真宗大谷派 西照寺

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縁起


7.2.8 六処

 では触は具体的にはどのように起るのか。食欲の例に依って続ける。
 食欲が発生した時点では意(意識、想念)の中に獲得するべき目標物として食物を思い描く。 それはうどんやステーキといった個別のメニューだったり、木の実や鳥や魚といった料理前の 生きている対象だったりで、当人の生活環境によってさまざまであるが、とにかく目標物が 想念の中に形作られ保持される(概念となる)。仏教では概念を指して「法」という。
 次にそれを獲得する行動に移る。
親にせがむ場合は眼で親を探し、声で呼びかけ耳で親の応答を受ける(とともに自分の声も 耳で聞いている)。そして親に手(身)で触れ要求のしぐさもする。
店に食事に出かける場合は眼(看板)や耳(宣伝の呼込み)や鼻(漂い出す料理の香り) で店を探し出しそこに入る。
採取や猟の場合は、眼・耳・鼻・身の感覚を鋭くし発見と採集・捕獲に集中する。
首尾よく心に描いた食物を獲得した後にはそれを食するが、このとき舌による味はもちろんだが、 眼によって食物の色形、鼻によって食物の香り、歯触り舌触り喉越し(身)によって食物の触感を 「味わう」。そして飲み下された食物が腹に収まると、食欲は消滅していき、心に描いた目標物も 消えていき、満足感で終止する。
 このように愛の具体例である食欲一つにおいても、身体の総ての感覚器官が自動的に総動員 されて欲望の達成が計られるのを見る。その感覚対象と感覚器官は次のような六組にまとめられる。

六処
六外処(感覚対象)六内処(感覚器官)
  • 六外処と六内処を合わせて十二処という、
  • この表を見ていると面白いことに気づく。それは器官は受動的即ち感受する=触に関わ るものが主として挙げられており、能動的な器官、即ち声を発生する器官(口または喉)が 無いということである。口や喉は身の中に省略されている感があり、自分が出した声も発 生源は問わず、結果の声を耳で聞いて認識するという受動的立場が見て取れる。
       

生きるとは欲望状態にあることであり、それは六処が活動状態にあることである。

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目次
引用文献一覧・凡例・更新履歴
1 はじめに
2 典拠による表現と意味
3 考えるということの道具立て
4 縁起表現の表と裏
5 縁起を語る釈尊の姿勢
6 縁起表現の構成
7 十二縁起支の解明
7.1 推理的順序による直列的な解釈例
7.2 縁起支をたどる
7.2.1 老死愁悲苦憂悩
7.2.2 生
7.2.3 有
7.2.4 取
7.2.5 愛
7.2.6 受
7.2.7 触
7.2.8 六処
7.2.9 名色
7.2.10 識
7.2.11 行
7.2.12 無明
7.3 転回
付録1 十二縁起の変節・説一切有部「三世両重因果」
付録2 伝許・伝説─世親の不信表明
付録3 「大乗」のニュアンス─世親、親鸞に通づるもの

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