしたというだけではない。やがて論述するように、それは、内容からいっても、 きわめて高度な水準に達しているといいうるものなのである。
(明治期における西洋哲学の受容と展開(1) pp.51)
私のような、学問としての哲学の素養を持たない者にとっても、この峰島氏の記述は納得できる。 『西洋哲学史試稿』『西洋哲学史講義』に見られる、並居る哲学者の論の欠陥を容赦なく抉り出していく 魂胆の座り方はとても二十六、七の青年のものとは思われない。『純正哲学』での論の展開の中では、 実質的に縁起や中観・唯識に通じるバックボーンが確立していることを窺わせる。この時代の人々は 現代の我々と比べて、何倍もの密度で生きたとは良く言われることだが、それにしても清沢は二十代半ばで、 既に学者として円熟しているように見える。清沢は一体どのような経過を経てこの境地に達したのだろうか。 そのヒントとなるような記述が樋口氏の論文に見える。
1887年(明治20年)に清沢は東京大学哲学科を卒業し、さらに同大学院に進んで宗教哲学を研究する。 東西の哲学について語り合う会であった哲学会にも参加している。明治17年に、有志たちが学習院において会議を開き、 哲学会創立の件について話し合った。そのとき入会した者、29名に及んだという。その中には、 明六社グループの西周(1826-94)、中村正直(1832-91)、西村茂樹(1828-1902)たちがいた。 また政治学者の加藤弘之(1836-1916)、文学者の外山正一(1848-1900)、教育家の嘉納治五郎(1860-1938)らがいたし、 哲学者として考えてよい人物としては、井上哲次郎(1855-1944)、井上円了(1858-1919)、三宅雄二郎(1860-1945)、 そして徳永(清沢)満之たちがいたのである。仏教学者の原坦山(1819-1892)、島地黙雷(1838-1911)、 吉谷覚寿(1843-1914)、南条文雄(1849-1927)、キリスト教学者の小崎弘道などもその場に出席していた。 現在のように宗教学、仏教学、神学、真宗学等に枝分かれする以前の、いわば当時の日本の代表的知識人が 顔を連ねていたと言えよう。会長は加藤弘之、副会長は外山正一であった。雑誌の発行についても話し合われ、 明治19年12月に清沢は『哲学会雑誌』の書記として実際に編集に携わっている。
(R.H.Lotzeと清沢満之 pp.55)
明治初期に現れたこのような稀有の環境の中で、清沢は自身の思想を急速に開発していったものだろう。
しかしそれにしても『純正哲学』の文脈の中に見られる仏教的思考には、当時の学問仏教の水準をはるかに
越えたところに立っていたのではないだろうか、と感じられるものがある。あくまで「感じ」の話で
裏付けなど無いのだが。清沢の仏教的センスは、清沢没後に山口益によって明らかにされた仏教思想を
先取りしている感がある。このようなセンスを清沢はどうやって身に着けたのだろうか。
交流していた南条文雄を含めた仏教学者達の影響はある程度あったろうが、当時の仏教学のレベルは
清沢のセンスには追いついていない気がする。
東京大学時代の仏教教養の蓄積はおそらく独学だったろう。独学でセンスを磨き上げた?
それ以前の仏教勉学の場は東本願寺育英教校で清沢は16〜19歳までここで学んでいる。
仮にこの学校の仏教教育のレベルが相当高かったとしても時代の限界があると思う。
『純正哲学』の種本となったロッツェの『形而上学』に既に仏教的思想が内在されていた?
これも部分的にはありうるだろうが、決定的とは言いがたい。
やはり、清沢自身の才能が開花して事実上無師独悟の状況で身に着けた、ということだろうか。
この解釈が私には一番しっくりくる。
以上、問題になる以前の疑問を羅列したが、私にとっては二十歳代の清沢にはこのような不思議さがつきまとう。
どなたかこの辺の事情に詳しい方がいらっしゃったらお教え頂きたい。
・意訳の中身
『純正哲学』の原文は漢文ベースの擬古文体表現で、当時の哲学用語を使用し高度な概念の構築や論証を行っている。
哲学舘での講義録で、おそらく清沢が原稿を読んで説明する形式で講義した内容を聴講者が筆録したものと思われる。
その事情からか、ところどころに誤字・誤表現と見られるものが混じる。古風な表現や難しい漢字によって、
私の頭ではすぐに理解はできない文章になっている。自分なりに理解するためには、
辞書を引き現代文に翻訳する中で概念や文意をおさえていかなければならない。意訳はそのような作業の結果であるので、
私の学習ノートのようなものである。できるだけ自分が納得できる文章に変換したが、
ところどころ文意が取れないところも残っている。
また、当時及び現代の哲学の専門用語には全く不案内なので、うまく訳しきれておらず、多くは原文の語彙を
そのまま使っている。これによって大きな勘違い、間違い部分があるかもしれない。
これらの点で修正や改善の箇所を見つけられた方には、ご指摘を頂ければ幸いです。随時修正更新を加えて
完成度を高めていきたいと思っておりますのでご協力をお願いします。
2009年5月11日 星 研良