真宗大谷派 西照寺

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縁起


付録1 十二縁起の変節・説一切有部「三世両重因果」

部派仏教時代に入って十二縁起の解釈は変節していった。

 縁起説を中心として原始仏教の教義を概観して来たが、このような意味をもった十二縁起説が、 次の部派仏教時代になると、次第に原意から遠ざかって、勝手に解釈せられるようになった。すなわち、 十二縁起説をもって、有情が迷いの生を流転輪廻する、その経過を示したものである、と理解する一派 が顕われるに至った。説一切有部(略して有部)といわれるものがそれである。これは、人間苦の深さと 広さとを示すために説かれたところの迷いの生の苦しみ、すなわち輪廻苦が、実体的に理解せられるに 及んで、十二縁起の十二の支分の一々を、迷いの生の或る一定の期間を示すものと見たことから、この ような解釈が生まれたのである。大体において、保守派に属する上座部の人たちは、こういう思想的 傾向にあったようであり、その中でも最も極端な実有論を主張したのが、さきの有部であった。
[仏教学序説104]

その「極端な実有論」である説一切有部の十二縁起解釈は次の通りである。長くなるが引用する。

 説一切有部では、周知のごとく、十二縁起を三世両重因果の立場で解釈し、 輪廻の相状を示すと理解している。即ち『大毘婆沙論』巻二三や、『倶舎論』 巻九等によると、十二支縁起のうち、 無明と行の二支は過去世に配され、
次の識・名色・六処・触・受・愛・取・有の八支は現在世に在り、
生・老死の二支は未来世に存するとなし、
十二支を三世に配当する。
即ち過去世の無明と行の二因によって、現在世の生存が規制される。それが識・ 名色・六処・触・受の五果である。
さらに愛・取・有の三支が現在世の三因であり、生・老死は未来世の二果である。
ここに過去世の二因、現在世の五果、現在世の三因、未来世の二果と、三世に 因果が二重になっているので、「三世両重因果」という。
しかも過去世の無明は、現在世でいえば、愛と取と同じであり、過去の行は現在 世の有に相当するという。故に過去世の二因(無明・行)と、現在世の三因(愛・ 取・有)と同じであると見る。
さらに現在世の識は、未来世の生に相当し、現在世の名色・六処・触・受は未来 世の老死に相当するという。故に現在世の五果(識・名色・六処・触・受)と未来 世の二果(生.老死)と同じであると見る。
即ち、未来世は生・老死の二果であるが、これは実質的には、識・名色・六処・ 触・受に相当し、したがってそのあとに、愛・取・有の三支がつづくべきである。 したがって、次の世に、生・老死の二果がつづくと見ねばならない。
無明過去世 二因
現在世 五果
名色等同
六処 等同
等同
三因
等同
未来世 二果
老死


上記説明を図にしてみた。有部の思想家は覚りの実践ではなく、概念体系の構築に 耽溺したのだろうと思わざるをえない。まるで言葉のギミックである。(星研良)
 かくのごとくにして、十二縁起はたんに三世の因果を示すだけでなく、輪廻の 生存がどこまでもつづくことを示していると解釈するのである。故に十二縁起は 「輪廻の相状を示す」と解釈する。したがって有部の解釈では、十二縁起は「順 観」に重点がある。逆観は必要ないごとくである。

 しかし説一切有部は、縁起をもっと広く解釈しているのであり、『婆沙論』や 『倶舎論』には、「刹那縁起」・「連縛縁起」・「分位縁起」・「遠続縁起」の 「四種縁起」を説いている。

 第一の刹那縁起とは、一刹那の諸法に十二支が含まれていると見るのであり、同 一刹那の諸法の相互関係の中に十二支縁起の成立を理解する見方である。これは 縁起を、同時間の上の相互関係で解釈するのである。

 第二の連縛縁起とは、十二支が中間に他の法を介入せしめないで、連続して起る ことを言うのであり、十二縁起にはこのように各支が連続して起る関係もあると見る。

 第三の分位縁起はさきの三世両重因果の立場での解釈を言う。これは十二支のす べてが五蘊から成立しているのであるが、この中、無明の力が強い場合にこれを 「無明」の位と呼び、行の力が支配的な場合を「行」の位と名づける。第三の識 支は、母胎に受胎した初刹那の五蘊をいう。そこにはすでに微細な五蘊が備わっ ているが、しかしそれらの中で識が優勢であるので、識支と名づける。即ち、力 の強いものにしたがって十二支の区別がなされると見る解釈であり、五蘊の中に、 十二の位を区別して支を立てるので分位縁起という。 そして説一切有部としては、四種縁起の中で、この分位縁起をもって、十二縁起 の正しい解釈と見るのである。

