真宗大谷派 西照寺

ホーム > 雑文・文献・資料 > 縁起

縁起


7.2 縁起支をたどる

7.2.1 老死愁悲苦憂悩

 我々は自己と他の関係を意識し省みるとき、そこには愁い、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みという この支分のタイトルによって表される感情が必ずつきまとうことを知る。これらを「苦悩」という 一語で表すことにする。
 苦悩は老病死に象徴される、我と我が身に避けられなく到来する事態によってもたらされる。 老病死はとりあえず自分一人に関わる苦悩といってよい。その自分から他者との関係に目を向けると、 苦悩は対人関係さらには対世間・世界関係を包み込み、この世の原理的性質として満ちわたっている ことを知る。私が今ここに生きているということが、私と私が認識するところの全世界が、避けられ ず陥っている巨大な苦悩の坩堝るつぼにあるということであり、そこからの出口はどこ にも無い、という厳しい認識となる。
 それは「存在すること自体が苦悩である」といってよい根源的なものである。次の今村の文章は 仏教に本格的に接する以前に書かれたものと見られるが、既に仏教の苦悩の理解と同じ立場に立って おり、苦悩の良い解説と言える。

現実にそこに在ること(人間が生きていること)は、つねに、そのつど外傷をこうむることである。 人間の生の現実を語ることは、そのなかに刻みこまれている暴力を語ることである。具体的な存在者を 考えるべきであって、それを超える抽象的な「存在」を語るべきではない。
[増補 現代思想のキイ・ワード175]

 そして求道者とはその出口の見出せない絶望的な状況の中で、それでも出口を見出そうとする意志を 持つ者といえる。仏教の歴史においての最初の求道者であった釈尊は、苦悩からの解脱の道を見出し、 それは時代を超えた普遍的なものである、と宣言した。
 しかしまたその苦悩の把握は、釈尊の時代である二千五百年前になされたものだった。そのような プリミティブな時代社会の問題認識によって、現代というはるかに複雑な時代社会で起きる苦悩を扱 えるのだろうか、という疑いが現代の我々には起きる。
例えば今村は次のような問題を語る。

アウシュヴィッツの後では、もはや詩を書くことはできない。この命題は、一般化されるとまちがい のもとになる。なぜなら、果てしない苦しみも表現の権利をもち、犠牲者も叫ぶ権利をもつからである。 しかし歴史的現実としてのアウシュヴィッツの経験は、事実において、人びとの詩をつくる意欲をうち くだく。アウシュヴイッツは、時代の象徴であって、強制収容所だけでなく、それをつくりだした歴史 的現実のすべてが問われる。ドイツだけの経験ではない。ロシア、アメリカ、日本の経験のすべてが、 アウシュヴィッツ的である。あるいはアウシュヴィッツ─ヒロシマ的である。
 アウシュヴィッツ的なもの、ヒロシマ的なものは、二十世紀現代の本質を表出する。大量虐殺は、 人間の死を日常化し、個体的生の現実性をすべて無化する。個体の存在が否定され、死が全体をおおい、 すべての仔牛が黒い夜のごとく、個体的生をまっくろにするとき、詩をつくることも哲学することも 不可能になる。人びとは、生物的生を生きつづけるにしても、真実にいきいきと生きる感覚を喪失し、 どこにも足がかりを得られずに、ただひたすら時代の傍観者になる。傍観者になるとは、 自覚的批判的に時代を観望するという意味ではなく、収容所のガス室に送りこまれる同胞をなすすべもなく見送る ほかになかった途方もなく麻痺した感覚、強制された無力な観察者の状態をさす。この現実を、 あるがままに具体的に知りたければ、ぜひともエリ・ヴィーゼルの『夜・夜明け・昼』と『幸運の町』 (ともにみすず書房)を読むべきである。いかなる歴史書にもまさって、ヴィーゼルは、二十世紀の もっとも重要な事件と現実の本質を教えてくれる。ヴィーゼルは、ユダヤ人として、アウシュヴィッツ に収容され、生きのこった時代の証言者である。いっさいの個体性が消去されるとき、異質で独自の クオリティも消失する。個人は、全面的に死におおわれた人間なるものの代表見本でしかない。 無意味な物質と化した人間という同一性のなかに、個体という非同一性が解消していく。なぜ、 個体が非同一性なのか。個体とは、それぞれが互いに異質にして独自の宇宙をもち、多面的な生を 送りうる存在であって、ひとつの観念、ひとつの制度にはけっしてとりこまれる(同一化される)こと はできないものであるからだ。個体の生の充実感がなければ、詩などは生まれない。同一性と全体 主義的な全体への抵抗の拠点となる非同一性がなければ、芸術だけでなく、認識の努力も生まれない。 アウシュヴィッツの後では、詩も哲学も不可能となる。
[増補 現代思想のキイ・ワード23]

