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縁起
釈尊の覚りとは何か、何を覚って仏陀となったのか。この問いに、阿含経典等の記述から「客観的証拠」 としての答えを出すことは期待できない。 もしそうしようとすれば、次のような問題にぶつかる。
仏陀が成道において何を悟ったかは、大きな間題である。『阿含経』にはこの点について 種々なる説明があり、宇井博士はそこに十五種の異なった説のあることを示した。それらの中で は、四諦説によって悟ったという説と、十二因縁を悟ることによって仏陀となったという説と、 四禅三明によって悟ったという説とが優勢である。しかし四諦説は他に対する説法の形になって おり、成道内観の生の形と見るには難点があろう。つぎの十二因縁は、縁起説の完成した形であ り、他にもっと素朴な縁起説が説かれているため、原初の説と見るには難点がある。しかしこの 説は成道内観の形を備えていることに注意すべきである。第三の四禅三明は、宇井博士もいうよ うに比較的成立の新しい教説である。しかも三明(三種の智慧)の最後の「漏尽智」は四諦説と内 容の同じものである。しかも縁起説と四諦説とには、その思想に共通点が見られる。すなわち四 諦・十二縁起・三明には内容的には共通性がある。なお別の説では、仏陀は「法を悟った」といわ れる。
[インド仏教史上巻40]
このように経典の記述によって釈尊の覚りを確認しようとすれば「四諦」によって覚ったとか
「十二因縁」によって覚ったとか、典拠ごとの名称に依らざるをえない。さらに異なる名称の
それぞれに拘泥すればイデオロギー的な対立を呼び込む。
ではどうやって解答を見出すべきか。それは伝承された経典群を通して、釈尊の覚りの内容
を探り出し、それを自分が把握した言葉で表現するしかない。仏教の歴史とは、その探索と解答
を見出した人々の連綿たる連鎖である。私はその現代における探索者の成果を参照し、そこから
最初期仏教の内容を辿り直す作業をした。 師、今村仁司はこのような姿勢を系譜学的な立場と
言われていた。この作業はまだ途中なのだが、私は釈尊の覚りの中核を指す言葉をとらええたと思う。
その言葉とは「縁起」である。そして釈尊の覚りが縁起であることは、私がここに改めて書
くまでもなく、古来、先人によって指摘されてきたことである。しかし私にとってはその指摘が
本当に釈尊の覚りであったと 納得するためには、結構な探求の過程を経なければならなかった。
つまりは典籍を字面で理解することと、本心から納得することとでは雲泥の開きがあるというこ
とである。今村はこの納得のレベルを「臓腑で理解する」と表現された。私は縁起を「臓腑で理解した」
と言うには、まだ不十分な部分があるのだが、しかし縁起の構想・骨格はある程度掴み得た。
次節以降でその内容を展開していく。