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縁起
老死愁悲苦憂悩は何に縁ってあるか。それは「生れた」からである・・・・当たり前である!
まるで反抗期の子供が親に向かって「なぜ自分を生んだのか」と文句を付けるような理屈と取れなくも無い。
なぜ、当たり前のことを支分として設けるのか。それは我々の言葉と考え方の根底を点検させるためと思われる。
我々は「自分が生れた」と言うとき、あたかも自分の意志で自律的に生れたかのように思う。しかしこれは
錯覚であって、本来の意味をあえて言葉にすれば「有無を言わさず生れさせられた」という表現に近い。
したがって「なぜ自分を生んだのか」という子の親に対する非難は、親への反抗の形を取りながら、
実はこの事実の重さを感じ取った精神の苦悩の表現ともいえる。そして子に追及された親は、自分らの意志で
子を生んだと答えることができない。皮相的には性欲の結果として子を生んだと言い得るかもしれない。
為してしまった行為による、言葉による解答はそのようにも言えよう。しかしこの言い方はとうてい親自身が
納得できるものでない。「生まれた」という重い事実は次のように表現せざるをえないものである。
人のこの世への出現ないし到来は「生誕」とよばれるが、この到来としての生誕は「環境世界へ投げ入 れられている」ともいえる。しかしこの投げ入れは、投入するものが存在しないところの投げ入れである。
[社会性の哲学8]
「有無を言わさず生れさせられた」─「誰に?」─「誰でもない」。
我々は「生れさせられた」と感ずるのみで、そのとき既に「私を生れさせた」といってその責任を
一方的に親に被せるべきでないことは身にしみて感じている。更にはその「責任」は「生れさせらた」
自分にあるような予感がきざしている。(この生の重圧は苦悩でもある。よって四苦八苦説では生は
苦の一つに分類される。)