このような歴史を通過してしまった現代の我々にとって、釈尊の思想はあまりにも非力で 「個体性が消去されるとき、異質で独自のクオリティも消失する」ようなものではないのか。
 あるいはテレビという眼と耳を通して精神を汚染する装置を機能させてしまった今日、日常生活の 距離感の中で起きる陰惨・暗鬱な事件がリアルタイムで全国に伝播し、そのコピーを再生産してしまう 連鎖を作り出してしまっており、それを誰も止めることができない。そして我々はその事件を知る=汚染される、 ことにより生活の意欲を削がれ、まさになまぬるい「強制された無力な観察者の状態」に置かれる。 報道する側の無節操を非難して済む問題ではない。送り手にしろ受け手にしろ我々は、ゴヤの黒い絵の 「わが子を喰うサトウルヌス」[ゴヤ285](注)の如く、 流通する毒を含んだ情報を無理やり飲み込まざるをえず、消化しきれずに苦渋の脂汗を流し、 毒を精神に蓄積し続ける。

そのような今日の状況に対して仏教の苦の捉え方はあまりにステレオタイプすぎないか。
 そして、これらの現象がそれこそ「高度に発展」した末の二十一世紀初頭の全地球的技術・ 経済社会の構造と切り離しては考えられないとき、仏教の問題把握は有効に機能する道具となるのか。

 これらの疑いに対して満足すべき解答を出す力を私はまだ持たない。しかし、釈尊滅後約百五十年に 大規模な戦争を行った後、仏教に帰依したアショーカ王の故事はこの疑いをうちやぶるきっかけを与えて くれる。『インド古代史』においてコーサンビーは次のように書く。

アショーカは、即位式後八年を経て、破壊的なカリンガ〔今日のオリッサ海岸地方〕戦争の後に回心 したとみずから語っている。この戦いで一〇万人が殺され、その数倍の人々が戦いにともなって死んだし、 一五万人が移送された。この勝利はマウリヤ朝にとって大戦争のうちの最後のものであった。 その後アショーカはカリンガの人民─かれらのうち生き残った人たち─を、あたかも自分の子供のように、 特別の保護を与えた。ちょうどこのころに、かれはマガダの宗教者に耳を傾け始めて仏教徒になった。 この改宗は、しばしば三二五年のローマ皇帝コンスタンティヌスのキリスト教への改宗と比較されるが、 アショーカは国家と結びついた組織的な教会を創設しなかったし、また国教のキリスト教がローマ帝国内 で異教を一掃したと同じ方法で、インドの他の宗教を終息させたのではない。これとは反対に、 アショーカとその後継者たちは、ジャイナ教やアージーヴィカ教に対してもバラモンに対しても寛大に 贈り物を与えた。そして、アショーカは領域内の尊敬に価する老人を訪れ、定期の視察旅行の間に パラモンやあらゆる種類の修業者と会い、宗教の名に価するものには金銭や他の贈り物を与えて援助した。 かれは、「余がおこなういかなる努力でも、余が全生類に負う債務を返済するためにのみ努める」 といっており、これがインドの君主がその人民に対して最初に示した態度であるが、かれの重要な変化は、 ここにみられるほどには宗教的ではなかった。しかし、これは驚くべき新しい生気に満ちた王政の理想 であり、王が国家の絶対的権力を象徴していた初期のマガダの政治論にとっては、完全に異質なものである。
[インド古代史242]

古代の伝説表現で史料が潤色されている面は多いにあるだろう。しかし、コーサンビーはそれらの史料の 中からアショーカの仏教帰依の特異性を冷静に見極めていると思う。そして当時のインドの文明規模 ─現代に比べてはるかに小さい人口、経済、社会体制等の規模─での数十万人の虐殺は、六百万人の ユダヤ人虐殺や広島・長崎での都市単位の殲滅に通ずるような恐るべき打撃を人々に与えた、と思う。 その虐殺の当事者であったアショーカが仏教に帰依したということは、仏教が相応の意義を持っていた はずだ、ということである。
 また大乗仏教における五濁(劫濁、見濁、衆生濁、煩悩濁、命濁)という歴史世界観を考えると、 仏教は現代の苦悩をも十分射程に捉えていたはずだという確信が私にはある。
現代の日常生活におけるささやかな意欲─何も社会全体にまで風呂敷を広げずとも─の達成を願う といったことがらにおいてすら、既にその慎ましい意欲の底に何層にも苦悩が横たわっていることを仏教は 指摘しているのだから。しかし仏教の射程が現代を捉えているはずだという判断が説得力を持つためには、 現代の具体的事象に即して思想展開を行わなければならない。それは今後の私自身への宿題として課す ことにして、今は十二縁起の追跡を進めることにする。



