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縁起
李鍾徹『世親思想の研究』は、世親の著作でも日本の宗派仏教では馴染みの薄い『釈軌論』や
『縁起経釈』などを資料として世親の思想を研究したものであるが、縁起に関して重要な解釈
展開が為されている。ここではこの書を参照しながら、縁起の全体的な特徴を挙げてみる。
世親は『縁起経釈』で経を引用して縁起を定義している。
縁起とは何かと言えば即ち「これ有るときあれ有り、これ生起するが故にあれ生起する」ということである。
[世親思想の研究106]
また倶舎論では
「これ有るときあれ有る、これ生起するが故にあれ生起する」という二句の意味がまさに「縁起」の意味である。
[世親思想の研究121]
すなわち縁起の型の前半を縁起の定義としている。 つまり縁起の型の意味は前半の二句に集約されているということである。また『釈軌論』では
(1)"縁起とは何か。即ち「これ有るときあれ有る、これ生起するが故にあれ生起する」ということである" と説かれていることは総説である。
(2)"即ち無明を縁として諸行が有る云々" と説かれていることは各説である。
(番号は筆者が振った。)
[世親思想の研究125]
と規定し、『縁起経釈』では
(1)「これ有るときあれ有る、これ生起するが故にあれ生起する」とは、縁起の初分を無差別的に説明する ものである。何となれば縁起の諸支分に関して説かないからである。
(2)「無明を縁として諸行が有る云々」とは、縁起の諸支分に関して分類し説くから縁起の初分を差別的に 説明するものである。
(番号は筆者が振った。)
[世親思想の研究126]
以上から次のようにまとめることができる。
(1)縁起の型は個別の「これ」と「あれ」との関係規則を示している。またその意味は前半の二句に集約 されている。縁起の型は総説である。また初分という。
(2)「無明を縁として諸行が有る云々」すなわち十二縁起は縁起の型を個別の十二個の「これ」と「あれ」 に適用したものである。十二縁起は各説である。十二個それぞれを支分という。
(3)縁起の表現は「縁起の型+十二縁起」で一まとまりである。
さて、世親の言及している縁起の表現は支分が無明からはじまっているので、十二縁起である。「各説」
としての十二縁起は、歴史的には様々な縁起説の完成形として定式化されたもののようである。 十二の支分
に到る前の縁起説としては、十支、九支等の縁起説があり、それぞれに意味が異なる領域を扱っていたという
説もある。([仏教学序説70][法と縁起494])
しかしここでは「縁起の型+十二縁起」の表現に縁起の意味が集大成されているとみなし、その解読を進め
ることとする。
「縁起の型+十二縁起」は、一見して完成度の高い表現であるため、釈尊当時から部派仏教の時代に到る
までの間に練り上げられたものとみなすのが妥当だろう。したがってそれは釈尊の覚りへのプロセスを生の
まま表したものではないだろう。私がこの表現を読んで受ける印象は、記憶に利するために定型句として
配慮され、表現の順序にはあまり関係なしに要点が圧縮整理された姿である。必要な内容は全て詰め込んで
あるが、字面の順番に追って理解しようとしても、歯が立たない、あるいはどこかに無理が生じる。
例えれば、そのまま食べるわけにはいかない、カップヌードルなどのフリーズドライ食品のようなものである。
食べるためには湯を注ぎ元の形と量になるまで三分間待たなければならない。その後、中身をあれやこれや
と味わいながら納得する。縁起の表現をカップヌードルとすれば、湯は自分の読解力・想像力にあたる。
では、湯を注いで元の形に復したとして、どのように食べ始めれば良いのだろうか。私はやはり釈尊の
出家の動機と同じように「老病死憂悲愁苦」という具からはじめるのが適当と思う。そこから追体験する形で
十二支をひとつひとつたどってみる。いわゆる「推理的順序による順観」([仏教学序説84])
である。とりあえずはそれぞれの具を順序通りにこなしていくのだが、ある具を食べてみると、おや、この
具はさっき食べた別の具とこういう味の組み合わせで入れられていたのかと気づき、もう一度前の具に戻って
みたりもする。そういう行ったり来たりの中で、段々と十二個の全体としての組み合わせの意味が明らかに
なってくると思う。