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縁起
名色という言葉はウパニシャド由来であり、それが仏教に取り入れられて仏教的意味付けに 改変されたものである。その意味は五蘊に等しい。そして五蘊は五取蘊であり第四支の取と同一である。(注) 名色と五蘊の対応関係及びその意味を表にまとめると次のようになる。
五蘊 | 意味その1 | 意味その2 | |||
名 | 受 | 心の個別的はたらき | 有情の心 | 有情の心 | 一切法(存在全体) |
想 | |||||
行 | |||||
識 | 心そのもの | ||||
色 | 色 | 肉体 | 有情の身 | 物質全体 |
[仏教学序説96]の内容から作成。
これらの意味を言い換えれば次のようになる。
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意味その1
名は「私(がある)」と意識するときの「私」の心の内容すべて(心で認識する感じ(受)、心に作られ 蓄積される概念(想)、心の動き(行))である。
色はその「私」の身体である。
よって名色は「私の心身」である。 -
意味その2
名は意味その1に同じであるが、想すなわち概念の範囲が拡大徹底し「私の認識する世界のすべての概念」となる。
色はその「私」が認識する物質世界全体である。
よって名色は存在論となる。したがって第三支の有(三界)と等しくなる。
六処は名色によってある。
すなわち、六処という活動形態は「私」という主観における名色によって支えられている。
(注)このような、現代の文章表現の常識からすると掟破りとも言うべき論理展開や語彙の不統一性
が、十二縁起を表面上ますます複雑難解なものにし、また信頼性を下げている。
つまり各支の間の「Aあるが故にBあり」の連鎖を、原因を絞り込んでいく論証体系とみなしてしま
うと、第四支「取」の原因を絞り込んでいったら第九支に「名色」と名を変えた「取」がまた顔を出し
てきた、ということになってしまうのである。すなわち「取の原因は取である」という同語反復になっ
てしまう。
我々はここで、まともな論理ではない、人をバカにしているのか、と十二縁起への理解の熱意が一
挙に失せてしまう心境に陥りかねない。
しかし、これまで見てきたように各支分の関係を、原因を絞り込んでいく論証体系とみなしてはな
らないのである。一連の論理の連鎖は同一のことがらの多面的な性格をえぐり出しているといった
方が適切で、「名色」と名を変えているからには「取」とは異なる面に注目して要点としていると見る
べきである。同様のことが受、触、識、行についても言える。