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縁起
釈尊は「老死愁悲苦憂悩」から離脱する道を求めて出家したと言われている。この、道を求める、すなわち
求道の欲求は様々に表現されている。例えば親鸞の時代には「生死出づべき道」と言われていた。
(親鸞の妻、恵信の手紙による。[真宗聖典616])
同じ課題が西洋哲学の歴史では「汝自身を知れ」という問いに表されてきた。そしてこの視点が仏教に本来備わって
いることを道元は「仏道をならふといふは、自己をならふ也」という言葉で表現している。
([正法眼蔵(一)54])
また清沢満之は「自己とは何であるか。これは人生の根本問題である」と表現している。
([清沢満之語録431] 原文は「自己トハ何ソヤ 是レ人世ノ根本問題ナリ」
[清沢満之全集第八巻363])
この求道の欲求は我々人間に必ず備わっている普遍的なものであるとみなして良い。そうすると求道とは「考えること」
によって問いへの解答を見出すことにほかならない。ここで縁起の意味の探索に入る準備として、「考える」という行為の
仕組みに関係する道具立てを検討しておこう。
考えるということは「言葉を使って考える」ということである。 言葉はあくまで考えるという行為に従属する道具ではあるのだが、言葉無しに考えはありえない。また考えと離れた言葉もありえない。
言葉は「・・・は・・・である」という言い方によって、ものごとをとらえ考えとして表すことができる。
ここで「・・・は」に当るものが主語であり、名詞である。名詞は考える対象を限定し「名札」を付ける
働きをし、その名札で「考える」という行為から操作可能となる。
考えを起すものを「自」(「自分」「自己」「私」)と名付け、そうでないもの(「他」)には別の名前を付けて区別する。
この名付けと区別によって考えは、その対象と対象の集まりを理解・把握していく。
現代語では、考えを起すもの、すなわち自分を「主体」と呼び、自分を除いたもので考えの対象となるもの
を「客体」と呼ぶ。仏教では主体を「能」、客体を「所」で表す。
主体と客体に分けることにより自と他を考えにて把握できるようになる。これを「分別(分析)」という。
すなわち、考えは自他(能所)の分別で構成されると言える。
考えは言葉によって対象をとらえ、自(主体、能)と他(客体、所)との関係として分別していく。
他を把握するしかたは、五感の接触(見る、聴く、嗅ぐ、味わう、触る)で、その感覚を元に把握(直接知覚)
するものと、さらにそれらの
感覚を記憶し、考えの中で対象同士の新しい関係を分別し構成するもの(すなわち頭の中だけ=想像のもの)の
二種になる。
このように、考えが働く場として、直接知覚と記憶と想像の力が備わっていなければならないことになる。
これらの力を持ち、維持し続ける場が心(精神)である。
心に蓄積される能所の対象は、それらの関係性の分別や新しい関係性の構築などを通して増殖し、
それがまた蓄積される。これが「概念」である。
概念は蓄積されることにより考えの活動の場としての心を拡大させる働きを持つ。
五感による直接知覚の主体、客体が「ある(有る、在る)」場として「空間」という概念が把握される。 また、心において分別の働き(考え)が動きはじめるとき既に「空間」の概念が備わっているといわざるをえない。
五感による直接知覚の対象は心においては「ある」と表される(概念となる)。
その対象が記憶になったとき「あった」と表される。その対象が「次にある」ものと想像されるとき「あるだろう」
と表される。
この「あった」「ある」「あるだろう」の概念は過去・現在・未来という名称で表され、ひとまとめにして
「時間」という概念で把握される。また心において分別の働きが動きはじめるとき既に「時間」の概念が備わっ
ているといわざるをえない。
そのように心において概念の多様化が進み、時間と空間を常に考えながら分別していくとき
それは「生活」という概念となる。生活を考えるとき「現在」においては五感の対象としての空間の涯は
どこだろうという疑問が出てくる。つまり「世界はどこまで広がっているのだろう」という疑問である。
また生活における「過去」「未来」を考えるとき「はじめ」と「おわり」について考えが及び、はじめを
「生」、おわりを「死」という概念でとらえる。「生」と「死」は「自分の生まれる前」「自分の死んだ後」に
ついての「自分」というものの「あり方」に対する疑問を生む。何故なら生まれる前、死んだ後の自分というものを
概念として心に作ることができるからである。しかしそのような自分が「あるとは言えない」という矛盾にぶつかり
疑問への解答は与えられない。その結果、この疑問は漠とした不安として心に蓄積される。
我々は考えるという行為を殆ど無条件的に行っている。「考える」という自動詞を使うと、己の意思で 自律的に行っている意味になるが、しかしそれは同時に「考えさせられている」あるいは「考えざるを えない」という他律的な側面が必ず付きまとう。「考える」私を意識するとき、「考えない」私という 選択肢などありようの無い事態に直面させられているのだから。今村はこれを「与えられて─ある」と表現する。
生きて─あることは、存在が与えられて─あることである。人は与えられて─あると感じつつ─ある。 人が現世のなかに投入されて存在することは、さしあたっては環境のなかにある他人や事物に向かって 投入されるのだが、自己の存在を与えてくれる何ものか(後でも見るように「与える働き」)に向かって 投入されている。自己の存在が単に「ある」のではなくて、「与えられて─ある」と感じつつ─あるので ある。[社会性の哲学9]
そのような他律的な面から言えばそれは宿命的とも表現できよう。その「考える」という行為はここ で挙げた要素が関連し合い、構成されているといえる。