真宗大谷派 西照寺

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縁起


7 十二縁起支の解明

7.1 推理的順序による直列的な解釈例

 『般若思想史』に推理的順序による順観の解説が載っているので、引用する。なお見やすくする ために各支ごとに段落を分け支分の名前を表示した。

(老死愁悲苦憂悩)
佛陀の成道は、愁悲苦悩悶等を妊む人間苦の解脱を目的とし、かやうな苦悩から脱せんとして、 その苦悩の原因を究明することから出発したものであるから、現實の人間として避けることの できない老死によつて代表せられるこの苦悩が、抑々何に縁つてあり、何が生ずるによつて生 ずるかと、老死の因縁が探求せられて行つた。

(生)
そしてそれは、自己がこの人の世に生れ合はしてゐるからである、といふやうに、老死の因縁 として生が見出されて行つた。實に老死は生に縁る、生あるに縁つて老死あり、生生ずるに縁 つて老死が生ずるのである。それではその生は何に縁つてあり、何が生ずるに依つて生ずるの であるか。

(有)
それは輪廻の境界に属するからである。即ち有に依るのである。有とは人間が輪廻し、さ迷つ てゐる三有─欲・色・無色の存在であり、人間がそこに執著してゐる所愛著処である。若しこ れを内観的に考へるならば、生死輪廻をそこに豫感するやうな業有・業力とも云ふことができ るであらう。かくの如き有は何に縁つてあり、何に依つて生ずるのであらうか。

(取)
それは人間が自己、及び自己の意見、行爲、その他に執著する取に縁つてあるものと考へられる。 或は、有を存在論的に解釋して、三有に於ける個人の生存を、そこに引き入れ得るやうに、 色受想行識なる五蘊を和合することが取であるとも云はれる。即ち存在の各々の刹那に五蘊の 和合を形成するところの、別の言葉で云へば、諸々の要素を間断なく吸収するところのはたら きである。五蘊を絶え問なく新にする営養である。更にこの取は何に縁つてあり、何が生ずる に依つて生ずるのであるか。

(愛)
それは愛に縁つてあり、愛生ずるに依つて生ずるのである。吾々が物に執著し、物を追求する 取のはたらきを有してゐるのは、その根本に愛欲があるからである。愛欲は生命欲である。 この愛欲が強く表面に現はれたときに取と呼ばれる。

(受)
しかるに、その愛が動き出すのは客観の刺戟に依るのであるから、そこで愛生起の心理的経過 をあらはして、愛は受に縁つてあり、受生ずるに依つて生ずると云はれる。受とは苦・樂・捨 の三受であつて、それは感受性である。またこの受は何に縁つて生じ、何が生ずるに依つて生 ずるのであらうか。

(触)
それは触に縁るのである。即ち受は外界との接触なくしては形成せられ得ない。そしてその 接触は、眼耳鼻舌身意なる六個の感覚器官、即ち六根によつて起るときの感覚である。 それではこの触は何に縁つてあり、何が生ずるに依つて生ずるのであるか。

(六処)
それは六処あるがためである。六処(六根)に縁つて触があり、六処生ずるに依つて触が生ずる のである。更にこの六処は何に縁つてあり、何が生ずるに依つて生ずるのであるか。

(名色)
それは名色が生ずるに縁るのである。かかる感覚に關する心理的機能は、名色なる吾々の個体、 即ち心身を豫想せずには置かない。名色とはエレメンタリーには、名は五蘊中の受想行識の 四無色蘊、色は地水火風の四大種と大種所造との色蘊といふことになるが、それは意識統一 としての識を除いた受想思触作意等の具体的な個々の心的作用と、客観認識のための門である 六根を具足した身体とである。更にまた、かやうな名色は何に縁つてあり、何が生ずるに依つ て生ずるのであるか。

(識)
それは識あるによるのである。名と色とが統一せられて有機的個体として存在するがためには、 そこに能統一としての識がなくてはならない。かくの如くして釈尊は現實の苦悩の根源を求めて、 それは識あるが故にとせられた。「諸法は心に導かれ、心に統べられ、心に作らる」といふやう な有名な法句経の金言はその点を述べるものである。そして識の滅によつて名色の滅あり、乃至、 生の滅によつて老死の滅あり、これが即ちすべての苦蘊の滅であると諦観せられたのである。

(行)
更にこの識の性格を究明し、解剖して見るならば、この識は無明によつて覆はれた心の行動、 即ち行によつて内容づけられることが知られる。経典によれば行は所識の住・所依であると称せられ、 それは「我れあり」とする意志と同一視せられる。

(無明)
そしてその行が人間を渇愛によつて苦しまされ、老死によつて悲しまされるやうな素因のものに 形成するのは、人間が眞實(tattva)に対して無智無明なるがためである。無智無明が吾々の存在 といふものに本来具した苦悩の最後の因である。
[般若思想史10]

 一読してどうだろうか。十二の支分を遡る形で整然と説明が展開している。各支分の意味も簡潔 に説明されているので、生なまの十二支の定型句を読むよりははるかに良く分る。 その点から言えば十二縁起の説明として「ああそうか」と一応は頷くことができる。しかしまた、 一方的な解釈の印象も否めない。この説明を読んだ後、「それで?それがどうしたの」という距離感が残る。
 この印象は多分に十二縁起の公理的な定式化表現から来るものだろう。十二縁起表現は既に覚り を得た者が、その内容を整理したものといえる。文章表現としては完成度が高く、記憶に便利だが、 それと引き換えに覚りに到るまでの試行錯誤、その道程の涯の精神の飛躍といった、縁起を発見するに 到った求道者の具体的な心境が捨象されてしまっている。後からこれを読み、自己の思想の血肉に しようと望む者は、捨象された具体的心境を己の経験として再現しなければならない。
 私は、この『般若思想史』の十二縁起解説を道標とし、同じように支分をたどりながら、求道者の 心境を再現することを試みようと思う。(なお、支分の番号付けは無明からではなく、たどる順番に したがって老死愁悲苦憂悩から行う。)

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目次
引用文献一覧・凡例・更新履歴
1 はじめに
2 典拠による表現と意味
3 考えるということの道具立て
4 縁起表現の表と裏
5 縁起を語る釈尊の姿勢
6 縁起表現の構成
7 十二縁起支の解明
7.1 推理的順序による直列的な解釈例
7.2 縁起支をたどる
7.2.1 老死愁悲苦憂悩
7.2.2 生
7.2.3 有
7.2.4 取
7.2.5 愛
7.2.6 受
7.2.7 触
7.2.8 六処
7.2.9 名色
7.2.10 識
7.2.11 行
7.2.12 無明
7.3 転回
付録1 十二縁起の変節・説一切有部「三世両重因果」
付録2 伝許・伝説─世親の不信表明
付録3 「大乗」のニュアンス─世親、親鸞に通づるもの

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