(注)この絵に関しての堀田善衛の記述を引用しておく。

われわれは真に黒々として怖ろしいものに直面しなければならない。
私はこの日の来ることを怖れていた。

『わが子を喰うサトウルヌス』である。
ゴヤは同じ頃(一八二〇〜ニニ)に、鉛筆による、同じ主題のデッサンを一枚描いている。その構図 は壁画のそれとはいささか異っていて、デッサンの方は両手に一人ずつの人間の子供をもった老爺 ─彼自身に似ている─が子供を足から、如何にも美味そうに噛じっているものであった。本番の 壁画は、老爺などではなく、灰色の、のび切ったざんばら髪の、これは巨人である。背景は、 あくまで真暗な闇であり、この巨人、あるいは悪鬼の身体も光のあたったところは、一種不気味な青、 乃至は緑がかった灰色であり、そのぎょろついた眼の、黒い瞳と白目とは、これも怖ろしい対比を なしている。
 この灰色と黒と白は、食べられている彼自身の子供の、青白い皮膚としたたる血をより一層に 禍禍しく強調する結果を来たしている。
 デッサンと、もっとも強烈に異る点は、前者では老爺はいかにも美味そうに舌なめずりをして 子供を食べていたのに、壁画では、どう見ても、この悪鬼自身が、自分の子供を食べるという、 課せられた、そういう宿命に恐れ戦いていると見える点である。
 この巨人、あるいは悪鬼は、印象派の出て来るまでにまだ五〇年はあるというのに、すでに、身 体自体を描かれているのではなくて、光と影のなかに部分を点在させているだけであり、あとはこ れを観る人の想像力に任せているのである。そうして、しゃがんだ恰好の悪鬼の両股のあいだから、 はじめは、巨大な、勃起をした男根が突き立っていたもののようである。修復者がそれを塗りつぶ してしまって、左足の上に、意味をなさない白い光のかたまりを置いたものと見られる。
 おのれ自身の仕業、課せられた宿命に恐れ戦きながら、眼の黒玉を飛び出させて自身の子を喰っ ている鬼が、男根を突き立てている!
これ以上に怖ろしいものがどこかにあるものであろうか。
(私自身はドストエフスキーの小説『白痴』中の人物ラゴージンに、時に、このサトウルヌスを見 ることがあるが。)
お化けや地獄図は、別に怖ろしいというものではない。
それはユーモラスであったり、教訓的であったりすることが出来る。
けれども、この凄まじいレアリスムは、ユーモラスであったり、教訓的であったりすることは不 可能である。
食べられている子供は、子供とはいうものの、尻の筋肉のしまり具合などから見て幼児といった ものではない。それは立派な、一人前の人間である。蒼白な皮膚の色の凄愴さは、流れている血の色に数等まさる。
喰われている子供はすでに頭部がなく、いままさに左腕を肩から噛み千切られようとしている。
(この一文を書きつづけながら、筆者自身も血の気が引いて行くのを感じる。)
そうしてこの子供を、腰のところでがっきとつかまえている巨人の、その指の一本一本の、何と、 酷烈なまでに力強いことか。爪は子供の肉に食い入っているであろうし、あまりに強くつかまえて いるために、流れる血は両の人差指のところで血溜りとなってたまっている。
 つくづく、怖ろしいものを描いたものである。
これが人間だ、人間の世界だ、と魯迅のようにもゴヤは言いたかったものであろうか。この一枚 は、悪夢のように、われわれの夢のなかにまで追蹤して来る。
[ゴヤ285〜287]

絵は次のサイトで見られる。
WebMuseum, ParisのArtist index http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/
ここから「Goya, Francisco de」の項を参照。絵のタイトルは「Saturn Devouring His Son」。

前ページ トップ 次ページ

縁起

目次
引用文献一覧・凡例・更新履歴
1 はじめに
2 典拠による表現と意味
3 考えるということの道具立て
4 縁起表現の表と裏
5 縁起を語る釈尊の姿勢
6 縁起表現の構成
7 十二縁起支の解明
7.1 推理的順序による直列的な解釈例
7.2 縁起支をたどる
7.2.1 老死愁悲苦憂悩
7.2.2 生
7.2.3 有
7.2.4 取
7.2.5 愛
7.2.6 受
7.2.7 触
7.2.8 六処
7.2.9 名色
7.2.10 識
7.2.11 行
7.2.12 無明
7.3 転回
付録1 十二縁起の変節・説一切有部「三世両重因果」
付録2 伝許・伝説─世親の不信表明
付録3 「大乗」のニュアンス─世親、親鸞に通づるもの

 (C)西照寺 2007年来