 最後に第四の遠続縁起とは、遠い時間を隔てて、因果の連鎖が成立することをい う。例えば「無明を縁として行あり」という場合に、無明と行との間に時問的に 隔たりのある場合を言うのであり、十二縁起はそのような時間的問隔を隔てても 成立すると言うのである。

 以上のごとき四種縁起の解釈には、縁起についての多彩な解釈が含まれている。 説一切有部は、このような広い解釈を認めつつも、しかも「三世両重因果」の解 釈である「分位縁起」をもって、十二支縁起の正規の意昧であると見ているので ある。但し『倶舎論』を著した世親は、この分位縁起の解釈に不信感を持ってい たので、

 伝許すらく、位に約して説く、勝に従いて支の名を立つ。

と述べて「伝許」の語を冠して、有部の分位縁起の説を紹介している。そして世 親は有部の十二縁起説を説明したあとで、

 我れ今、経に符順する義を略し顕わさん。

と述べて、次に十二縁起に関する世親自身の解釈を示している。それは輪廻の立 場で十二支を解釈したものであるが、阿含経の説を豊富に取り入れて解釈してい るので、「経に符順する義」と言っているのであろう。但し世親の解釈がとくに すぐれた解釈とも思われないし、後世に影響を与えたとも思われない。故にここ には、取り上げることを省略したい。

 ともかく有部の「分位縁起」の解釈は、世親も不信感を示すような解釈であるか ら、原始仏教の十二縁起の解釈と大いに異なっていることは言うまでもない。同 じ十二縁起の解釈と言いながらも、有部の解釈は原始仏教の解釈から大幅に異な ったのである。その一つの理由は、原始仏教の十二縁起の解釈が必ずしも明瞭で なかったということにあると考える。

 有部では、悟りの智慧を得るのは、四諦の観法によるとなしている。 まず凡夫の段階での修行は「三賢・四善根」というが、四善根の段階から四聖諦 を十六行相で観ずる観法を修する。
四善根とは、煖・頂・忍・世第一法の四位である。修行が進むにしたがって、こ の四段階をのぼり、最後の世第一法に達する。
そして世第一法の直後に見道に入 るが、このときから聖者の位に入り、悟りの智慧が生じ、この聖智によって煩悩 を断ずる。但し修行の方法は、まえと同じく四諦の観法であり、四諦を十六行相 で観ずる。
見道では欲界の四諦を観じて、苦法智・集法智・滅法智・道法智を得て煩悩を断 ずる。但し智を得るまえに「忍」を得るので、苦法智忍・集法智忍・滅法智忍・ 道法智忍の四忍を得る。 さらに色界・無色界の四諦を観じて、苦類智忍・苦類智、集類智忍・集類智、滅 類智忍・滅類智、道類智忍・道類智の四忍・四智を得る。 見道では、この欲界・色界・無色界の四諦を観じて、八忍・八智を得て、八十八 種の煩悩を断ずる。即ち煩悩を断じうる悟りの智慧は、四諦の観法から生ずると 見るのである。 なお八忍八智の最後の道類智は修道に属するが、修道は預流果・一来果・不還果 等であり、最後の阿羅漢果は無学道に属する。
ともかく修道の修行も四諦十六行相観を修するのであり、これによって修惑を断 じて、四果を得るのである。

 以上のごとく、説一切有部の修行は四諦に基づいて組織されており、十二縁起観 はその中に含まれていない。十二縁起説は悟りのための観法から除かれ、 輪廻の説明の教理に貶められたのである。
[法と縁起442]

さて、このような解釈に不信感を抱いていた世親自身の十二縁起の説明が 「我れ今、経に符順する義を略し顕わさん。」として始まるが、その部分を当ってみた。
イ:[真諦譯對校 阿毘達磨倶舎論第二巻151]
ロ:[倶舎論の原典解明230]
イよりはロの方が言葉が補われていることもあり若干判りやすいのだが、受ける印象は 確かに平川が言っている通り精彩を欠く。世親も有部の衒学的こだわりに辟易し、この文章を 書くときは疲れが溜まっていたのだろうか。


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目次
引用文献一覧・凡例・更新履歴
1 はじめに
2 典拠による表現と意味
3 考えるということの道具立て
4 縁起表現の表と裏
5 縁起を語る釈尊の姿勢
6 縁起表現の構成
7 十二縁起支の解明
7.1 推理的順序による直列的な解釈例
7.2 縁起支をたどる
7.2.1 老死愁悲苦憂悩
7.2.2 生
7.2.3 有
7.2.4 取
7.2.5 愛
7.2.6 受
7.2.7 触
7.2.8 六処
7.2.9 名色
7.2.10 識
7.2.11 行
7.2.12 無明
7.3 転回
付録1 十二縁起の変節・説一切有部「三世両重因果」
付録2 伝許・伝説─世親の不信表明
付録3 「大乗」のニュアンス─世親、親鸞に通づるもの

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