真宗大谷派 西照寺

ホーム > 雑文・文献・資料 > 縁起

縁起


7.2.2 生

 老死愁悲苦憂悩は何に縁ってあるか。それは「生れた」からである・・・・当たり前である!
まるで反抗期の子供が親に向かって「なぜ自分を生んだのか」と文句を付けるような理屈と取れなくも無い。 なぜ、当たり前のことを支分として設けるのか。それは我々の言葉と考え方の根底を点検させるためと思われる。 我々は「自分が生れた」と言うとき、あたかも自分の意志で自律的に生れたかのように思う。しかしこれは 錯覚であって、本来の意味をあえて言葉にすれば「有無を言わさず生れさせられた」という表現に近い。 したがって「なぜ自分を生んだのか」という子の親に対する非難は、親への反抗の形を取りながら、 実はこの事実の重さを感じ取った精神の苦悩の表現ともいえる。そして子に追及された親は、自分らの意志で 子を生んだと答えることができない。皮相的には性欲の結果として子を生んだと言い得るかもしれない。 為してしまった行為による、言葉による解答はそのようにも言えよう。しかしこの言い方はとうてい親自身が 納得できるものでない。「生まれた」という重い事実は次のように表現せざるをえないものである。

人のこの世への出現ないし到来は「生誕」とよばれるが、この到来としての生誕は「環境世界へ投げ入 れられている」ともいえる。しかしこの投げ入れは、投入するものが存在しないところの投げ入れである。
[社会性の哲学8]

「有無を言わさず生れさせられた」─「誰に?」─「誰でもない」。
我々は「生れさせられた」と感ずるのみで、そのとき既に「私を生れさせた」といってその責任を 一方的に親に被せるべきでないことは身にしみて感じている。更にはその「責任」は「生れさせらた」 自分にあるような予感がきざしている。(この生の重圧は苦悩でもある。よって四苦八苦説では生は 苦の一つに分類される。)

前ページ トップ 次ページ

縁起

目次
引用文献一覧・凡例・更新履歴
1 はじめに
2 典拠による表現と意味
3 考えるということの道具立て
4 縁起表現の表と裏
5 縁起を語る釈尊の姿勢
6 縁起表現の構成
7 十二縁起支の解明
7.1 推理的順序による直列的な解釈例
7.2 縁起支をたどる
7.2.1 老死愁悲苦憂悩
7.2.2 生
7.2.3 有
7.2.4 取
7.2.5 愛
7.2.6 受
7.2.7 触
7.2.8 六処
7.2.9 名色
7.2.10 識
7.2.11 行
7.2.12 無明
7.3 転回
付録1 十二縁起の変節・説一切有部「三世両重因果」
付録2 伝許・伝説─世親の不信表明
付録3 「大乗」のニュアンス─世親、親鸞に通づるもの

 (C)西照寺 2007年来