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縁起
ここからの三支、識・行・無明は釈尊の「最初の覚りの現場」では、おそらく分割されないものとして 到達されたのだろう。そしてその分割されないものを「識」と名付け、十支縁起の系列の表現がなされた ものと思う。([仏教学序説87]の記述を参照。) それでは何故、さらに行・無明の二支を追加した十二縁起説が出てきたのか。それはこの「識」が、輪廻 の生れ換りの主体のアートマン(我)と誤認される恐れがあったことによるのではないか。そのように 誤認されてしまうと通俗的・実体的な六道輪廻思想に転落する。
さらにこの危険をまぬがれても、識が梵我一致の主体と誤認される危険性がまだ残る。ここで誤認さ れると「バラモンの覚り」に転落する。そして現に部派仏教や大乗仏教のある種の思想、また現代の仏 教学者の記述でも、この誤認に陥っているのではないかと思われる表現を見る。
これら二つの危険性を排除するために、識を分割し行・無明を追加したものと思う。
名色によって存在世界全てを捉えられることを知った。それは有としての流転輪廻する苦悩に満ちた 世界であり、そこに「私がある」というあり方を取・愛・受・触・六処と検討してきて、有から離脱する 道は皆無であることを知った。 そして、これを「知るもの」とは何なのだろうか。それは「識」すなわち「私の心」である。 「私の心」がこの無限に苦悩する世界の一切を把握している。